第5話 歪線と修正液
「……行こうか。ヴィニシウス」
「貴公は行くというならば、どこまでも行こう」
一人で何度か
スライド式の自動ドアの向こう側は、大きく開けたホールになっていた。
床には社名でもあるハピネスの文字が、環状にぐるりと続く壁には、“人生に
それらのメッセージを一瞥するだけで、一切読もうともせずロンドンは淀みない足取りで進んでいく。
『あなたの人生に、ハピネスを! 私たちハピネスは、ライフポートレート時代から続く清涼活力剤パイオニア、ライフプランニングサポーターの第一人者として、長きにわたって世界をリードしてきました。あなたが涙を流すほど悲しいときも、痛みに叫びたくなるほど苦しいときも、衝動に自己制止が効かなくなるほど怒りを抱いたときも、ハピネスがあれば大丈夫! あなたの全ての感情を幸福に転化いたします! 私たちがいる限りあなたの笑顔が絶えることはありません。あなたの人生に、
機械のように正確な調子で、女性が何度も同じ台詞を繰り返す。
それは頭上に設置された、巨大モニターに映るコマーシャルから聴こえるものらしい。
整髪剤できっちりと固められたシニヨンヘアーの女性は、画面の向こう側で瞬き一つすることなく笑顔を保っている。
そのほとんどの間もなくループされる宣伝放送が、ロンドンはやけに耳障りに感じた。
「寡占、いや独占企業というやつか。文明が進んだ世界線では、こういった大企業をよく見かけるが、その中でもここはトクベツに思える」
「だね。ほとんど支配と言っていいかもしれない。リズはハピネスを持ってないと言っていたけど、彼女はかなりの変わり者みたいだ」
壁の一部に描かれた、数字と地図で描かれたグラフを横目に見ながら、ロンドンはこの世界線でハピネスがどういった立ち位置にあたるのかを、おぼろげながらも理解した。
どうやらこの世界線番号943では、ハピネスと呼ばれる活力剤の一種が広く普及していて、少なくとも都市部の人間はそれを依存といっていいレベルで常用しているようだ。
あらゆる感情を幸福に変換させるという効能は、たしかに一見魅力的に聞こえるが、ロンドンはどうしても素直に受け止めることができない。
試しに自分も服用してみようとは微塵も思わなかった。彼にとって幸福とは、錠剤を一飲みすることで得られるような、インスタントなものでは決してなかったのだ。
「さっさとこの世界を救って、おさらばしよう」
首にかけた金属質のリングを軽く指で弾きながら、ロンドンはシンプルな上下の矢印スイッチで動かすことのできる昇降機を待つ。
他にもハピネスの社員らしき男が二人ほどロンドンの後ろに並ぶが、誰も彼に話しかけようとはしない。
一人だけ宵黒の外套を羽織り、肩にカシカシと音を立てて首を回す機械の鳥を乗せているというのに、その異質さを指摘するものは誰もいなかった。
「いつも思うけれど、この
「今更何を不思議がっている。擬態こそリーバーの特性であり、宿命だ。どの世界線にいてもリーバーは空気や引力法則のように当然のものとされ、他者に違和感を覚えさせることはない。貴公が自分はここにいて当たり前だといえば、周囲もそれを肯定し目を瞑り、貴公が自分はここにいるべきではないと主張すれば、周囲はそれを肯定し道を譲るだろう」
「だからそれが、不思議だなって言ってるんだよ。それに、その擬態(アジャスト)も長くは続かない。ある程度時間が経つと、僕の存在は決して受け入れられない異物となり、人々はもちろん、世界そのものから拒絶されるようになる。僕はどこにでも行けるけれど、僕はどこにも住めないんだ」
「それこそがリーバーだからな。望むままの自由の代償は、安らかな停滞の喪失だ」
「自由ね。そういえば聞こえはいいけれど、僕は自分で自由を選んだ覚えはないよ。自由になることを強制されたんだ。それは本質的に自由と呼べるのかな?」
「自由を選択する自由か。難問だな」
「まあもう過ぎたことだから、考えるだけ無駄なんだけどね」
「では仮にリーバー、もし自由を選択する自由が与えられたとき、貴公は自由になることを選ばないのか?」
「……さあ、どうだろうね。隣の芝生は青い。ヒトはいつだってないものねだりばかりしているから」
「隣の芝生は青い? 芝生は青い方が嬉しいのか? 芝生は長ければ長いほど青く見えると思うが、長すぎても鬱陶しくないか? ほどほどに青い方が良いとワガハイは思うが」
「知らないよ。僕は自分と他人の芝生を比べたことはないからね」
ヴィニシウスとの会話を適当に打ち切ったところで、昇降機の扉が開く。
狭い長方形の閉鎖空間に乗り込むのは、ロンドンだけだった。どうやら下方に用事があるのは彼だけらしい。
迷うことなく最下階のボタンを押すと、僅かな振動と共に昇降機が動き出す。
機内に設置された小型のモニターにも、玄関ホールで見かけたものと全く同じ広告動画が映し出されていて、ロンドンはうんざりした。
ほどなくして昇降機の階数表示の変化が止まり、メタルボディの扉がするりと開く。
一番下の階は、両側が透明な壁になっている長い廊下が伸びていた。
「たぶん、この先だ」
「ふむ。ここは一種の研究区画といったところか」
「どうだろうね。標本置き場といった方が正しいんじゃない?」
人気のない廊下を進みながら、透けた壁に目をやると、そこにはずらりとボトルが整頓に並べられているのが見て取れる。
ボトルの中身は様々で、紫色の煙が粒子跡を描きながらゆっくりと拡散と収縮を繰り返しているものもあれば、内臓器官が透けた小型の四足動物が何匹も詰め込まれたものもある。
その用途は一見してもわからないが、細かな数字と文字の記入されたスペシメンプレートから、ナーバスに保存と管理がなされているようだ。
「様々な感情を幸福に転換させる錠剤か。実用化するまでに、どんな実験を重ねてきたんだろうね」
「ワガハイには想像もつかないな。ヒトのクリエイティビティはどの世界線でも、異質と形容したくなるほど他の生き物に比べて突出している。すでに繁栄の安定期の入った後にも関わらず、様々な新しい生きる術を模索するその向上心は尊敬に値するものだ」
「人間の創造性なんてそんないいものじゃないよ。ただの肥大した好奇心だ。ヴィニシウスは僕たち人間に甘すぎる。やっぱり僕たち人間に造られたものだから、そうなるのかな」
「ワガハイがヒトの手によって造られたといつ言った?」
「え? 違うの?」
「さあ、どうだろうか。検索データにヒット無し、だ」
「いつも思うんだけど、その腹立たしい小癪な言い回しは昔からそうなの? それとも世界線を飛び回る間に、アイロニックかぶれになっちゃったの?」
「さあ? もう忘れてしまったな。ワガハイの情報は常にアップデートされている。一秒一秒、ワガハイのパーソナリティは変わり続けているのだよ」
「忘れた、ね。なんとも人間的な台詞じゃないか。頼んでもいないのにアップデートしちゃって。隣“人”らしくなってきて嬉しいよ」
「お褒めに預かり感謝しよう」
「今のは
「わかっているさ。ワガハイもだ」
口では敵わないな、とロンドンは少し拗ねたように溜め息を吐く。
その時、ふと何か意識を絡めとられるような気配を感じ、ロンドンはその方向に目を向ける。
薄いが重い手触りの壁の向こう側。几帳面に詰め込まれた棚の内の一つ。中身が真っ白に染まったボトルがある。
遠近感が狂うような白はボトル一杯に詰まっていて、目を凝らしてよく観察してみると対流が起きているのが分かった。
「ヴィニシウス、見つけたよ。これだ」
「
磁力が作用し合うように、自然とリーバーは
ロンドンはずっと続く壁の中で、何区画かごとに置かれた手動スライド式の扉を開き、保管庫内に足を踏み入れる。
先ほど見つけた白いボトルを手に持ってみると、見た目以上の重量を感じる。
スペシメンプレートには、“ハピネス type0 社名ライフポートレート”、と記されていたが、そこにはロンドンは興味を示さない。
「なんだろうね、これ」
「見る限り、ハピネスという製品の試作品の一つのようだな」
だが厳重に保管されていて接触が難しいものや、一般に見向きもされず放置されているものなど、世界線によって価値も形も様々だった。
「試作品か。これがあの小さな錠剤に最終的になるとは、たしかに歪んでる」
「それでリーバー、どうする。場所を移すか?」
「いや、べつにここでいいでしょ。さくっと修正しちゃおう。これ重いし、あんまり持ち歩きたくない」
白の詰まったボトルを棚と棚の間の床に置くと、ロンドンは外套の内側から手に収まる程度のスティックを取り出す。
黒を基調としたボディに青緑の紋様が刻まれた棒状の機器。それは“
「いつもお勤めご苦労様です」
「リーバー、それは誰に言っているんだ?」
「決まってるだろ。僕自身にだよ。他に誰も言ってくれないから」
「これからはワガハイが労おうか?」
「要らない。ヴィニシウスだって労われる側じゃないか」
「ワガハイを突き放しているのか、気遣ってくれているのか判断に困る台詞だな」
ヴィニシウスの小口を聞き流しながら、ロンドンは早速ボトルの蓋を開ける。
今回は
これまでは急峻な山奥に隠されていたり、警備の厳しく許可をとる段取りが面倒な美術館の倉庫内に安置されていたりしたことがあったが、それらの時に比べれば容易に
この後は、例の少女の下に戻り、後回しにしてきた問題を解決する方法を探さなくてはいけない。
若干の億劫さを感じながらも、ロンドンは
「さてと、問題はこれを処理した後にあの子――」
「――待て、リーバー! 危ない!」
しかし、その瞬間、予想だにもしない事態が起きる。
ボトルの中に詰まっていた白い液体が、まるで野生の獣のように飛びかかってきたのだ。
「なっ!?」
咄嗟に状態を捻り、ロンドンは
ガシャンと大きな音を立てて、背後の棚が崩れていく。
慌てて
「ヴィニシウス! なんだよ今の!?
「見ればわかる、リーバー。しかし驚いた。こんな現象はワガハイの長い
息を整えながら、崩壊した棚の方を睨みつければ、そこにはグネグネと不規則に形を変化させながらも瞳のない顔を向ける真白の液体の姿があった。
「意志を持つ
「どうやら向こうはやる気みたいだな。リーバー、貴公のことをずいぶんと気に入っているらしい。ハグをご所望だ」
「ふざけてる場合……かよっ!?」
再び、ハピネスtype0が跳躍する。
液体を鎌のような形に変えて、ロンドンに飛びかかろうとしている。
対するロンドンは低く前傾姿勢を取って、対抗するように前に飛びだす。
ハピネスtype0の一振りを紙一重で交わしつつ、身体を上手く捻じってすれ違い様に
ジュウ、と焼け焦げたような音の後、キュルルルという、泣き叫ぶかのような高音が響き渡った。
「まったくなんだよこいつ! なんて僕のことを襲ってくるんだ!」
「しかし、冷静に考えれば、それも当然かもしれない。ワガハイ達は、
「暢気に分析してる場合じゃないよ、ヴィニシウス。また来るぞ」
切り離された部分は、黒い炎に包まれるようにして焼失する。
体積の四分の一を失ったハピネスtype0は、小さくなった身体をグニャリと今度は節足動物のような形にして、白の色角を牙のように尖らせている。
「先手必勝。リーバー、貴公から仕掛けたらどうだ?」
「高みの見物どうも。ありがたくそのアドバイスを頂戴するよ。もっとも先手は取られてるけどね」
足下に転がるボトルを幾つか蹴り飛ばしながら、ロンドンは一気にハピネスtype0との距離を詰める。
襲撃に比べて、迎撃を苦手とするのか、ハピネスtype0は強張るように一瞬固まると、遅れて向かってくる。
主導権を握ったロンドンは、流麗なステップを刻み二閃、三閃と、漆黒の剣閃をハピネスtype0に刻み込んだ。
キュルルル、キュルルル、とハピネスtype0は泣き喚く。
細切れになった身体は、すぐにこの世界線から燃えかすも残さず消え去っていく。
ついに握りこぶし分ほどのサイズしかなくなったハピネスtype0に対して、ロンドンは冷たい眼差しを注ぐ。
「手間をかけさせてくれたね。でも、これで終わりだ」
最後の一振りと、
しかし、今回の
「っておい!? どこ行くんだよ!?」
ハピネスtype0はつるりとしたボール状に丸まると、転がるようにして保管庫から廊下へ飛びだす。
不意をつかれたロンドンは、焦りに顔を歪めてその後を追う。
「まずいぞ、リーバー。逃げられる」
「わかってるよっ! だからこうして全速力で追ってるんじゃないか!」
凄まじい速さで廊下を逆走していくハピネスtype0は、賢くも一度軽く跳ねると昇降機のスイッチを押す。
すぐに開かれた扉の内側へ転がり込むと、またもうひと跳ねして扉を閉めた。
「待て待て待てっ! 僕も入れてくれ!」
「聞く耳は持ってくれないみたいだな。外見からも耳は確認できないことだ、本当に聞く耳がないのかもしれない」
追走虚しく、ロンドンの目の前で昇降機の扉は閉まり、あっという間に地上に昇っていく。
すぐにスイッチを押して、ロンドンも昇降機を呼びつけるが、少なくない時間差が生まれてしまったことは間違いなかった。
「まったくなんだよ。リーバーじゃないのに世界線を移動する人間が現れたと思えば、今度は攻撃してくる
「たしかに偶然にしてはできすぎている。或いは全てが繋がっていて、必然の結果なのだろうか」
「必然って、なにがだよ」
「それを考えるのはリーバー、貴公の役目だ。ワガハイはあくまで
「本当にいいご身分だよ、君は」
逃したとはいっても、ハピネスtype0のほとんどはすでに取り除いた。あともう一息だ。
やがて昇降機が再びロンドンの下に戻って来て、扉が開くと同時に半身で乗り込み、すぐに地上へとボタンを押す。
『――あなたの人生に、ハピネスを!』
相変わらず機内で流れ続けている広告放送。
ロンドンは幸せとは程遠い感情の中、盛大に舌打ちをするのだった。
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