第6話 約束と翠色


 半透明の膜の向こう側に覗く青い空を眺めながら、もし今自分がいる場所に季節というものがあるのならば、どれに該当するのだろうかとセツは考えていた。

 周囲の多種多様な植物を間近で見てみても、枯れ葉や虫食い葉の類はまったく見当たらない。

 ほとんどは青々としているが、中には赤黄に染まった葉も混ざっている。

このプラントセクションと呼ばれる区画の快適な温度環境は、一定間隔ごとに設置された空調機によって緻密にコントロールされているようだ。

 そこには自然の流れはまるで汲まれていない。


「ここであなたとロンドンを見つけたのよ」


 隣を歩くリズが、音楽家のように細い指をすっと指し示す。

 目が覚めた時から一貫して、フェアというよりは親切に自らに対応してくる彼女を、ずっとセツは不思議に思っている。

 これまでセツにとって他人とは、常に排他的で、猜疑心が強く、自分を受け入れられない異物として扱う存在だったからだ。


「まったく身に覚えがないです」

「そう、それは困ったわね」


 具体的に何が困ったのか、そこまでは言わずにリズは腕の時計に視線を落とす。

 ロンドンという名の青年に関して、何も知らないということを伝えた後、セツはとりあえず最初にリズが彼女たちを見つけた場所に案内してもらうことにした。

 目を覚ました部屋と同じ施設内にあるここプラントセクションは、植物学者であるリズの実験場に当たるようだ。

 床に捨てるように置いてあったジョウロを手に取ると、手近な木々にリズは水を与える。


「ロンドンが帰ってくるのを待つしかないみたいね」

「そうですね。でも、本当にその人は、戻ってきますか?」

「さあ? 知らないわ。私だって彼とは初対面なんだから」

「リズは優しい人なんですね。普通、初めて会う人をそこまで信用しませんよ」

「たしかに、そうね。不思議だわ。普段の私だったら、施設に知らない人間が入ってきてたら、問答無用で警備員を呼んでるところだけれど……どうしてかしら。ロンドンとあなたを見ても、まったくそういう気持ちにはならなかった」


 白昼夢を見ているかのような、ぼんやりとした面持ちで、リズは水をやり続ける。

 ここで下手に話しを深めて、今更不審者として突き出されたら困るは自分の方だと、そこでセツも疑問を打ち止めにする。

 一旦は全ての元凶であり、この不可解な現状を説明する能力を唯一持っているであろうロンドンという名の青年が、約束通りここへ帰ってくるのを待つことにする。

 リズから聞く限りでは、彼はこの街に何らかの目的がありやってきて、その用事を終えたらセツを引き取りに戻ることになっているらしかった。

 正直なところ、不安もあるが、それ以上に好奇心が大きい。

 間違いなく生死の狭間を彷徨っていて、その原因すらわかっていなかった自分を救ったのは、そのロンドンだ。

 どこかの令嬢でもあれば別だが、すでに両親と死別していて、天涯孤独の身である自分をわざわざこのような遠いところまで連れてきて、命を救うことにメリットがあるとは到底思えない。

 ロンドン。彼は何者で、何のために自分を救ったのか。

 セツはこの日目覚めてからずっと、誰かに呼ばれている気がしてならなかった。


「でも、これだけ広いと、植物の手入れとか、大変そうですね」


 どこか意識が散漫とした様子で、水やりを続けるリズに話をふる。

 セツにとって、こうして普通に他人と会話をするのはずいぶんと久し振りのことだった。


「手入れ? ああ、これのこと。これなら、べつに、意味なんてないのよ。植物の調整は全部自動化されていて、電子データで管理されてるから」

「そうなんですか? なら、どうして水を?」

「どうしてと、言われると難しいわね。特に意味はないんだけど、なんか落ち着かなくてね」


 ジョウロを手に持ったまま、リズはまたベージュ色のバンドの腕時計に目をやる。

 先ほどから何度も時間を気にしていた。


「今日、なにかあるんですか?」

「え? ああ、そうね。実は今日、夫と二年振りに会う約束になってるの」

「夫? ご結婚されてたんですか。二年振りということは、旦那さんは出張かなにかですか?」

「第三都市の方にある応用生物学研究機構のオーシャンセクションにしばらく行っていたんだけれど、こっちに今日戻ってくるの」


 これまで対応こそ穏やかだが、無愛想な表情の印象の強かったリズが、くしゃっとした笑みを零す。


「そんな大事な日に、なんかすいません」

「謝ることはないわ。今日はそういうわけで朝からまるで仕事が手につかなくてね。だから気晴らしにここにきたら、あなた達を見つけたってわけ」

「ある意味、私の命が助かったのは、その旦那さんのおかげって感じですね」

「そこまで大袈裟なこと言わないでよ。恥ずかしいじゃない」


 若干頬を赤らめて、リズは自分の顔の前で手を横に振る。

 話しぶりからすると、二年もの長い間、離れ離れになっていたにも関わらず、リズの夫へと愛はまったく冷めていないようだ。

 そこまで強い愛情を他者に抱いた経験のないセツは、そんなリズがどこまでも眩しく思えた。


「どんな人なんですか? その旦那さん」

「うーん、そうね。変わった人、かしら。そもそも、私みたいな変わり者と結婚するくらいなんだから、ある程度はおかしくないとそれこそ変なんだけれどね」


 左手の薬指に嵌められた指輪をもう片方手でそっと触れながら、リズは顔を俯かせる。


「彼は大学の一つ上の先輩でね、同学年の中でちょっと浮いていた私に、唯一他の人と同じ様に関わってくれた。ほら、さっきも言ったけれど、私、“ハピネス”嫌いだから。同期とあまりうまくやれなくて」


 ハピネス。

 何度かリズが口にするそれが、何かしらの嗜好品、あるいはそれに準じるものであるということはセツもすでに理解している。

 詳しい理由は知らないが、リズはそれを利用することを極端に嫌がっているらしかった。


「あの人は、私と違って、ハピネスを使うことに否定的なわけじゃなかったけれど、それでも私を受け入れてくれた。ありのままの私を、そのまま愛してくれたのよ」

「……素敵な人、ですね」

「ふふっ、ありがとう。そうね。ハピネスなんて使わなくても、人は幸せになれる。そんな私の哲学を証明してくれる存在が、まさにあの人だった」


 ありのままの自分を受け入れてくれる。

 それはたしかに魅力的なものだった。

 セツにはあまり実感ができないが、リズの育った環境ででハピネスなる代物を拒絶する人間は異端扱いなのだろう。

 しかし実感はできずとも、共感はできた。

 セツもまた、これまで何度も拒絶されてきて、多くの人間に受け入れてもらうことのできなかった過去があるからだ。


「私の人生で一番の幸せを感じたのは、間違いなくあの人からプロポーズされた日だわ」


 羨ましい、とセツは心の底から感じる。

 そこまで長い人生を送ってきたわけではないが、セツが自分の幸せだった日を思い出そうとすれば、それは両親がまだ健在だったいまやセピアに煤けた幼き日々にまで遡ってしまう。


「あ、そろそろあの人が帰ってくる時間だわ。私は研究室に戻るけれど、あなたはどうする?」

「そうですね。私はもうちょっとここにいます。けっこう植物とか、好きなので」

「わかったわ。気がすんだら部屋に来て」

「はい。ありがとうございます」

「もし誰か来たら、私の客人だって言っていいわよ。まあ、ここに私以外の誰が来るとは思わないけれど」

「わかりました。何からなにまでありがとうございます」


 いいのよ、それじゃあ、また後で、と言い残してリズは踵を返し歩き去って行く。

 プラントセクションに一人残ったセツは、そこまでこの完璧に成長を管理された植物達に興味があったわけではない。

 二年振りの夫婦水入らずの空間を、自分という部外者が邪魔をするのは忍びないと思ったのだった。

 喋り相手を失って、手持ち無沙汰になったセツは、とくに当てもなく温室ドーム内をぶらぶらとし始める。

 縦に真っ直ぐと伸びる針葉樹の区画を抜けると、翼を広げるように横に伸びる広葉樹の多い区画に入る。

 本来はまったく生息環境の違うであろう木々によってつくられる森が、少し歩くだけで何パターンも見ることができる。

 それはまるで本質は同じだが細かいディテールの異なる、幾つかの世界線を渡り歩いているかのような、幻想的な感覚をセツに抱かさせた。


「……ん?」


 ふと、その時セツは足を止める。

 それは太い幹に頭頂部に羽状の複葉が生えた、セツが広告で見たことのあるだけだった南国を思わせる木の傍を通り過ぎたときのことだった。

 どこからか感じる強い視線、というよりは引力。

 磁石のN極とS極が向き合うときに似た、惹かれるものを感じ、セツはその出所を探す。


「誰か、いるの?」


 問い掛けには、誰も答えない。

 しかし、気のせいと断定するにはむしろ気配は増していて、セツはとある茂みを真っ直ぐと見つめる。


「もしかして、あなたがロンドン?」


 自らをここに連れてきて、命を救った謎の青年。

 ついにその彼が戻ってきたのではないかと、再び声をかけるが、やはり返ってくる言葉はない。

 僅かな期待をもって、セツは茂みに近づく。

 存在感は高まるばかりで、そこに何かがいるのはもはや確定的だった。


「隠れてないで、でてきなさいよ」


 この研究施設の人間であれば、わざわざ茂みに潜む理由はない。

 そして本能的に、そこにいる何者かが自分と何かしらの関わりを持っていることを、セツは確信していた。

 何の反応も示さないことに、段々と腹が立ってきたセツは、とうとう茂みに足を踏み入れようとする。


「ねえ、そこにいるのはわかってるんだから、なんとか言いなさいよ――」


 セツが葉々の間に手を伸ばした瞬間、勢いよく何かが飛びだしてくる。

 かろうじて視界に映ったのは、鋭い牙。

 背筋に戦慄が走る。

 突然の凶行に、セツはまったく反応できない。


「――やっと追いついたぞっ!」


 手に痺れるような痛みを感じたと思ったその刹那、セツは思い切り横に突き飛ばされる。

 硬質な施設内の床を転げまわり、軽く頭をうつ。


「間一髪、というヤツだな。だがリーバー、少々手荒すぎではないのか? 推測するに、彼女はまだ病み上がりだぞ」

「これで二度も命を救ってあげたんだ。むしろ僕の優しさに泣いて感謝するべきだね」


 気づけばそこにいたのは、“一人と二匹”、だった。

 頭をうったせいか、若干霞みがかった視界の中に見えるのは、鉄色の梟が一匹と、それを肩に乗せた白髪の青年と、短い四足を生やし、球状の身体に目も耳も鼻もなく鋭い牙を揃えた口だけがくっついている奇妙な白いイキモノ。

 黒い外套を靡かせる青年は、ゆっくりとセツの方に横目を向ける。


 合致する互いの視線。


 セツの瞳に映る色は、もう施設内で管理されてきた実験用の植物のものではない。

 それはどこか、初めて鏡を見る時のような、不自然さと自然さが混ざり合った感覚。


 青年の瞳は、セツとまったく同じ深い翠色をしていた。




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