第4話 街と笑顔

 世界線番号943の街は、無菌室のように白く清潔な外観が特徴的だった。

 八列のレールが等間隔に並べられていて、四列の車道が整備されている。

 没個性な灰基調色の輸送機が、絶え間なくレールの上を滑るように進んでいく。

 それは別の世界線で目にした路面電車と呼ばれるものに酷似していた。


「ここはずいぶんと静かな世界だね」

「そうか? ワガハイには非常に楽し気というべきか、笑顔に溢れた、幸福度の高い世界に見えるが?」

「幸せそうじゃないなんて言ってないよ。僕は静かだって言ったんだ」

「リーバーの表現は時々難解だな。街を行く人々は皆談笑に勤しんでいる。どちらかといえば賑やかという印象を受ける。静かという言葉が、悲壮さの比喩ではなく、文字通りの意味ならば、余計にその評価は不適切ではないか?」

「賑やかと呼称するには、少し音が少なすぎるよ」

「量ではなく、種類の問題か」

「まあ、そんなところかな」

「相も変わらず複雑な人間性だ。ワガハイのようにインテリジェンスが高く設定されていて、対象を常に理解しようと努める寛大さがなければ、まともに日常会話すら成り立たないだろう。貴公はワガハイにもっと感謝するべきだ」

「なんて恩着せがましい機械なんだ。製作者はもっと謙虚さの値を低く設定するべきだったよ」


 ロンドンが肩に乗ったヴィニシウスと軽妙に言葉を交わし合うが、それを奇異の目で見る街の人間は一人もいない。

 もちろん、この街では機械仕掛けの鳥が人の言葉を話すことが当たり前というわけではなく、全てはロンドンが、この世界でもリーバーとして受け入れられていることの証明だった。


「しかしリーバー、あの少女は置いてきたままでよかったのか? ワガハイ達は世界線を移動することに慣れているが、彼女は異なるだろう。目が覚めた際に、酷く混乱するのではないか?」

「まあ、するかもしれないね」

「なんということだ。彼女の心的負担は全く顧みないということか。リーバー、貴公には人の心というものがない」

「機械の君に言われたくないよ。ただ優先順位があるだけだ。僕の使命はあくまで世界の歪線ノイズ・リンクルを取り除くことにある。あの子にかまけて、世界を崩壊させるわけにいかない」

「そのためには彼女の心が傷ついても、壊れしまってもいいということか? なんて薄情なリーバーなんだ」

「うるさいな。まったく君はどっちの味方なんだ。羅針盤コンパスはリーバーの助けになるために存在するんじゃないの?」

「当然だ。ワガハイはリーバー、常に貴公の傍にいる。貴公の選択を尊重し、世界中が貴公を拒絶しようとも、ワガハイだけは貴公の親しき隣人であり続けるだろう。ただワガハイは文句と小言を言うだけだ。ワガハイは道具ではなく、隣人だからな」

「お喋りな隣人だな。それに隣“人”、じゃないだろ」

「言葉の綾だ。貴公は妙なところで細かい」


 次から次へと灰色の輸送機――キャリアとこの世界では呼ぶらしい、が横を通り過ぎていくのを眺めながら、ロンドンは言いようのない薄気味悪さを覚えていた。

 道の中央を音もなく流れていくキャリアには多くの人々が乗り込んでいたが、その人々の表情は全員一緒だった。

 

 それは、笑顔だ。

 全員が、笑顔だった。


 この街ですれ違う人、そしてキャリアに詰め込まれ運ばれていく人、その誰もが皆これ以上ない晴れやかな笑みを浮かべていたのだ。

 週末の天気予報について語り合うカップルらしき男女は、二人とも口角を上げ、目尻に皺を寄せて歓談している。

 一方、合成繊維質のジャケットをベルトの下まで着込んだ中年の男性も、今にも声をあげて笑いだしそうな満面の笑みを顔に張り付けて道を一人で歩いている。


「全員が笑顔で、全員が幸せそうだなんて、気持ちが悪いね」


 応用生物学研究機構のリズの下に置いてきた少女の話題を逸らす意味も込めて、ロンドンは皮肉気に口端を歪める。

 ヴィニシウスはキュイン、キュイン、という独特の硬音を立てながら瞳孔をすぼめて、素直にロンドンの話題転換に従った。


「なにを言っているんだ、リーバー。むしろ気分がいいじゃないか。人は幸せな時に笑顔を見せるのだろう? 人の幸せはいつだって見ていて気分のいいものだ」

「笑顔だからって幸せとは限らないよ。皆が皆笑顔だったら、それはもう笑顔の価値を失う。幸せなんてものは、いつだって相対評価だ。誰かの不幸の上に、誰かの幸福がある」

「それは見解の相違だな。貴公の考えはあまりに悲観的すぎる。幸せは絶対評価だ。全員が不幸な世界線もあれば、誰もが幸せな世界線だってあると思うぞ」

「誰もが幸せな世界線、ね。そんなものがあるなら見てみたいものだ」

「ここがそうとは思わないのか?」

「少なくとも今、僕は笑っていないよ」


 目を伏せれば路上にはゴミ一つ落ちておらず、空を仰げば幾数の浮雲と目鮮やかな青空。すれ違っていく人々は皆笑顔に溢れている。

 それはまさに理想的な光景だった。

 どこにも曇りはなく、落ち度一つない完璧な世界。

 しかし、ロンドンにはそれがたまらなく不愉快で、癪に障る。

 一桁の四則演算を解かされて、それを世界中から歴史的偉業として讃えられているかのような、居心地の悪さを感じていた。


「まあ、べつにいいけどね。ここより明確に酷い世界線はいくらでもある。僕はたしかに贅沢を言っているのかもしれない」

「幸せになることが贅沢に含まれるというならば、何とも世界とは器量が小さいものだな」

「ヴィニシウスは羅針盤なんだから、僕が心の底から幸せだと思える世界線に連れて行ってくれればいいのに」

「すまないな、リーバー。ワガハイが貴公に示すことができるのは、崩壊しかけている世界だけだ」

「まったく、役に立たないナビゲーターだな」

「貴公の期待に沿えずに、申し訳なく思う」

「真面目に謝らないでよ。冗談だって。まるで僕が意地悪してるみたいじゃないか」

「そう自覚があるなら、改めるといい。老婆心から言わせてもらうが」

「本当にうるさい鳥だな。どっちが意地が悪いんだか」


 そう言いながらも、ロンドンは微笑みを携える。

 この世界で唯一笑えるのは、この機械仕掛けの無駄に機知にとんだ相棒だけだと心内で思った。


「しかしリーバー、そろそろだな。本当にこの場所に世界の歪線ノイズ・リンクルがあるのか?」

「間違いないね。呼ばれてる」

「そうか。ならば間違いないな」


 道沿いに歩き続けていると、やがて大きな広場に辿り着く。

 綺麗に刈り揃えられた植え込みと、どれもちょうど同じ高さの木々が並べられ、断続的に飛沫が上がり続ける噴水が四つ。

 ロンドン二人分ほどの高低差がある階段を登ると、そこにはあるのは偉容の建造物。

 天を穿つかの如く高く伸びる全面ガラス張りのビルディングには、目立つように“ハピネス”の文字が掲げられている。

 街の中でも群を抜いて巨大なこの建物の中に、自らの探しているものがあるロンドンは本能的に理解していた。

 とくに紹介状や付添人の準備もなく、早速ロンドンは建物の中に入ろうとするが、ふと足を止める。

 それはロンドンの進行方向の先で、一人の男が入り口のゲート前で何やら大声をあげていたからだ。



「そんな! どうしてですか! どうして私を中に入れてくれないんですか!?」



 周囲のロンドンたちのことなど、まるで気づいていないようで、男は口から泡を飛ばして声を荒げている。

 対するその男の前に立つのは、まだ若そうなグレイのタイトスカートを履いた女性だった。


「だから何度も言っているじゃないですか。あなたはもう、うちの社員じゃないんですよ」

「そんな! いくらなんでも横暴だ! 本人の了承もなく、むりやり解雇だなんて! 私にだって家族がいるんです! これからどうやって妻や娘を養っていけばいい!?」

「先ほども申し上げましたように、退職金も出ますし、それを元手に起業なり、転職活動など、ご自身で次のキャリアプランをお立てになってみてください」

「ふざけるな! そういう話をしてるんじゃない! いきなり人の安定した生活を奪う権利が、どこにあるんだって言っているんだ!」


 もう壮年にかかりそうかという男は、顔を真っ赤にして怒り狂っている。

 だが白縁眼鏡をかけた女性の方は、一貫して穏やかな笑顔を顔に浮かべたまま、諭すように声のトーンを下げるだけ。


「そう言われましても、当社としては決定事項ですので。品質管理部門の縮小は前々から決まっていたことです」

「だからこっちだって前からずっと、納得できないと言ってきたじゃないか! 訴えたっていいんだぞ!」

「訴訟、ですか? ご冗談を。まさか、“ハピネス”、相手に法で争って、望むような結果が得られるとでも?」

「そ、それは……」

「この国の要である第一都市の市民はもちろん、国の行政機関、研究機関、そして司法機関まで全てと公的に提携していて、もはや人々のライフラインとして機能しているハピネスを敵に回して、この世界でまともに生きていけると? そう、本気で仰っているわけではありませんよね?」

「わ、私は……」


 上質なジョークを聞いたかのように、口元に手をやって上品に白のブラウスにグレイのジャケットを合わせた女性が笑う。

 対照的に髭をまだらに生やした男は、赤黒くさせていた顔を急速に青ざめさせると、ぷるぷると小刻みに震え出す。


「ご理解頂けたようで、何よりです。それでは、お気を付けてお帰りください」


 そして完全に沈黙した男に、丁寧に一礼すると女性は最後まで笑みを保ったまま踵を返してゲートの向こう側へ消えていく。

 置き去りにされた男は、過呼吸のように何度か不規則に深呼吸をした後、おもむろに内ポケットから長方形の薄いケースを取り出す。

 側面に溝がつけられたケースをおぼつかない動きで手繰ると、錠剤が一つ転がり出てくる。

 人生に絶望したかのような表情の男は、その錠剤を飲み物も何も準備していない状態で口の中に放り込み、一気に嚥下する。

 すると数秒の間を置いて、男は口の両端を吊り上げ、並びの良い白い歯を見せ、目尻をしわくちゃにした。

 ロンドンはその男の様子を見て、妙な疑問を思う。

 それは答えを知っているはずなのに、なぜか思い浮かばないという、奥歯に柔らかな肉端が挟まっているかのような感覚。



「ヴィニシウス、あれはなんていう表情だっけ」

「見ればわかるだろう、リーバー。あれは、“笑顔”、だ」



 ああ、そうか、あれは笑顔か。

 ロンドンはすぐに納得する。それはたしかに、どう見ても笑顔だった。

 この世界で何度も見てきた、幸せを示す表情。

 男は幸福を顔に被って、そのまま跳ねるような陽気な調子で、どこかに歩き去っていく。

 どうしてかロンドンには、その姿を笑って見送ることができなかった。





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