第3話 夢と失読症
少女は雪の解ける夢を見ていた。
酩酊したかのように宙で揺れる雪が、冷たいアスファルト落ち、ゆっくりと時間をかけて溶け消えていく。
仰向けに横たわった彼女は、ただぼんやりとそれを眺めている。
地面に縫いつかれたかのようにまるで動かない身体。
栄養が不十分なのか、枯れ枝に肉薄するほど痩せた四肢は、不思議にも横目で見る雪に合わせるように段々と液状に変わっていく。
痛みはなく、あるのは喪失感だけ。
大切な何かがこぼれ落ちていくような感覚の中、彼女は静かに世界から自分が消えていくのを待っていた。
『きっとここは、君のいていい世界じゃなかった。ただそれだけさ』
ふと、そんな少女に声をかける人がいた。
彼女より幾らばかりか背の高いその人は、見たことのない若い青年だった。
だがそれでもなぜか、初めて会う気のしない、どこか懐かしさ、というよりは既視感を覚えさせられた。
その青年は膝を曲げて、屈むようにすると彼女の頬にそっと優しく触れる。
『君が悪かったわけじゃない。君のせいじゃない。君のいていい世界が、ここがじゃなかっただけ』
少女は初め、その青年を自らの父の若い頃に似ていると思った。
知性を感じさせる眼差しに、心を落ち着かせる淡い声色。
しかし、同時に彼女は確かに理解していた。青年が父ではないと。
父の若い頃の姿は写真で見たことがあるが、青年とは瞳の色が違う。彼女の父の瞳は大空を思わせる透き通った蒼だった。
『せめて、安らかに眠らんことを』
青年は胸元で手を僅かに動かすと、そっと少女の額にキスをする。
それは少女がこれまで一度も見たことのない、彼女の知る限り世界で最も静かな祈りのようだった。
気づけば、隣りで共に地面に横たわっていた雪が、もう解けきってしまっている。
身体はその全てが、灰色の地面にすでに沈みきってしまった。
これは夢だ。少女は悟る。
感覚が全て暗闇に溶け込んだ後、短い間隔で、蒼白光が明滅する。
最初は小さな点々に過ぎなかった光が、やがて一つの真円を描くように結ばれ、そこで耳を劈くような破裂音が響く。
雪が解けきってしまう夢の中で、最後に聴こえたのは、たしかに自分の声だった。
『さあ、世界を私のいていい世界に
※
はっと目を覚まし、彼女はすぐに異変に気づく。
それは少し霞んだ視界の先に見える、真っ白な天井。
ここしばらくの間、空が見えない場所で眠りにつくことなどほとんどなかった。
何度か目を擦りながら、ぎこちない動きで彼女は身を起こす。普段目覚めてから数時間は続く背中の痛みがなく、そこで初めて自分が風通しの良すぎる道端ではなく、隙間風すらまるで感じない室内にいることを知った。
質の良いベッドで何度か無意味に身体を跳ねさせた後、改めて周囲を見渡してみる。
上下左右、どこに顔を向けても全く馴染みのない場所だ。
言いようのない不安にかられながら、彼女はおそるおそるベッドから足を下ろす。
(ここ、どこだろう)
生きていない部屋、そう思えた。
部屋の両脇には見ているだけで眩暈がするような本棚。
何も置かれていない木製のデスクの上を指でなぞってみても、埃一つつかない。この部屋の主は相当に几帳面らしい。
人の気配はまるでなく、彼女は特に理由なく、本棚から一冊本を手に取ってみる。
本の表題はもちろん、その中身も全く読むことができないので、どんな種類の書物なのかはわからない。
しかし、彼女はその本に羅列させた文字を眺めていると、どこか違和感を覚えた。
それは文字が全く読めないことに対してではない。
なぜなら彼女は生まれながらの、“
(でもこれ、なんかこれまで見てきた文字と違うような……?)
違和感の正体は、文字が読めないことではなく、文字そのものにあった。
失読症のせいでこれまで、本の類にまともに目を通した経験こそなかったが、日常生活の中で文字が視界に入ることは多々ある。
文字の意味はわからなくとも、目に映っているものが文字かどうかは判別できていたはずなのだ。
(だけどこの本に書かれてる文字、なんかまったく見覚えがない)
それはあまりに奇妙な感覚だった。
読めないことには変わりないが、読めない対象が違う。目が覚めたら文字の全く異なる文化圏にいることなど、ありえるのだろうか。
ここは、どこだ。
結局、疑念は目覚めの原点のものに戻る。
ここにきてやっと、彼女は自らの記憶を辿り始める。そもそも、どこから自分の意識はなくなっていたのか。
(そうだ。私はたしか病気の症状が酷くなって、それで街を彷徨ってて、最後は体力の限界が……ってあれ? そういえば、もうあの痛みがない?)
今更ながらに、彼女は自らの身体を観察してみる。
目に映るのは、健康的とまでは言えないが、どこにも裂傷も湿疹も見当たらない綺麗な白腕。
覚えている限りでは、酷いとしか言いようのない状態まで、身体は心当たりのない病に蝕まれていたはず。
(病気が、治っている?)
混乱は深まるばかり。
彼女は自らを取り巻く環境だけでなく、自分自身すら大きく変化しまっていることに気づき、心臓が根元から冷えるような不安を覚えた。
「あら、やっとお目ざめみたいね。身体の調子はどう?」
「っ!?」
ふいに背中に投げかけられる凛とした声。
彼女が慌てて振り返ってみれば、そこには仕立ての良い服を着た見知らぬ女性が立っていた。
「今回は先に名乗っておきましょうか。私はリザベッタ・ラングレ。リズと呼んでちょうだい。あなたは?」
「……私はセツ。何もない、ただのセツです」
「ただのセツ、ね。あなた達って兄妹かなにか? 雰囲気や見た目だけじゃなくて、言い回しまで似てるのね」
「あなた達……?」
目覚めてから困惑を続ける彼女――セツは耳聡く聞き逃せない台詞を拾う。
自らをリズと名乗る金髪の女性との短い問答から、どうも自分がここに一人でやってきたわけではないことを悟ったのだ。
セツにはもう家族も友人もいない。両方ともかつてはいたが、とっくの昔に全て失ってしまっていた。
どこかのコミュニティに属しているわけでもなければ、何かしらの利害関係の一致した同士がいるわけでもない。
完全な孤独。それがセツの
あなた達と、ひとくくりにされるような相手は全くもって心当たりがなかった。
「あなたにも言っておくけれど、私はハピネスを持ってないの。もし必要なら自分で用意してくれるかしら」
「ハピネス、ですか?」
「そうよ。そんなに不思議? この時代にハピネスを常備してない人間なんて、想像もしたことなかった?」
どこか自嘲気で、煽るような気配を見せるリズ。
リズが口にするハピネスとやらが何を指しているのか、全く見当もつかなかったが、不用意な言葉を発して刺激してはいけないと、セツは疑問を押し殺して口を噤んだ。
「水と、あと念のための薬なら渡せるけど、要る?」
「薬? ……もしかして、あなたが私の病を治してくれたんですか?」
「私、というよりは薬だけどね」
「それはなんて感謝したらいいか、ありがとうございます」
「あの子にも言ったけど、礼なんてよしてよ。この程度のことで」
本当に嫌そうに、リズは自分の顔の前で手を振る。本気で大したことをしたつもりはないようだ。
(このリズって人、もしかしてお医者さんかなにかなのかな? 見るからに上流階級の人だし、教養もありそう。この部屋もどっちかというと、家っていうよりは作業場っぽいし。じゃあここは病院?)
行き倒れになった自分を、誰かしらが病院まで運びこんでくれ、医者であるリズが治してくれた。
それなりに納得できるストーリーを組み立てると、セツは珍しく自分に対して世界が優しさを見せたと物珍しい気分になった。
「ほら、水と薬よ。治ったとはいっても病み上がり、水くらい飲んでおいた方がいいわ」
「ありがとうございます。でもこの薬まで貰って本当にいいんですか? あの、私、お金とかないんですけど」
「なに言ってるのよ。こんな安物。いくらでもあげるわ」
冗談を言われたかのように小さく笑うと、リズは押し付けるように水と彼女が薬と呼ぶコンパクトな筒状の物体を渡してくる。
(これが、薬? 私が見たこともないタイプの薬だな。むしろ電子機器みたいな感じするけど)
しげしげとセツは渡された薬を眺めてみる。全く馴染みのない種類の代物だった。貰えるものなら貰っておくが、正直なところ服用方法もよくわからない。
「ちなみに私、どんな病気だったですか? 実は自分でも調べてみたりしたんですけど、病名すらわからなくて、自力じゃどうやっても治せそうになかったんです」
「病名? 知らないわよ、そんなもの。私が知るわけないじゃない」
「え? リズさんは医者じゃないんですか? ここは病院じゃ?」
「馬鹿言わないで。そんな低級な職業になんてつかないわ。あなたがちょうど持っている植物学の本の著者に書いてあるでしょ、私の“リザベッタ・ラングレ”、っていう名前が。あなたが今いるここは、応用生物学研究機構のプラントセクションよ」
呆れ、というよりは僅かな怒りすら感じさせる様子で、リズはセツの手元にある本を奪うように取ると、本棚の元あった場所に戻した。
病名もわからず、これまでどうしたって症状を緩和させることすらできなかった病気を、たった一度薬を投与しただけ。
セツの感覚では、それこそ風邪のような、眠って耐え忍ぶだけである程度回復するような軽い病気ではなかったはずだ。
むしろ、本気で命を落とすことすら覚悟した、重病だと認識していた。
それにも関わらず、こんな簡単に、医学に全く通じていない素人が、適当に選んだ薬で完治することなんてありえるのだろうか。
なんとか生き永らえたことに対する安堵はたしかにあったが、それ以上の言いようのない恐怖が湧き上がってくる。
まるで、自分の知らない世界にいるみたいだ。
「それで、あなたと彼――ロンドンの関係は? そもそもどうして私たちの研究施設内にあなた達はいたの?」
ロンドン、知らない名だ。
それでもセツは本能的に理解した。
そのロンドンなる人物が全ての謎の答えを握っていて、自分はきっと一生その名を忘れることはないだろう、と。
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