第2話 病気と薬


 カシュー、カシュー、という耳障りな音。

 ロンドンは明滅の記憶を思う。

 それは昔観た映画という大衆娯楽に登場していた、黒装の悪役が発する独特な呼吸音に似ている気がした。

 これまでそうだったように、この世界線でも蒼冷の空の向こう側でも、果てなき暗闇が続いているのだろうか。

 実際のところそれは思い込みに過ぎず、本当のところはどうかわからない。

 今胸の中に抱かれる少女がその可能性の証明だ。

 確認する術は今のところ、空に関しても少女に関しても、思いつかない。

 そんな無重力の物思いにふけながら、天井から壁まで温もりのない白で統一された廊下をロンドンは歩き続ける。

 やがて一メートルほど離れた場所で先導する金髪の女性が立ち止まり、曇りガラスの扉を開いた。


「どうぞ。入って。奥にベッドがあるわ」


 軽く会釈をした後、素直にロンドンは部屋の中に入っていく。

 整然とされた、少し肌寒い程度に気温の保たれた一室。

 壁の両側には大きな本棚が構え、びっしりと様々な厚さの書物で埋め尽くされている。

 書架の他には冷蔵庫のようなものと、几帳面な家主の性格を表すように机上に何も置かれていないウッドデスク、そしてきちんとメイキングされているベッドがあるだけだった。


「ごめんなさいね。来客用の椅子はないの」

「いえ、構いませんよ。僕はこう見えて体力はある方なので」

「そう? まあ確かに、街で見かけるような子達に比べると、少し筋肉質な気がしないでもないわね」


 本人の意識では、どちらかといえば華奢と言われるような体格のつもりだったため、意外な評価にロンドンは驚く。

 もしかすると、この世界線の人間は平均的に身体能力が衰えているのかもしれない。

 ロンドンは骨密度の低さがありありと分かる軽さの少女を、そっと清潔なシーツの上に寝かせると、一度大きく息を吐いた。


「とりあえず薬はクーラーボックスにあるけれど、私が飲ませた方がいい?」

「はい、すいませんが、お願いします」


 慣れない状況に知らぬ間に緊張していたのか、額に薄汗が浮かんでいた。

 ロンドンはそれを手の甲で拭っていると、クーラーボックスと呼ぶ膝高の箱を金髪の女性が開く。

 女性は中からラベルも何もないボトルと、中指ほどの長さで円柱型の容器を取り出した。


「あの、言い忘れていたんですが、この子がどんな病気なのかわかっていなくて……その薬は何の薬ですか?」

「なんの薬? なにを言ってるのよ、あなた。薬は薬よ。この子がどんな病気かなんてどうでもいいじゃない」

「え? そ、そうですか?」

「どんな病気かわからないなんて、不思議なことを言うのね」


 怪訝な表情をつくる女性は、そのままベッドに横たわる少女を片腕を使って、腰から上を起こすような体勢にさせる。

 そのまま女性が薬と呼ぶ細長い白柱を喉に当てると、カシュッ、という短い音が聴こえた。


「良かった。効いてるみたいね」


 再びベッドに寝かせられた少女。

 白皙の肌に浮かんでいた湿疹は、見てわかるほどの明瞭さで、瞬く間に収まっていく。

 間違いなく少女の命を蝕んでいた病魔は、断末魔をあげる暇すらなく溶け消えていった。


「凄いですね。ここまで効くなんて」

「なにも凄くはないでしょう。薬なんだから。病気を治せないなら、もうそれは薬じゃないわ」


 ロンドンの感動とは裏腹に、どこまでも醒めた様子で白衣姿の女性は薬をまたボックスに戻す。

 ベッドに横たわる少女は安らかな寝息を立てていて、もはや命を失いかけていた頃の儚さはもうどこにもない。


「しばらく安静にすれば、じきに目を覚ますと思うわ」

「ありがとうございます。貴重な薬を使って頂いて。この恩はどうにかしてお返しします」

「貴重な薬って、ふふっ、面白いことを言うのね。あまり冗談を言うような顔には見えなかったけれど」

「すいません、僕自体がジョークみたいな存在なので、時々変なことを言ってしまうと思いますが、見逃してください」

「ええ、わかったわ。不思議とあなたがからかっているようなことを口にしても、全く怒る気にならないというか、それが“当然”のように感じるのよね」

「ならよかったですね。これが人徳ってやつですね」

「なんとなく言葉の使い方が間違っている気もするけれど、それもなぜかあまり気にならないわ」


 過程はどうあれ、疑問も幾つかあるが、とりあえずは少女の命を救えたことにロンドンは安堵する。

 金髪の女性のロンドンへの態度も段々と軟化している。

 いつも通り擬態アジャストが効き目を発している証拠だ。

 リーバーは本質的にどこにも馴染めない代わりに、どんな場所でだって表層的に適応することができる。

 ロンドンは不自然なまでに初対面の相手と自然体で接することのできてしまう自分に、運命の環状を予感した。


「それじゃあ、私は少しだけ用事があるから、しばらくの間ここを開けるけれど、あなたはどうするつもり?」

「そうですね。僕もちょっとやることがあるので、できれば外に出たいですね」

「そう? ならこの子は?」

「厚かましいお願いになりますが、しばらくここで預かって貰えないでしょうか? やることが終わったら、また彼女を受け取りに来ますので」

「そうね、私は構わないけれど、この子は大丈夫? あなたがいなくて混乱しない?」

「大丈夫じゃないですかね。どうせ僕がいても混乱すると思うので、同じですよ」

「まったく大丈夫に聴こえないけれど。そこが同じだと困るわ」


 ヴィニシウスが何か言いたげに、ロンドンの肩を軽く爪で数回叩く。

 おそらく穏やかに眠る少女を放置して、一人で外に出ようとしている事に対して、何かしらの意見があるのだろう。

 ただ、ロンドンとしては最優先なのはあくまでリーバーとしての使命だ。

 小さくない好奇心や僅かばかりの心配ももちろんあるが、それでも少女ばかりに構うわけにもいかない。

 歪みは放置すれば、やがて亀裂になり、最後は世界を崩壊させてしまう。

 少女の命はもう救った。次は世界を救う番だった。


「……さっきも言ったけれど、私は“ハピネス”を持っていないわよ?」

「まあたぶん問題ないと思います。もし問題があったら、後で僕が謝ります」

「謝るって言われても……はあ、まあいいわ。でも、厄介事はごめんよ。もし面倒なことになったら、相応の対応を取らせてもらうわ」

「わかりました」


 全く面識のない少女を一時的に預かるという、これまた完全な初対面であるロンドンからの頼み事を、気は進まなそうだが女性は受け入れる。

 それにしてもまた、“ハピネス”、だ。

 ロンドンは何か引っ掛かりを覚える。

 自らがこの世界の異物だと理解しているロンドンは、自身の感覚を信頼している。

 互いの不完全さを埋めるように、異質なものと異質なものは惹かれ合う。

 正すべき歪みは、世界線ごとに異なり、まずは探すことから始める必要がある。

 今回はまず、そのハピネスと呼ばれるものについて調べることから始めようとロンドンは内心で決めた。


「では、とりあえずこの施設からどうすれば出れるか教えてくれますか? 街に行きたいので」

「出入り口もわからないって、あなた一体どうやってここに迷い込んできたのよ。そもそも何の用で……はあ、まあいいわ。気になることは全部、この子が起きてから、後でまとめて聞くことにするわ。今は互いに、用事があるみたいだし」

「そうして頂けると助かります」


 困ったように眉を一度曲げると、女性は諦めたように部屋の外に向かいだす。

 この世界線943の歪みを治した後、少女のことをどうするかはたしかに考える必要があると、ロンドンもまた思う。

 

「そういえば聞き忘れていたけれど、あなた名前は? 私はリザベッタ・ラングレ。親しい人はリズと呼ぶわ」


 部屋を出て、いまだに人の気配が他にしない廊下に戻ると、ロンドンの瞳を見ているようで、もっと別の何かを見つめているような瞳を女性――リズは覗かせる。

 いつだって向けられる視線の先に、本当の意味で自分は映っておらず、そしてこれから自らが口にする名が、きっとこの世界でもすぐに忘れられてしまうことを分かっていながらも、それでも彼は名乗る。

 いつか名を忘れられてしまったとしても、いつだって名を教えたことは覚えていた。



「僕はロンドン。ロンドン・リーバーです。ただの、ロンドン・リーバー」

 




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