誰もが幸せな世界線にて

第1話 詩人は言っていた


 かつて世界線番号89で出会った詩人、ウィトゲンシュタインはこう言っていた。

 太陽が明日もまた昇るというのは、一つの仮定にすぎない。すなわち、太陽が明日本当に昇るかどうかすら、私たちは知らないでいる、と。

 当然、普通、当たり前、常識、これまでもそうだった。

 そんな言葉で装飾される出来事のほとんどは、たった一つの例外によっていとも簡単に打ち砕かれてしまう。

 頑固で融通の効かない詩人の言葉が間違いでなかったことを知ったロンドンは、肌に纏わりつくような湿度に顔を歪めながら、自らの足下に転がる一人の少女を眺めていた。


「……一応確認しておくけど、ヴィニシウス。ちゃんと僕たちは次の世界線に移動できてるんだよね?」

「うむ。並行世界移動プログラムは正常に作動したぞ。ワガハイたちが現在いるのは世界線番号943。先ほどまでワガハイたちがいた世界線番号4とは異なる世界線にいる」

「だよねぇ。いやはや、これはどうしたものかな」


 人の気配のしない辺りを見渡してみる。

 清潔感のある白灰の道が整備されていて、その脇で多種多様に生い茂っているのは青々とした植物群。

 高く伸びる木幹を目で辿れば、半透明の天井越しに雲一つない快晴が広がっているのが分かる。

 明らかに数分前まで自分がいた場所とは異なる空間にやってきているのは間違いない。

 改めて現状を再認識したロンドンは、不自然なまでに無風な人工樹林の中で、自らの短くも長い並行世界移動生活で経験のない事態に頭を悩ませていた。


「僕以外の並行世界を移動できる人間、か。こんなこと、本当にあり得るのか?」


 ロンドンの足下に小さな子猫のように転がるのは、一つ前の世界線で病魔に蝕まれていた白髪の少女だった。

 それは決してあり得てはいけないこと。

 並行世界を移動できるのは選ばれし“リーバー”のみ。

 これまで不変と信じて疑わなかった前提が崩れ、ロンドンは表情にこそ出さないが狼狽えていた。


「ヴィニシウス、この子もリーバーってことはある?」

「それはないと考える。並行世界を移動するためのレターデーションリングは全世界線にたった一つ。リーバーは貴公だけだ」

「ならやっぱり、僕が移動する際に、この子も間違えて巻き込んじゃったってこと?」

「現在の情報ではそうとしか考えられないが、不可解に思う。レターデーションリングに反応するのはオーナーリーバーである貴公のみのはずだ。身体的距離や精神的な関係性は影響しない。たとえ貴公が望んだとしても、自分以外の他人を移動させることは不可能であろう」


 金属光沢輝く外見とは裏腹に、重量を全く感じさせずに肩に乗るヴィニシウスは、淡々とロンドンの疑問に答える。

 いまだに目を覚まさない少女の肌に浮かぶのは、相も変わらず痛々しい湿疹。

 しかし、先ほどまでとは変わり、苦し気だった呼吸は幾分か穏やかになっていた。


「病状が緩和されてる?」


 ロンドンは屈んで、少女の手にそっと触れてみる。

 仄かに感じる、生の温もり。

 一息で消えてしまいそうだった命の火は今、雨でも降らなければ途切れない程度には熱を取り戻していた。


「それで、リーバー。彼女をどうするつもりだ? このまま放置するであるか?」

「うーん、それはさすがになあ。たしかに僕の使命には関係ないといえば、関係ないけど、レターデーションリングも無しに世界線を移動できる人間だ。興味がないといえば、嘘になる。可能な限り命を助ける」

「ふむ、リーバーならそう言うと思ったぞ。無愛想で愛嬌のない顔に似合わず、貴公は好奇心と慈愛に溢れているからな」

「それ褒めてる? なんかあんまり嬉しくない講評だな」

「もちろん褒めているとも。顔自体は可愛らしいつくりをしている」

「性格だって、十分可愛らしいでしょ」

「……」

「おい、このポンコツ。機械のくせに気分で無視するなよ」

「おっと失敬。少しラグが発生していたみたいだ」


 表情の存在しないヴィニシウスに鉄仮面扱いされたロンドンは、不機嫌そうに口を曲げると、慎重に少女を抱きかかえる。

 痩せ細っていた見た目の通り、外見から想定される年齢には不相応なほど軽い。

 満足に食事すらとることができていなかったことを、両腕にかかる負担の少なさから感じ取り、ロンドンは胸を僅かに痛ませる。


「この世界線がそれなりに医療が発達していればいいんだけど、どうだろうな」

「見る限りでは、これまでワガハイたちが訪れた世界線の中でも、先進的な世界線に分類されるのではないか?」

「うーん、まあ、そうだね。たしかにそんな気はするけど」


 少女を抱えたまま、ロンドンはゆっくりと歩きだす。

 どうやらここはドーム状の温室施設のようだ。

 至るところに植えられている植物は、種類ごとに区切られているらしく、区間を移動すると空気の湿度もまた変化したように感じた。

 注意深く観察すれば、真っ白な空調設備が幾つも目に入る。

 定期的に手入れがなされているのか、枯れているような植物は全く見当たらず、休むことなく稼働音を響かせる機械にも汚れ一つ見つからない。


「綺麗な場所だけど、なんとなく薄気味が悪いね」

「完全に管理された自然は、不自然に映る。リーバーの感性は、とても贅沢だな」


 温室内の植物はどれも深緑の葉をつけていて、種類によっては色鮮やかな花を咲かせているものもある。

 それでもどこかロンドンは落ち着かない。

 理由はわからないが、このドームの内側で育っている植物からは、生命の輝きを感じなかったのだ。

 それはいっそ、自らの胸元で瞼を閉じている白髪の少女の方が、まだ生きていると感じられるほどに。


「……リーバー、“人”だ」

「ああ、この世界線での初接触か。いつものことだけど、やっぱり最初は少し緊張するな」


 肩の上で微動だにしなかったヴィニシウスが、ふいに特徴的な高音でロンドンに注意を促す。

 見てみればワンブロックほど先にある、背の高い金髪の女性の姿。

 手には何やら霧吹きのようなものを持ち、どこか物鬱気な表情でイエロウの花弁を咲かせる植物の前に立っている。


「……え? あなたは? どうやってここに?」


 するとロンドンが声をかける前に、ブロンドの女性が彼に気づいたようで、警戒心を滲ませてやや後ずさりする。

 そんな女性の挙動をみて、ロンドンは意外に思う。

 リーバーの性質上彼は、特に世界線を移動した直後は、他者に感知されにくい状態、砕けた表現でいえば影の薄い状態になることが多い。

 それにも関わらず、彼の方から声をかける前に女性はロンドンの存在に気づいた。

 これも白髪の少女の出現に関係があるのだろうかと、ロンドンは内心で訝しんだ。


「どうも、すいません。どうやら迷い込んでしまったみたいで」

「迷い込んだって、そんなことはありえないはずなんだけど……待って、その肩に乗っている生き物はなに? それにその抱きかかえている女の子、病気なの?」

「この肩に乗っているのは僕の相棒のヴィニシウスです。見ての通り、ただの鳥です」

「ただの鳥って、ここは生き物の持ち込み禁止なのに……でも今はとりあえずその鳥とあなた達のことはいいわ。とにかくその子を手当てしないと」

「はい。すいませんが、手を貸してくれると助かります。僕もこの子をどうしてやればいいか、途方に暮れているところだったので」


 特に不自由なく、言葉は通じている。

 さらにどう考えてもただの鳥ではないヴィニシウスを見ても、淡泊な反応を見せる女性の様子から、“擬態アジャスト”がいつも通り効果を発していることに、ロンドンは内心安堵した。


「それにしても見たことのない病気ね。とりあえず私の部屋に来て。薬があるから」

「治りますかね、彼女」

「さあ? わからないけれど、薬さえあれば治るんじゃない? 治らない病気なんて、聞いたことがないし」

「……そうなんですか。ありがとうございます。でも水やりはもういいんですか?」

「水やり? ああ、構わないわよ、こんなもの。意味なんて、ないんだから」


 霧吹きで植物に水をやっている途中だったため、その作業を遮ってしまったことを謝罪すると、金髪の女性は冷めた目つきでかぶりを振る。

 並行世界とはいえども、元々はたった一つの世界から枝分かれをしているため、物理法則や構造はそれほど大きく異なっているわけではない。

 そのため自らの常識に従って、植物栽培には水が重要とロンドンは考えたのだが、どうやらこの世界線ではやや勝手が違うようだ。


「ちなみに私は“ハピネス”は持っていないから、もし彼女の精神安定のために使うつもりなら、そこは自分たちでなんとかしてくれる?」

「え? あ、はい。わかりました」


 ハピネス、その言葉が意味するものを、ロンドンは正確には理解できない。

 単純に思いつくのは、“幸せハピネス”だが、文脈からどうやら幸福概念の話ではなさそうだ。

 ロンドンは黙って、女性の揺れる金色を追うだけ。



「私、ハピネス、嫌いなのよね」



 突き放すような声色、そこにはたしかに幸せの気配は感じられなかった。

 


 


 

 

 



 

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