雪解け前の世界線にて

谷川人鳥

雪解け後の世界線にて

エピローグ


 世界線番号4は厳しい積雪の季節を超え、色鮮やかな花が咲く暖かな春を迎えていた。

 柔らかな日差しが街中に降り注ぎ、薄麻の外套を一枚羽織るだけで肌寒さには耐えることができる。

 昨晩の雨の影響か灰鼠の街路に水溜まりが残る、そんな世界線番号4の街の一つ“カールルッド”を珍妙な格好で歩く一人の青年がいた。

 全身を夜のように真っ黒なコートで染め、雪すらくすむほど白い髪を両耳が隠れる程に伸ばしている姿に加え、肩に一羽の鳥を乗せている様子は控えめにいっても目立つ。


 さらにその鳥は普通の鳥ではなかった。


 頭部から翼はもちろん、胴体、足の爪先まで全てが艶やかな光沢のある金属で出来ている。

 このカールルッドの街で白髪の人間は彼以外には見当たらなければ、当然のように他の建物の壁端にとまる小鳥たちの中に金属光沢をもつ種も全く確認できない。

 そんな明らかな異端者である青年を街の誰もが気にも留めず、世界は完全に受け入れてしまっていた。

 しかし自らが自然な存在から不自然な存在に移り変わるのは、時間の問題だとも彼はよく理解していた。


「ふむ、それでリーバー、どうするつもりだ? そろそろ潮時だとワガハイは思う。次の世界線に移動する準備を始めるであるか?」


 ギーギー、と錆びた鉱物をすり合わせたような声がふいに響く。

 それは白髪の青年から聴こえるものだったが、彼の口元からではなく、肩に乗った金属の鳥の嘴から発せられているものだった。


「……そうだなぁ。段々と擬態アジャストの効果が切れてきている気がするし、ぼちぼち移動しよっか。どうやらここも“僕のいていい世界”じゃないみたいだ」


 右手に二つ付けてある腕時計の内、掌の内側を向いている方の時刻を深いブルーの瞳に映し、少しだけ寂しそうに青年は溜め息を吐く。


「いいよ、ヴィニシウス。ナビゲーションを始めて」

「オーダーアクセプト。オーナーリーバーの要請により、並行世界検索プログラムを実行。検索設定、世界の歪線ノイズリンクル、反応昇順。検索除外、世界線番号4、世界線番号37、世界線番号89……」


 白髪の青年にヴィニシウスと呼ばれた金属の鳥は、瞬き一つしなかった目を閉じると、周期性のある電子音を放ち始める。

 首元にかかった複雑な紋様の刻まれたリングに手を添えながら、ぼんやりと自らの行く末を思案する。

 次に自分が向かう世界こそは、ずっと自分が探し続けている世界だろうか。

 もう二度と出会うことの叶わない両親の形見であるリングを、いくら指で弄っても答えは見つからない。



「……そうか。どこの世界にも僕みたいなはみ出し者はいるんだね」



 ヴィニシウスが瞳を閉じている間、目的もなく薄暗い路地を歩き続けていた青年は、道端に純白が落ちているのを見つける。

 それはまるで解けかけの雪のようで、その純白は一人の少女だった。

 汚れまみれの服は春風を防ぐにも薄すぎて、彼女が横たわる土石のベッドは若い少女の疲れを癒すには温もりが足りていない。

 腰の辺りまで伸びた長髪は青年と同じ白に染まっていて、もしかしたらそれが少女が道端に仰向けに倒れていても街の人間が誰一人として気にしない理由かもしれなかった。

 世界線番号4のカールルッドの街の人間は黒髪か金髪、そして時々赤髪がいるだけだった。


 人はいつ、どの世界でも自分と異なる人間には厳しい目を向ける。


 少女の息はもはや風前の灯火で、服から覗く華奢な腕には青紫の毒々しい湿疹がひしめている。

 おそらく何かの病に侵されているのだろうと予想はつくが、正確な病名や、治療方法はわからない。

 雪は、解けかけていた。


「きっとここは、君のいていい世界じゃなかった。ただそれだけさ。君が悪かったわけじゃない。君のせいじゃない。君のいていい世界が、ここじゃなかっただけ」


 青年は腰をかがめ、静かに少女の髪を掻き上げその相貌がよく見えるようにする。

 小ぶりだが筋の通った鼻。形の良い吊り眉。

 青年は思う。

 自分の母の幼い頃によく似た顔をしていると。

 だがよく似ているだけで同じではない。

 幼い母の顔は写真で見たことしかないが、目の前の少女とは髪の色も違う。青年の母の髪は宇宙を思わせる深い黒だった。


「せめて、安らかに眠らんことを」


 胸にかかったリングの前で、指で十字を切ってから、そっと青年は少女の額にキスをする。

 それは青年が眠りにつく前に母がいつも行っていた、彼の知る限り世界で最も優しい祈り。


「並行世界移動プログラム実行準備完了。リーバー、いつでもいけるぞ」

「了解。ご苦労様、ヴィニシウス」


 少女の顔から視線を外し、再び立ち上がった青年に対して通りすがりの男が肩をぶつけ、不機嫌そうに舌打ちをする。

 それは悪い兆候だった。

 世界線番号4では、これまで誰もが良い意味で彼を気にしなかった。

 世界が自分を拒絶し始めていることに気づいた青年は、諦めたように首元のリングを指に嵌めて、冷たく澄み渡った青空を見仰ぐ。


「オーダーコール、オーダーコール。これより並行世界移動プログラムを実行する。コマンドオールラン。レターデーションスタート」

「オーダーアクセプト。オーナーリーバーの要請により、並行世界移動プログラムを実行」


 空気が張り付くような乾いた音が響き、砂塵が重力を無視して宙に浮かぶ。

 蒼白の光が青年の周囲で規則的に点滅を繰り返し、静電気に引かれるように雪白の髪が逆立つ。

 ヴィニシウスは金属の翼と尾を時計の針のように真っ直ぐと伸ばし、目を眩ませる光の点を自らを中心にして真円に繋ぐ。



「ここは僕のいていい世界じゃなかった。さあ、世界を僕のいていい世界に再起動リブートしよう」



 点が線になり、光が無に変換される。

 風船に針を刺した時に似た破裂音。

 初めからそこには何もなかったかのように、白髪の青年と鉄色の鳥が世界線番号4から消失する。

 

 しかし、彼らはまだ知らない。

 

 この瞬間、他にもこの世界から永遠に失われたものがあることを。


 埃っぽい裏路地には、もう誰の姿も見つからない。


 青年の足下に倒れていたはずの純白の少女は、青年が消えたのと同時に姿を消していた。

 


 雪は、解けきってしまっていたのだ。





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