第4話
アスファルトの道にもうっすらと白く霜が降りる季節となり、気付けば一ヶ月が過ぎていた。
出勤初日から、飯田カイトの返答に窮する質問を浴び、新しい職場での生活にも不安を覚えていたけれど、あれ以降そのような気持ちが揺らぐようなことを聞かれることは無かった。むしろ、何か分からないことがあれば親切に良く教えてくれ、彼への警戒する気持ちも日ごと薄れていった。
隣のデスクというのもあり、彼とはよく話すようにもなった。よく見ると、すらっとした身長と整った顔立ちで、今どきの草食系男子という表現が似合う飯田君は、仕事柄もあるけれど、年齢の割には落ち着いた雰囲気があった。気分や感情にあまり左右されない、テキパキとした対応と柔和な人柄には、自分より一廻りも年下なのだろうか、と思うくらいいつも冷静沈着で適格な仕事をする。
でも、時々その柔和な感じとは異なる印象を感じるときがある。表情は穏やかなのに、誰も寄せつけないような、声をかけるのも
それでも、気になることはそれくらいで、仕事自体はとても充実している。以前の仕事と比べたら病院という環境から、受診相談や、外来インテーク、入退院の支援、支援会議、手続き上の書類業務・処理、と日々予想以上に行う業務は多く、相談員として難しいケースに携わることも少なくなかった。でも自分にとっては、そのハードさも水を得た魚のように活き活きと仕事をする原動力となっていた。職場の人間関係も、いつも感覚的に肌に合わない人がいることが多かったけれど、そこまで苦痛に感じる人もいなくて、怖いくらいに『平和』という言葉がぴったりとくるような日々で、本当にこんな日々があって良いのだろうかと冗談でも頬をつねり、現実かどうか確かめるたくなるくらいだった。
そんなこれまでに無い穏やかな生活を感じながら過ごす、12月の最初の日曜だったが、あまり思い出したくない現実へと引き戻す相手から、携帯に電話がかかってくる。
着信表示には『田中春子』と表示されている。母の姉からだ。
「もしもし──」
「アキちゃん、元気かい?
新しい職場はどうだい?そちらの生活にも慣れてきたかい?。」
「ええ、おかげさまで。 いつもありがとうございます。母の入院の件では色々と助かりました。」
「いいんだよ、礼なら。仕事は忙しいのかい? お正月はこっちに来る予定はある?」
「そうですね、仕事は忙しくて、年末年始の休みはあるのですが、ようやくこっちの生活にも慣れてきたところなので、今年はこっちで過ごそうと思って……。だから母のところもまた落ち着いてから行こうかと思うのですが……、すみません。」
「別に構わないよ。敦子のことは退院してからでも遅くないよ、仕事に影響したら悪いからね。久しぶりに一人でゆっくりしなさいよ。 アキちゃんも、離婚のこともあったり、色々あったから、変な心配はしないでさ、敦子のことは姉の私が対応するから。
今まで、アキちゃんにばかり負担かけて悪かったねぇ。せっかくやりたいこと叶えるためにアキちゃんが勉強してこういう仕事に着けたのに、また敦子のせいで、アキちゃんの人生振り回したりしたら、悪いからねぇ。体調だけは気を付けてね。」
「ええ……、春子伯母さんも。」
「私かい?私はいいんだよ、アキちゃんみたいに色々周りのことを気にする性格じゃないからさ、またいつでもアキちゃんが大変な時は何でも遠慮なく言ってよ。私もそういうところ気づかなくて、無理させたねぇ。」
「いえ……、色々と面倒かけますがよろしくお願いします。」
「分かったよ、じゃあまた電話するからね。」
「はい。」
──プツッ。プー、プー。
「ふぅ……。」
伯母さんはいつも一方的に話して来るので、それを聞いている内に電話が終わることが多いけれど、今日は珍しく私のことを気遣ってくれていた……。
それもそうか、私が夫との離婚手続きのことで追われていて、母が入院となったにも関わらずそれどころではなくて、今回初めて伯母に手続きなどをお願いしたから……。
頼まれた伯母も、最初は驚いていたが、思えば兄弟なのに母とは言い争いばかりで娘の私に任せきりにしていたのを申し訳なく思っていたらしいみたいで、二つ返事で引き受けてくれた。
母は、5年前に脳梗塞から認知症症状が出てきて自宅での生活が一人では難しくなり、地元の介護施設に入所して生活していた。
だが、ここ数ヶ月前から、夜間に卑猥なことを頻繁に叫ぶことや、日中に他の利用者の物を度々盗んだり、急に大声をあげて利用者を威嚇したりと、他の利用者への被害が多くなって、秋頃から自宅近くの精神科病院に入院している。
施設としては、母の行動の対応に困ってというよりも、他の利用者家族からの強い苦情が重なって、施設での対応で良いのか母の精神状態をよく調べるためにも一度専門の医師に診てもらった方が良い、という判断となり近くの精神科病院を受診したようだ。通院も検討したが処方の薬で転倒する恐れもあるとのことで、施設でもそのリスクを心配して今回入院での治療となった。しかし、私もちょうど夫とのことで実家を行き来する間も無く、今回入院の手続きを伯母に相談するに至ったのだ。
ダメもとだったが、伯母と以前祖母の法事で会った時に「何かあれば相談乗るから」と言っていたので、社交辞令かなと思いつつも思いきって頼んだら、渋ること無く伯母が保護者となってくれたので、あまりのスムーズな展開に私が一番驚いてしまった。しかし、これ以上母と接することへ限界を感じていた私には、母の兄弟が少しでも関わる機会に繋がったから、言ってみるものだな、と思った。
母の精神科病院への入院はこれで2度目になる。1度目は私が生まれる前のことで、20代の頃に付き合っていた男性と上手くいかなくて自宅で自殺未遂を図り精神科病院に入院していたことがあったと、15年くらい前に伯母から聞いている。
だから、今回の入院もそれほど驚くことはなかった。むしろ彼女のこれまでの精神状態を考えれば、介護施設に入る前にもっと早く専門的な医療を受けさせたかったことは数え切れないほどあった。何度かいくつかの病院で相談したこともあった。でも、本人が病院へ行きたがらないので受診させることはできなかった。母は自分はそんな病気ではないと、頑なだった。その気持ちは分からなくはないけれど、自分の思うようにならないと人を感情でわめき散らしたり叩いたり蹴飛ばしたり、怒声をあげて周りの私達を困惑させる行動には耐えがたいものしかなかった。
自分もこの分野で働くようになって、母の病的な部分と性格に固有する部分の見極めがつくようになって、余計に専門的なところで支援が必要な人だったと感じている。今、思うと母は知的障害には該当しないが、それでも通常のIQより低い、知的境界域のところに該当するハンディがあったのではないかと強く思う。そういう域の人と接していると、彼らの生活のしづらさや特性が母とよく似ていると感覚的に感じることがある。それまでは母のこの理解できない行動や情動も、そのように考えると今まで埋まらなかったパズルのピースが全て埋まるように納得いくのだ。
昔はそれが分からなくて、訳が分からない行動や言動に振り回されたり、親というよりも人間と呼ぶには呼べないくらい、正常な精神状態、情動を逸していることの方が多く、動物のような本能のままに生きるこの人間と上手く生活していくにはどうしたらいいのか、子どもの私には理解の限界をはるかに超えていた。それでも、あの人と生活しなければならなかった状況から抜け出す術はなく、あの頃のことは今でも思い出したくもない記憶だ。
そんなあの人間から生まれた人間かと思うと、自分に吐き気がして、どうして私は存在しなければならないのか、という疑問しか浮かばない。私がこの世界に生を受けることなく存在さえしなければ、私も含めて誰も傷ついたり苦しい思いをする人はいなかったはずなのに。そもそも
望まれない妊娠で産まれ、且つその両親から虐待を受けてまでも生まれてこなければ、生き続けなければならない理由はどこにあるのだろうか。幸い命までは奪われなかったが、でも心はズタズタに切り裂かれた。その心をここまでケアするまでにどれくらいの時間と費用を要したか、加害した親たちは全く知る由も無い。
産んだ子どもを虐待し、命まで奪うニュースを見る度に、未だに子どもさえ産めば親になれる神話が無くならないのか疑問に思う。世の中には、子を産んでも母性や父性が育たない人間もいる。
子どもを、親たちの満たされ無い感情のゴミ箱として扱う大人……、私には恐ろしい化け物と化した人間にしか見えない。
そんなふうに言うと言い過ぎなのだろうか……。でも、子どもだった私にはあのひとたちはそのようにしか見ることができなかった。こわかった、いたかった、だれかにたすけてほしかった……。
──そして今、私は大人になった。少しは生活が人並みに出来るようになったし、自分を守ることも出来るようになった。けれどもまだ、あの頃の苦しさ、恐怖、怒りの感情を抱えた『わたし』は消えてはくれない。
小さい『わたし』……。今なお、黒い暗闇のなかに取り残されたまま『私』と共に生きていて、大人の私の心を刺してくる。そういう時は、生きていることがとても苦しくなって消えてしまいたくなる。
小さい『わたし』を助けたいからか、自分の子ども時代の体験を誰にもさせたくないからか、「鶏が先か、卵が先か」みたいなところはあるけれど、そんな思いがあって、私はこの仕事をすることを決心したことに間違いはないと思う。
地図の欠片しか持たずに海へ出た私には、この先の航海がどうなるかなんて何も分からないし、必ず何かを成し遂げられる、なんて保証は無い。けれども、後には戻れないし、戻る訳にもいかない、それだけはこれからも揺るがないと思う──。
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