第38話 深空碧継が守るもの



『何でだよアオ兄!』


 そんな風に、眼を見開いて叫ばれたのを憶えている。

 不満や怒りよりも、純粋な驚きを込めて問い質してくる紅姫に、俺は改めて、これは紅姫や玄蔵叔父さんを守るためなんだと言い切った。


 深空碧継は父譲りの子悪党。そのせいで、親戚である紅姫や玄蔵叔父さんは散々に苦労している…………そういう印象を作り上げる。

 その為には、俺と紅姫が仲良くしている姿を、世間に見せるわけにはいかない。むしろ、ダメ兄貴として無垢な妹に辛く当たる姿を見せつけなくてはならない。


 紅姫が神之原学園に入学して数ヶ月。幸い、俺とは登下校のバスくらいでしか接していない。まだ印象操作は可能なはずだ。

 賢勇や前田組も強力してくれる。最悪、失敗したって今よりヒドくなるわけじゃない。

 そして成功すれば、紅姫たちは普通に真っ当に過ごせるのだ。

 なら、やらない選択肢はない。

 だから頼み込んだ。

 正面から紅姫に向き合って頭を下げた。とにかく眼を逸らすことだけはしなかった。それぐらいしか、自分の誠意を示せなかった。


〝頼む紅姫、今は俺を……を信じてくれ〟


 たぶん、紅姫に対して自分を兄だと口にしたのは、あれが初めてだったと思う。

 物心ついた頃にはすでに一緒にいた従妹。

 俺を本当の兄のように慕ってくれて、甘えてきて、面倒も掛けてきて、それがウザったい時だってもちろんあったけれど、だからこそ俺にとっても本当の妹のような少女。


 なら、そんな妹を守る為に、兄は何だってやるべきだ。


 そう決意した俺に、紅姫はようやく頷いてくれた。


『……わかった。アオ兄を信じる……』


 そう言って、微笑んでくれた。

 けれどその笑顔は…………。


『……あんま楽しそうじゃない感じっていうか……な』


 ああ、そうだな。賢勇の言う通りなんだろう。

 だってファミレスに居た紅姫の笑顔は、あの時と同じだった。なら、やっぱり紅姫は、仕方ないから笑ってくれていたんだろう。


 仕方ない。仕方ないことは、どうしようもない。

 だから俺は、いつだって、どうにかできることに全力を尽くしてきた。

 どうしようもないことは、どうしようもないから……。

 だからせめて、どうにかできることだけは、意地でもどうにかして見せようと気張ってきたんだ。


 ふと、誰かが深い溜め息をこぼした。


『……ほんとに、難儀な子だね……』


 俺のすぐ後ろから投げられたそれは、深くあきれていながらも、どこか楽しげで優しい響き。

 痛いほどに近しくて、吐き気がするほど懐かしい、その女性の声。

 コツンと、軽く頭を小突かれる。痛くはない。でも、彼女にそうして小突かれる時は、いつも叱られる時だった。


『碧継はと思ったらとことん諦めないくせに、と思ったらあっさり諦めちゃうのね』


 声音は変わらず楽しげに優しげに、だから、それは怒っているというよりも、からかわれているように感じる。


『そういうのは、わたしは嫌いだね。そんなんじゃあ、立派な〝正義の味方〟になれないよ?』


 クスクスと、小さな子供を挑発するように、彼女は笑っていた。

 何だそれは?

 そもそも俺は〝正義の味方〟になんてなりたくないっての。そういう寝ボケた妄想に踊るのは、クソ親父だけで散々なんだ。


 だから、あんたまでそんなフザケたこと言わないでくれ……。


 本当に────。




「……頼むよ、お母さん……」


 心の底から、そう懇願した。


「う、うむ……その……貴方にそう甘えられると心が揺れてしまうが……しかし、そろそろ起きなければ、遅刻してしまうぞ」


 優しい声音が、そう応じる。

 親しく近しい女の声。でも、それは今し方にそばに居た誰かとは違う。

 凜々しい声音なのに、穏やかに呼び掛けてくる優しい声。心地良くも聞き慣れたその声は……。


「……アルル?」


 眼を開けて見れば、枕元に座したアルルが俺の顔を覗き込んでいた。


 何だ?

 何がどうなった?


 寸前までの状況が、現在に繋がらない。

 呆然と固まっている俺の頬に触れてくる白い手。

 くすぐるでなく、ただ、そっと触れてくる掌の温もりが、何だかとても心地良くて……。ぼやけていた意識が、優しく揺り起こされた。


「おはようアオツグ」


 青い瞳を柔和に細めて、彼女はそう言った。小首をかしげた拍子に、金色の髪がハラリと揺れる。差し込む朝日に煌めいたそれが綺麗で、ぼーっと見つめること数秒間。


「ああ、夢か……」


 ようやく理解する。

 どうやら夢を見ていたようだ。夢想からの覚醒が唐突で、思考が追いついていなかった。


 ……要は、寝ボケていたのだ。


「ごめん……その、おはよう」


 まだ少し呆然としながら身を起こす。

 枕元の目覚まし時計を見れば、時刻は六時をとっくに過ぎている。どうやらまたアラームをセットし忘れたか?


 ……で、彼女が起こしにきてくれたわけか。


 歳の近い母代わりの女性に優しく起こしてもらうとか、我ながらずいぶんと良い御身分だ。

 照れを隠して苦笑う。

 一瞬、頭の芯が鈍く痛んだ…………ような気がした。

 少し気分も悪い……か?

 たぶん、昔の夢を見たせいだろう。

 そう、昔の夢……昔の……はて? どんな夢だっけか……?

 思い出せない。過去を追想するような夢だった気がするんだが……。

 けど、夢の内容なんてそんな物だし、無理に思い出してクソ親父の夢だったら、それこそ気分が悪くなるだけだ。


「……アオツグ? 何だか顔が赤いぞ」


 呼ばれて顔を向ければ、間近にアルルの顔があった。布団に両手をつき、グッと上体を寄せてきている。


「な!? お……何だ!?」


 間近だ。ものスゴく近い、それこそ唇が触れ合いそうな超至近だ。

 思わず視線をうつむけて逃れようとしたが、今度は服の襟元から覗く光景に迎え撃たれた。

 角度的に、豊満な白い谷間がバッチリ見える。いっつもハイネックセーターやら襟の詰まった服着てるクセに、何で今日に限ってそんな襟回りゆったりなワンピース着てんだオマエは……!

 脳内で怒濤の抗議を叫びつつ、慌てて身を退こうとした俺だったが、アルルの両手にガッシリ頭を挟まれて阻まれた。


「少しジッとしてくれ、アオツグ」


 そのまま額と額をくっつけてくる。

 デコがピッタリ触れ合う感触に、俺はさらに戸惑いつつ……けど、アルルの真剣な眼差しに気圧された。

 真剣な、というか、心配そうなアルルの表情。


 これは、いつぞやに同じく熱を測られている……のか?


 元より、お強い騎士様にフィジカルで敵うわけもない。しばし大人しく体温測定されながら、至近でバッチリ見つめ合いつつ……。


 否応なく感じるのは、吐息の熱や、流れてくる彼女の匂い。


 いつもながら、どこか甘いミルク菓子のような香り。化粧……は、してないみたいだし、シャンプーやらは俺と同じの使ってるはずだし、何でコイツはこんなに良い匂いがするんでしょうね?

 ……いかん、また脳内がピンクの闇に侵蝕されそうだ。今は無心で素数を数えて理性の維持に徹しよう。

 そんなCEROの境界で苦しむこと、しばし。


「やはり熱いな、顔も少し赤い」


 やがて額を離したアルルが心配そうに呟いてくるが、そりゃあ赤面もするだろうよ。


「あのな、いきなりこんな恥ずかしいことされれば、健全な男子は誰だってそうなる」

「……恥ずかしい?」


 キョトンと見つめ返してくるアルルさん。

 ……何か、ここまで意識されてないってのも、男として哀しくなってくるな。まあ、家族として気を許してくれているんだから、それ自体は良いことなんだろうけどさ……。

 俺は自身に言い聞かせつつ立ち上がる。


「ともかく大丈夫だから。顔洗ってくる。で、朝飯にしよう。あまりのんびりしてる時間はないだろう?」


 努めて平静に呼び掛けた。

 アルルはまだ少し心配そうにしながらも、ひとまず納得してくれた様子でうなずいた。


「……うむ、わかった。けれど、体調が悪いようならすぐに言うのだぞ。わたしは、貴方の母なのだから」


 ニッコリと笑いかけてくれる。

 優しく穏やかな、慈愛の笑顔。

 言葉でも態度でも示している通り、彼女はいつだって俺を慈しみ癒やしてくれている。本当に、何が楽しくて俺なんかをそんなに構ってくれるのかは知らないが……。


 また熱が出る前に、俺はそそくさと洗面所に向かった。


 少し強めに顔を洗う。冬場の冷水が今はありがたい。

 ふと、鏡に映った自分の顔を見る。

 改めて注視すれば、疲れているか? 少し熱っぽいのも確かだし、アルルが気にするのも無理ないかな。


「……けど、休むほどでもない」


 声に出してそう奮起しつつ、自室に戻る。

 着替えて居間のコタツにつけば、当に準備万端で座していたアルルが笑顔で迎えてくれた。


「「いただきます」」


 そろって箸を取る。示し合わせているわけじゃないのに、いつも声がそろうのは、たぶん、アルルの方が合わせているんだろう。


 今朝の献立は白米に卵焼き、焼き鮭、ホウレン草のおひたし。何ともオーソドックスな和の朝食。だからこそ、味噌汁がないのがとても寂しいというか、違和感すら感じてしまう。

 もちろん、不満があるわけじゃあないんだけど。


「……やっぱり、カレーより先に極めるべきは味噌汁だと思うんだが」


 俺がポツリともらせば、アルルは「ん?」と箸を止める。


「アオツグはカレーより味噌汁の方が好きなのか?」

「いや、どっちも好きだけど。好き嫌いの問題じゃなくてな。こういうメニューには味噌汁があるのが普通というか、望ましいというか……」


 定番というか、様式美というか、そもそも栄養バランスとか的にも朝はご飯と味噌汁が理想だと思うのです。

 もちろんカレーライスだって至高のメニューだと思う。

 別にカレーの勉強やめろってんじゃないし、美味しいカレーは俺も望むところだし、例えばパン食だったら味噌汁よりカレーだよな。ああ、でも、その場合はまたコーンポタージュ作って欲しい……。けど、もちろん作るのはアルルなわけだから根本的にはアルルの思うようにしてくれて良いし、そもそも料理を任せっきりにしている俺が横からとやかく言うことではないんだけど────。


 ………………何で俺はこんなにテンパってんだ?


 自分でも良くわからないくらい脳内で並べ立てた弁解。

 さっきの接近戦でのダメージが回復仕切っていないようだ。

 それに、アルルは毎日炊事洗濯をせっせと担ってくれている。その頑張りにダメ出しするようで、ちょっと気が引けてしまったのもある。


「ふむ……」


 アルルはしばし思案げに小首をかしげつつ。


「つまり、アオツグはわたしに味噌汁を作って欲しいのだな?」


 何かそういう風に言われると、古臭いプロポーズみたいでアレな気がするけど。


「まあ、端的に言えばそうだ」


 肯定すれば、ジッと見つめてくるアルルさん。


「…………」


「…………」


 この微妙な沈黙は何だ?

 今はカレーに専念してんのに……とか、そういう不満な感じなのか?

 けれど、彼女の様子は不機嫌っていうより、驚いてるって感じだった。


 そんなに妙なこと言ったか……な?


 俺がにわかに不安を抱いたのも束の間に、アルルはニッコリと頷いた。


「わかった。貴方のために味噌汁を作ろう」


 ……いや、何で〝貴方のために〟って強調するんだ?


「ふふ、貴方がそうして求めてくれるのは珍しいからな。さっきといい、今日のアオツグは甘えん坊だ」

「さっき……?」


 寝坊のことか? と、首をひねれば、アルルはどこか気恥ずかしそうに顔を伏せ、上目づかいでこちらを見てくる。


「ああ、……と、呼んでくれただろう?」


 ……それは、たぶん寝ボケてただけです。


 ジト眼で見返せば、なお穏やかに微笑んでいるアルル。正に破顔一笑って感じの笑顔は、相変わらず、見てるこっちが恥ずかしくなるほど。

 なら、〝貴方のために〟ってのは嫌味でも恩着せでもないのだろう。言葉の通り、彼女は俺のために世話を焼くのが楽しくて嬉しいのだ。

 そうして世話を焼かれるのは、俺としても満更でもない。

 ないんだけど……。


「待っていろアオツグ、母は頑張るぞ」


 コタツ越しに身を乗り出したアルルが、蕩けそうな笑顔で俺の頭を撫でてくる。幸せそうで嬉しそうな、いつもの彼女…………けれど、今はそこに微かな陰りを感じてしまう。

 それは、あの勉強会の一件のせい。


〝アオツグを守る〟


 そう言って抱きついてきたアルル。

 いつも優しく抱き締めてくれるアルルが、懸命にすがりついてきた。

 追い詰められたかのような、必死な様子。それはまるで〝何かを守らねばならない〟という脅迫観念に駆られているような、悲痛な印象だった。


 アルルは、俺を守ってくれる。


 けど、やはり、そこには何か事情があるようだ。


 俺は、その事情を知りたいのか?

 それとも、知りたくないのか?


 正直、どっちでもいい。

 どんな事情があろうと、アルルはアルルだ。

 アルルが何者であれ、俺は彼女を失いたくない。

 だから問題なのは、知りたいかどうかではなく、その結果の方だ。アルルは俺を守ってくれる。なら……。


 俺は、アルルが俺を守ってくれるこの生活を、守らねばならない。


「どうしたアオツグ?」


 見つめてくる青い瞳。

 同じく見つめ返して笑う。


「どうもしない。いつも通り、オマエに見とれてるだけだ」


 それもまたいつもの台詞、けど、今のこれは完全な誤魔化しであり、はぐらかし。それを見透かされたのだろうか?


 アルルは少し困ったように、微かな苦笑を浮かべたのだった。


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