Lost Note≠00 運命の話 

「……仕事ッスよ」

 

 その部屋はとても、まるで月の無い夜のように暗かった。

 覗くことすら嫌がっていることを隠そうともせず、ケムリは中にいる少女に――正しくは、聴こえる鼻歌からして其処にいるだろう少女に声をかけた。

 ピタリと鼻歌が止んで、返ってきたのはいかにも驚愕に満ちた声。

「え、ヤオが出てもいいんですか?」

「お前しかいないんスよ、正しくは。既に何人か放ったけど誰も戻ってこない。並のサイキックじゃ瞬殺されるんスよ。それくらい面倒なサイキックが相手ってことッス。負けはしないかもしれないけど――なるべく生きたまま捕獲しろ、ってボスが」

 のんびりとした動きで部屋から出てきたのは、まだ比較的幼そうな少女――自らをヤオと称する彼女は、ケムリの言葉を吟味するように考えて、

「……ってことですか? ちょっと難しいと思いますが」

「なるべく、の部分聴こえなかったんスか。ウチらの担保なんスよ、その子。そりゃ生け捕りに越したことはないッスけど――そのまま処分でもいいッス」

 ぶっちゃけ面倒くさいんスよね、色々と。

 本心はむしろ処分こそ望んでいる、とでも言いたげな口調で彼女は言う。

「それに幸せかもッスね――ここで生きてたって、何も良いことないんスから」


 ケムリこと、本名・戌亥煙いぬいえんは『暗幕エクリプス』の住人である。

 殺しなんてものが当たり前の世界で生きる彼女は、しかし最初からそうだったわけではない。一応、あったことはあったのだ――希望に胸を膨らませる、一介のサイキック女子高生でしかなかった時期が。

 けれど彼女は知ってしまった。色々あって思い知ってしまった。

 超能力、科学技術――このサイクロポリスが超常開発都市なんて、世間より百歩進んだ夢の未来都市でいられるのは、そういうマスクを被っているからに過ぎないのである、と。

 『暗幕エクリプス』に蔓延る者達こそ、サイクロポリスの本当の顔だ。

 殺しだって平気でやるような連中と、人体実験に後ろめたさを欠片も覚えない連中が仲良しこよし、跳梁跋扈しているのが『暗幕エクリプス』なのだ。

 人間らしく生きていたいのなら、ここに来るべきではない。

 誰にも覚えてもらえないまま、誰にも看取られることのないまま。

 死んでいく方が多い世界に――まして心があるというのならば。


「うーん、ヤオはそう思いませんね」

「はぁ?」

 それもそうですね、くらい言ってもらえると思っていたケムリは、しかしまさかの否定に思わず素っ頓狂な声を漏らした。

 ヤオは「だって」とクスクス笑いながら、

「良し悪しを決めるのは他人じゃないですよ? 何に価値を見出すか、何に意味を抱くか……そしたらどこでも地獄だし、どこでも天国です。良いことが何も無いなんて、ましてや死んだ方が幸せなんて――まるでみたいな言い方しないで下さいよ」

 そして笑ったまま、さも当たり前のように言うのだ。

「生きているだけで、人はきっと幸せになれますよ」

「……それを今から奪おうって話をしてるんスけど」

「それがヤオの幸せに繋がるのなら――まぁ、

「……そうッスか」

 ヤオの言葉が決して誇張ではないことを、ケムリは知っている。


 彼女の持つサイキックは正真正銘、生物を殺す為に存在するサイキック。

 いったい何を願えば、そんな物騒なサイキックが発現するのかは分からないが――殺し殺されることが常の世界で、これほど頼りになるサイキックも他に知らない。


 溜息を吐きながら、ケムリは携帯端末を投げて寄越した。

「早く行くッスよ。このマップに表示されるマーカーがそれッス」

「はぁい――あ、これって普通に携帯としても使えますか?」

「通話くらいなら……仕事が終わったら連絡するッス」

 しげしげと珍しそうに、携帯を眺めるヤオに背を向けて歩き出す。

 正直、今回の仕事は気乗りしなかったので、こうして他人に預けることができたのは幸いだった――格上のサイキックと戦うのもそうだが、何より相手の出自を知ってしまっているからこそ、彼女の選んだ『逃走』という選択に介入したくなかったのだ。

「……逃げられるものなら、そりゃ逃げるッスよね」


 ケムリが『暗幕エクリプス』に落ちてしまったのは、色々な不運が重なった結果だ。

 しかし結局、この道を選んだのは自分自身だった。他の選択肢は死に直結するモノばかりで、この道しか選べなかったとしても、選んでしまったことに、変わりはないのだ。

 強ければ死ぬことのない、分かりやすい理の世界。

 人の良いボスにも拾ってもらえた自分は、きっと恵まれてはいるのだろう。

 けれどもしやり直せるのならば――あの時に戻ることができたのならば。

 やはり二度、『暗幕エクリプス』に身を置こうとは思わないだろう。

 そのくらいこの場所はクソッタレで、どうしようもないのだから。

 行動を起こした者が報われるくらい――あってもいいはずだ。


「ま、結局アイツ送り込んでる時点でウチも同罪――」

「あのぉ、地図ってどうやって表示するんですか?」

「――常識知らずが」

 引っ手繰るように携帯を奪って、地図アプリを起動――おぉ、と感心するヤオへの苛立ちを隠そうともせず再び投げ寄越した。その出自ゆえ世間知らずなのは知っていたが、ここまで常識が噛み合わないと、無駄にストレスを感じてしまう。

 このまま家に帰って、酒飲んだら寝るッスか――ぼんやりとそう思っていたケムリは、ふと鼻腔の奥に熱さを感じて、

「――?」


 その熱の正体が、血だと気付いた瞬間。

 彼女の口から、眼孔から、決して少なくはない量の血が噴き出して。

 そのまま糸が切れたように――ケムリは呆気なく、白い床に這い蹲った。


 彼女の眼前を染め上げる赤色を、バシャリと遠慮なく踏みつける爪先。

「……あーあ、まさか知らなかったなんて」

 覗き込むように見下したヤオに、ケムリは彼女のサイキックが、今まさに自分の身体を蝕んでいることを思い知った――いつ使われたのかは分からなかった。

「ぶっ――がはっ……お、ばぇ……!」

「生きていても良いことない、でしたっけ? それにはやっぱり同意しかねますが、ケムリさんがそう思うのなら、

 良かったですね、ヤオの役に立てて。

 せめてその、ムカつく顔面を焼いてから逝ってやろうと思った。

 ケムリが持つ発火能力パイロキネシスのサイキック――この世界で生き残ってこられた唯一の武器で。

 心の底から浮かべた慈悲が、最悪の形で張り付く顔面を。

「もしかして『暗幕エクリプス』の人ってみんなそうなんでしょうかね、ケムリさん」

 演算を開始――しようとしたケムリは、しかしその集中を散らされる。

 彼女の口に指先を突っ込んで、その舌を弄びながら、

「げぇ、うぶぉ」

「酷く勿体無いですよ。そんなのに、リソースが割り振られるなんて……あ、なら!」

 本当にいいことを思いついた、とでも言いたげな表情を向けると、


「ケムリさんが寂しくないよう、皆もちゃんと送ってあげます――私も更に幸せに近付けるし、リソースの無駄遣いにもならない! まさに一石二鳥というやつですね!」

 

 じゃあ、いい夢を見られますように。

 既に息絶えていたケムリに、ヤオの言葉が届いていたかどうかは定かではない。

 しかし数分後、彼女が世話になったボスは勿論、組織そのものがヤオの手により崩壊したということを知らないまま死ねたのは――ある意味、幸運なことかもしれなかった。


「くぅ……っ!」

 

 強い頭痛に揺り起こされ、私は睡眠の中断を余儀なくされた。

 ボロボロの毛布を被るだけの簡易な寝床は、偶然見つけた廃屋の中。

 窓の外には輝く月――ぼんやり照らされる、隣で眠るタミの姿に安堵を覚えつつ、しつこいほどに痛む頭をさすっても、頭蓋骨が保護する脳に届くはずもなかった。

 既に三度、追手と思われる人達を撃退してきた――戦闘能力の無いタミを護りながら、自身の持つサイキックをこれでもかというほど酷使して。

 だから脳が疲れている、というだけでないことは明らかだった。

「……また、消えてる」


 確かめるように探った見えない思い出に、私は確信を覚える。

 サイキックを使う度、――と。

 

「どうして……?」

 自分の体だ、自分が一番よく分かる。その理由までは分からないが。

 サイキックに副作用があることは、実は取り立てて珍しいことでもない。強力な能力であればその分、相応の代償を支払わなければならなかった例は過去にいくつかあって――けれど私にそんなモノが、あるなんて話は聞いたことが無い。

 博士が作ろうとしたのは究極足る兵器だ。いちいち重い代償を支払わなければならない兵器など――きっと彼女は目指さなかったはずだと、歪な信頼を私は博士に覚えている。

 では、この記憶の欠落はいったい何なのだろう。

 既に施設にいた子達の顔を、ほとんど思い出せなくなっていて――隣で眠るタミと、どう出会ったのかも、定かから程遠くなりつつある、この欠陥は。

「――」

「んん……」

 穏やかな寝息を立てるタミの頬を、軽く指先で突く。

 一瞬顔を顰めた彼女は、しばらくしてまた落ち着いた表情に戻る。

 サイキックのサブスキル――音が聴こえる能力で、記憶が削れている感覚はない。それだけが不幸中の幸いと言えるだろう。

「……大丈夫。私はまだ、タミのことが好き」

 想いすらいつか、消えてしまうのではないかと過った一抹の不安を打ち消した。

 その寝顔でどんな夢を見ているのか――それが枯れ野を駆け回る夢でないことを祈ることしか、彼女の穏やかな眠りを誰からも守ることしか、私にはできないのなら。

 死にゆく彼女の為に、私がどれだけ無くなったっていい。

 だけどこの想いが消えてしまうのは、怖い――怖くて堪らない。

「ねぇ、タミ……もし私の記憶が、全部なくなっても」

 聴こえていないだろうタミに、私は零すように語りかけた。


 あなたのことを忘れたくない。あなたを失くしたくない。

 だけどそれと同じくらい――

 矛盾しているだろうか、この願いは。

 ならそれでもいい。それでも私は、タミと一緒にいたい。


「私の心が、きっとタミを護り抜くから――だから安心してほしい」

 

 たとえ記憶を失くしても、心までは失くさない。

 彼女を愛した私がいなくなったりするわけじゃない。

 ならばこの先――何を失うことすら、受け入れられる。


「……おやすみなさい」

 返事のない、そんな当たり前の寂しさを抱え、私はまた眠りに就く。

 明日はきっと街の方に降りられるだろう。幼い脚では山を脱出することさえ、想像以上に時間がかかったが、その間タミの衰弱が緩やかになっていたのは嬉しい誤算である。

 

 時間よ止まれ、なんて願うつもりはないけれど。

 叶うのなら――このまま、もうしばらく。


「……っ」

 

 隣のナルの意識が完全に途切れ、つまりは深い眠りの中に入った瞬間、彼女は目覚めた。正しくは、彼女の中の彼女――今から三年後の未来からやってきた、タミの意識が。

 ナルを目覚めさせないよう、ゆっくりと上半身を起こした彼女が最初に感じたのは、全身に圧し掛かるどうしようもない鈍痛と、夜の温い暗さ――想像以上に時間が無いらしい。

「はは……今回のナルは、本当にあたしのこと好きだね……嬉しいよ」

 だけどこれはちょっとまずいなぁ、と一人心地に呟いた。

 彼女が表に意識を引っ張り出せるのは、ナルが物理的にいない時か、ナルがいないと定義できる状況のみ――つまりほぼ四六時中ナルに監視されている今回、全然意識を交代できないまま、この見慣れた場面に突入してしまった。

「明日、だよね……あの子が来るのは……」

 いつもより格段に表に出る時間が少ない分、身体の衰弱は緩やかなのはいい。

 だが、次に現れるあのサイキックに対しての準備が、全く整っていないのは少々――いや、かなり状況的に不利なのだ。

機械嶋八百きかいじまやお……あの子がいなかったら、もうちょっとなぁ……」


 この段階ではその名すら知らなかった、とあるサイキックの少女。

 彼女のサイキックの詳細は分からない。三年後の未来でどれだけ手を尽くしても、それだけは分からなかった――が、それがとても強力かつ凶悪な能力であることは、既に何回も経験している。

 何がトリガーになっているのかも、だいたい想定できている。

 

「ナルは……ううん、今回も戦うよね、きっと」

 いくつも重ねてきたループの中で、分かってしまったことがある。

 それは確定事項とも言うべき、どんな選択の先にも存在する、絶対の出来事。

 は、そんな確定事項の一つであった。

 あのサイキックと鉢合わせた時――この逃避行の全てが終わる。

「戦って、そして……二度と会えなくなる」

 ナルがなら、機械嶋八百は

 強さでは理不尽を呑み込めない。ある時は一方的に、ある時は拮抗して、またある時は己の全てを消費して、どのみちナルという少女はこの世から消え果てる。

 それが運命、それが結末、それが終局――もうウンザリだ。

 そんなふざけた物語を終わらせる為に、何度も繰り返してきたんだ。


「約束してくれたんだ、絶対に護るって」

 下着の中に忍ばせておいた、鉛筆サイズの無痛注射器を取り出す。

 出所は先生の部屋――施設を出る前、シズに頼んでおいたもの。

 盗みの依頼をされるなんて思っていなかったのか、酷く動揺していた彼女は、しかしちゃんと先生の部屋からくすねて、去り際にこっそり渡してくれたのだ。

「だけどあたしは、もう護ってもらったから」

 この時点のタミがそれを受け取るか、そしてそれをずっと持ったままここに来られるかどうかは、実のところ賭けだったが――今、運命はタミに味方していた。


「だから今度は、あたしがナルを護るんだ」


 見上げた窓の外で、霞がかった月がぼんやりと世界を照らしていた。

 最後になるかもしれない月は、泣きそうになるほど美しく見えた。


「タミ、もう少しだから」

 

 太陽が微かに顔を出し始めたタイミングで、私達は廃屋から出た。

 もう少し休もうと思ったけれど、あまり同じ場所に留まるとまた追手が来そうで――何より一晩経ただけでタミがやけに、それこそ目に見えて衰弱していたからだ。

「うん……」

「……少し休もう」

 意識が朦朧としているのか、その足取りは危うい。

 目を離すとすぐに倒れてしまいそうで、とても見ていられなくて。

「ほら、ここなら影だから」

「うん……ありがとう……」

 私は彼女の手を引きつつ、手頃な樹の下に座り込んだ。

 肩で息をしながら、タミは今にも泣き出しそうな顔で私を見上げる。

 そんな顔が見たくて、その手を引いたわけじゃないのに。

「ごめん、ナル……せっかくここまで、連れて来てくれたのに……」

「謝らないで。私も急ぎ過ぎたかも知れない」

「ちょっと休めば……元気になるから……」

 そう言って横になったタミの、肌からは血の気が引いていた。

 聴こえる音もかなり微かで、風の音にすら掻き消されてしまいそうで。

 いよいよかもしれない、と――そう思ってしまうのが嫌だった。

「……ねぇ、ナル」

「どうしたの?」


「前はあぁ言ったけどさ……あたしのこと、忘れても良いよ……」


 愕然として向き直った先、ふにゃりと笑いながらタミが紡ぐ。

 あまりにも残酷な言葉を、きっと彼女なりの気遣いとして。

「ううん……むしろ忘れて……あたしのことなんか……」

「――何、言ってるの」

 忘れられるわけがない。忘れたいわけがない。

 この世でたった一人の、タミのことを忘れるなんて、私には。

「嫌だよ、あたし……死んでからもずっと……ナルを縛りつけたくない……」

「縛るなんて言わないで」

「ナルにはね……立派な翼があるんだよ……。どこまでも飛んでいける、自由になれる翼が……――なのにずっと、重そうで……もしあたしの所為なら……やっぱり、そんなの嫌だよ……」

 だから忘れて、あたしのこと――なんでそんなこと、今更になって。

 よりによってあなたが。今にも飛び立とうとする、あなたが言わないで。

 

 そんなの――私には耐えられない。

「……タミ、私は――っ!?」

 何か言わなければ、と開いた口が、言葉を紡ぐ前に呑み込んだ。

 それを口に出すより――明らかな異常に、身体が強張ったから。


 まるで死神の足音のようだった。

 今まで聴いたどんな音よりも、強烈な悪意と殺意に塗れた音。

 そしてそれだけ苛烈でありながら、どうしてだろう。

 どんな音よりも静かに――世界に響いているのは。


「――なるほど」

 私達と大して歳の変わらなさそうな、大きい鞄を下げた少女だった。

 ぶかぶかのジャケットを羽織った彼女の瞳は、奇しくも竜胆りんどう色に輝いて。

 風景の中にありながら、彼女の存在は異質そのもの。

 纏うのは、そこだけ紫色の絵の具をぶちまけたような違和感。

 声をかけるより先に自分に気付いた私に、少女は少し驚いてみせて、

「確かに、

 しかし直後には驚愕の残滓すら掻き消す、明るい笑顔を浮かべた。

 今すぐ鼓膜を破ってしまいたい衝動に駆られる。

 意味はないことを理解している――聴覚を経由して聴こえる音ではないのだから、ただ自らを痛めるだけだというのは重々理解していて、それでも。

 それほどまでに、彼女の持つ純粋な漆黒の音色が、

「……タミ、後ろに隠れて。出てこないで」

 今までの追手とは訳が違うことなんて、火を見るより明らか。

 頷いて身を隠したタミには一瞥すらくれず、少女は静かに私を見つめて、

「一つ訊かせてもらっても?」

「なに」

「あなたは今、幸せですか?」

 その意図を計り損ねて、返答に詰まる――数刻前の私ならきっと即答できたはずの問いは、しかし今になって具体的なイメージが綻びつつある私に、酷く重く圧し掛かった。

「……そうですか」

 無言で返した私に溜息を一つ。少女はポケットの中に手を突っ込んで、


「ならそのリソース、ヤオが貰いますね」

 

 少女がポケットから手を抜き上げたのと、私がサイキックを使ったのは同時。

「……!?」

 勢い良く振り下ろした拍子に弾け出した何かが、地面にぶつかって反射する――不規則で予想もできない動きだったが、念動能力サイコキネシスで空間ごと全て叩き落としてしまえば問題もない。

 勢いを失くして地面に転がったそれは、色とりどりの小さなボールだった。

「これは……?」

「スーパーボールを知らないんですか?」

 ならもっと驚いてくれますよね――提げていた鞄から少女が取り出したのは、手の平サイズの立方体。銀色に輝くその箱をばら撒くように放り投げて、

「ドローンなんて見たこともないでしょうし」

 瞬間、銀色の箱が虫のような飛行体に変形する。

「っ!?」

 全部で五機――駆動音を鳴らしながら突っ込んでくるそれらを、真っ赤に燃える炎が正面から撃ち落とす。私が使えるサイキックの一つ、発火能力パイロキネシスの応用である。

 本当に虫の如く、力なく地面に落下するドローンに少女は肩を竦めた。

「これ結構高いんですよね、玩具なのに」

「……あなたは誰」

「ヤオって呼ばれてます」

「『暗幕エクリプス』の追手ね」

「今は違います、上司が死んじゃったので――それよりもあなた、感知系のサイキックもお持ちなんですね。ヤオのサイキックもお見通しですか」

 厄介ですね、と笑うヤオの、しかしサイキックの正体まで掴めていたわけじゃない。だから当然、さっきまでの攻撃の意味だって理解していない。

 ただ感じるままの嫌な予感に対処していただけ――スーパーボールにしろ、ドローンにしろ、彼女が投げて寄越した物には一つの例外もなく、嫌な予感が纏わり憑いていた。

 アレに触れたらまずい、と曖昧に。

 私のサイキックが警告しただけに過ぎない。

「で、あなたは攻撃してこないんですか?」

「……」

「あぁ、なるほど――、射程距離」

 彼女は随分と、対サイキックに慣れているようだった。

 私の能力が届かない距離に陣取って動かないヤオ。

 彼女の能力は解らずとも十分に対処できる私。

「しかし本当に厄介ですね。これじゃ決着がつきませんよ」

「……ならここから消えて」

「うぇへへ……そうしたいのは山々ですけど」

 睨み合いの状態が続く中、ヤオは鞄の中からポケットティッシュ――これは先生がよく使っていたから知っている――と水のたっぷり入ったペットボトルを取り出した。

「あなた、ヤオの質問に答えられなかったじゃないですか? なるだけ生かす努力はしようと思ってましたけど――だから放っておけませんよ、そんなの」

 ティッシュを適当に数枚引き抜き、ペットボトルの蓋を緩める。

 次の攻撃の準備をしているのは明白で、私もサイキックの演算を始めた。

「幸せじゃないなら、そのリソースはヤオに譲ってください。感じられないあなたには勿体無いです。有限なんですから、少しでも多く確保したいじゃないですか」

「なんの話……?」

 つまりあなたには関係のないお話です――そして、投擲。

 蓋がすっぽ抜け、水を吐き出すペットボトルが上空に舞う。

「……っ!」

 会話に気を取られ反応が一瞬遅れたが、それをしっかり叩き落として。

 そしてそれが失策だったことに――気付いた時には、ヤオの手からティッシュペーパーが消えていた。風上から風下、私のいる方向に向かって。

「しまっ――」


 ペットボトルから解放された水は雨のように。

 漂うティッシュペーパーは雲のように。

 そして――いつの間にか投げられていたスーパーボールは星のように。

 後ろに潜むタミ諸共、歪な世界で私を囲んだ。


「――タミ、逃げてっ!」

 タミを転移能力テレポーテーションで飛ばした判断は、きっと最良の判断だった。

 最良で最善の行動で――そしてヤオの想定通りの、最もたる愚行だった。

 バシャリと冷たい水が身体を打つ。

 濡れた身体にティッシュが貼り付く。

 不規則に弾むスーパーボールの一部が当たる。

 全てを私の身体が引き受けて、そして。

「――――」


 刹那、あまりにも不愉快な音が大音量で脳を揺さぶった。

 屠殺される獣の鳴き声のような、七日目の蝉の歌声のような。

 狂気すら感じさせる音の反響に、思わず耳を塞いだ私は、


「――ぼえぅっ」

 身体の奥から湧き上がる吐き気を堪えられず、吐瀉物を撒き散らしながらその場に崩れ落ちた。砂に染みを作る液体は、ところどころに赤みを含んでいた。

「げぇぇ……! あっ……はぁ……!」

「……余計な荷物は捨てればよかったんですよ、苦しみたくなければ」

 しゃがんだヤオが私の口の中に指を突っ込んで、執拗なまでに舌を弄繰り回す。

 ぐちょぐちょと、自分の指が唾液と吐瀉物塗れになるのも気にせず、摘まんだり引っ張ったり、とにかく演算に集中させる暇を与えないつもりなのか、はたまた彼女自身の趣味なのか。

 視線だけ動かしてタミを探す――能力の範囲はせいぜい十メートル程度、けれど私の言葉の通りに、彼女は逃げ隠れているようだった。

 その事実に安堵しかけた私の気を引くように、喉の奥に細い指が突っ込まれる。

「ぅぶ……ごぇ」

「せめて妥協点を見つけるべきでした。この世界の幸せの、リソースは有限であって無限じゃない。二人で分け合うのなら、絶対値が低くなるのは当然のことです――そしてあなたはあの子の幸せを優先し、今こうして這い蹲っている」

 それが望みだったはずもないでしょうに――ゆっくりと引き抜いた、テラテラと光る指先を舐め取って笑う、竜胆色の瞳が明らかに私を見下していた。

 そんなことも分からないのか、とでも言いたげに。

 全身を襲う気持ち悪さと、真近くで響くヤオの音、舌を弄られた三重奏。

 胃の中の物は消え、ドロリとした血を吐くばかりの私は思わず、

「――じゃあ……どうすれば、よかったの……?」

「んー?」

「私とタミの……幸せが――人間らしい幸せが、この世界に無いのなら……! 私達は、幸せを……未来を願っては、いけないの……!?」

 

 人の社会に産まれなかった存在ではダメなのか。

 誰かの設計図通りに創り出された人間ではダメなのか。

 兵器にするつもりで育てられたサイキックではダメなのか。

 恋をすることも、一緒にいたいと思うことも、失いたくないと思うことも、普通の生活に憧れることも、外の世界に夢を見ることも、幽かな理想に縋ることも、叶うはずのない祈りに手を合わせることも。

 ――私とタミには、許されないのか。

 手を取り合って、笑い合って、死が二人を別つその時まで。

 そんな人として当たり前の願いすら、抱いてはいけないのか。


「――、生きてるんですから」

 スン、とヤオの表情から笑みが消え、次に浮かんだのは無。

 嘲りも何もなく、単純に興味を失くした瞳が私を見据える。

「だけど忘れちゃいけないのは、あなた以外の人達もそうなんです。みんな幸せになりたくて、幸せを手にしたくて、有限を奪い合ってる。傷付け、蹴落とし、辱しめてでも手に入れようとする。だから幸せになれる人もいれば、なれない人もいる――そんなの当たり前のことです」

 ゆっくりと立ち上がって辺りを見渡す――ヤオが誰の姿を探しているのか、解ってしまっても身体が言うことを聞いてくれない。鉛で出来た人形のように、私の身体じゃないみたいに、指先の一つだって。

。そんな話はどこにでも転がっていて、あまり珍しくもない。幸せになりたければ、奪うしかないんですよ。その能力があなたにはあるのに躊躇うから――おや?」

 そう言って、ふと彼女が鞄から取り出したのは紙飛行機。

 タミは無事に逃げ遂せたはずなのに、今更いったい何を。


 そう思った瞬間、私の中に音が響いた。

 聴き慣れた音。誰よりも優しい音。

 いつだって私を安心させてくれた音――だと思っていた。


「ごめん、遅くなっちゃって」

 

 それは聴き慣れた音のはずだった。

 いつも隣で聴いてきた、タミの音を今更間違えるはずもない。

 なのに、どうして――この違和感は。

「ナルから離れて。それ以上、手出しはさせない」

 拾ってきたらしい木の枝を構え、震える脚でヤオの前に立ち塞がる。

 しかし表情は凛と、まるでタミじゃないみたいに。

 焦げ茶色だったはずの瞳は、菜の花色の光を放っていた。

「タ、ミ……なの……?」

「……うん」

 タミの姿をした誰かがそこにいるような、そんな違和感を抱きながら――けれど聴こえる音が確かに、そこにいる存在がタミであることを私に教える。

 そしてもう一つ、彼女の内側から聴こえる、私の知らない音と共に。

「……名前、いつ教えましたっけ」

「教えられてないよ――けど知ってる、君のことも」

 タミのようでタミでないタミは、そう言って木の枝の先端をヤオに向け、

「君がいる限り、あたし達は幸せになれないってことも」

 だからあたしはここに来た――その言葉には一切の迷いが無かった。

 迷いもなければ怯えもない。信念の塊が、そこに立ち塞がっていた。

「あたし達の邪魔をするな、機械嶋八百!」

「――うぇへへ!」

 凛として奮い立つ小さな花を目の前に、毒蛇は獰猛な笑みを浮かべ、

「あぁ、あぁ! なんてこと! ヤオはあなたを侮っていました! 余計な荷物だなんてとんでもない! この場で誰より無力でありながら、貪欲に幸せを求める姿! 感動しました――そう、そうなんですよ! 二人で最上の幸せを手に入れたいのなら、! 分け合うんじゃダメなんですよ!」

 さっきまでの冷酷さはどこへやら、手の中の紙飛行機を握り潰すほど、興奮を露わにして謳うように、自分を睨みつけるタミに語りかける。

「教えてください。あなたは誰で、何者ですか?」


「あたしはタミ――世界で一番、幸せな女の子」


「あぁ、タミさん……そう、世界で一番ですか――うぇへへ。なら、ヤオはあなたに会う為、今日ここに導かれたんですね。えぇ、きっと違いない……だって」

 タミがグッと木の枝を頭上に掲げた。

 不愉快な音が増大し、紙飛行機が空に舞う準備を整え、そして。

「あなたを殺せば、ヤオが世界で一番幸せな女の子になれるんですから!」

 ヤオの掌から飛び立った、それが開戦の合図。

 ゆるりと一直線に向かってくる紙飛行機を、木の枝が的確に叩き落とす。

 その隙を掻い潜るように、いつの間にか放出されていたスーパーボールが襲いかかるも、タミは冷静にそれらを最低限の動きで回避するか、やはり叩き落として届かせない。

 一切無駄の無い動きはまるで、ヤオの動作を全て把握しているようで。

 私の知らないタミがそこにいる感覚に、かえって頭が覚めていく気がした。

 舌打ちを一つ、ヤオが鞄から取り出したのはペットボトル――私にした波状攻撃の準備はしかし、手にタミが投げ放った石の直撃を受け未遂に終わる。

「いっ……!? もしかして!?」

「詳細は知らないよ。だけど毒を付与するサイキックで、のがトリガーなのは知ってる。どんなやり方が好きなのかも、全部ね」

「うぇへへ……ひょっとしてタミさん、ヤオのファンですか?」

「ううん、大嫌い――だから全部覚えたんだよ!」

 そう言ってタミは駆けた。まっすぐ吸い込まれるように懐へ。

 枝の先端で突いたのは鳩尾――表情を歪めるヤオが、それでも手放さなかった鞄を勢いそのままに回し蹴りで飛ばし、トドメと言わんばかりに彼女の顎を下から殴った。

 ガチン、と歯の歯がぶつかり合う音が響く。

 おそらく舌先を噛んだのだ――目を白黒させながらヤオは、

「――っ!」

 辛うじて崩れ落ちるのを堪え、その手を徐にタミに伸びた。

 慌てて後ろに跳んで避けた彼女に、ヤオは口の端から血を流しつつ、

「うぇへへ……トリガーは把握してるんですよね……?」

「……さっきも言ったけど、君のサイキックの詳細をあたしは知らないから。その手で触れた物自体を毒で侵すサイキック、じゃないとは言い切れないの」

 違う、タミ――彼女の手そのものに、そんな能力はない。

 さっきまで口内を陵辱されていた私が、今もちゃんと生きている。

 けれどそれを伝えようと開いた口からは、やはり掠れた声と血が出るばかり。

「うぇへへ、ヤオもなんとなく……いえ、本当になんとなくですけど、あなたの正体が分かった気がします。いったいどれだけ回数を重ねれば、そこまでになるんですか?」

「三百八十三回」

「へぇ、そんなに……じゃあ三百八十二回、ヤオはあの子を殺したんですか」

「君だけじゃないけど、でもほとんどが君」

 だから大嫌い――そんな二人の会話の意味が分からない。


 回数を重ねた? 三百八十三回? 私を殺した?

 分からない、何も分らない――タミのことが、全然分からない。

 世界で誰より、彼女のことを知っていたつもりだったのに。


 私を置き去りにして、タミとヤオの間に沈黙の時間が流れる。

 このままだと決着が付かないことは、双方理解しているのだろう――なのに険しい表情のタミに対して、ヤオはどこか余裕そうに、うっすらと笑みを浮かべていた。

 さすがに不気味さが勝ったのか、タミは枝の先端を向けたまま、

「……何がおかしいの」

「時間稼ぎですか、あなたの目的は」

 一定のリズムを保っていたタミの音が、微かに揺れ動いたのが聴こえた。

 それはそうだろう。今のタミがどういう状態なのかは分からないけれど、それでも容易く勝てる相手でないのは明確で、きっと彼女は私が動けるようになるのを待っている。

 私が動けさえすれば転移能力なり、逃げようはいくらでもあると踏んでいるのだ。

 タミには決定打こそないが、それはヤオも同じなはずで。

 なのに、この余裕そうな笑みは――一体、何を考えている。

「だったらなに?」

「いえ、付き合いますよ? 待つのは得意な方なので――だけど」

 残念です、とヤオの笑みが再び獰猛な色に染まる。

 それは彼女が喜びを覚えた瞬間、浮かべる表情なのだと私は気付いた。

「なにを……――ぁ」


 瞬間、微かだったタミの音の揺れが歪に。

 そして決定的な崩壊を迎えたのが、私には聴こえた。

 潜んでいた不愉快な音が、蛇のようにぬるりと這い上がる音も。

 

 ドサリという音が聴覚に届いたのと。

 タミの身体が地面に沈む光景を、視覚が捉えたのは同時。

「三百八十三回繰り返しても分からなかったんですか?」

 彼女を見下ろしながら、ヤオが小さく舌を出したのは。

 

「ヤオの毒は常識を――蝕み殺す、毒なんですよ」

 

 私が声にならない声でタミの名を叫ぶ、少し前のことだった。


「……――ッ!」

 

 彼女の掠れた絶叫が、ずいぶん遠くに聴こえる。

 世界の全てが耳から遠ざかって、代わりに頭の中で五月蠅いぐらい鳴り響くのは、血液が迸る命の音――あぁ、そういうこと。


 この身体は限界に達してしまったんだ。

 元より重すぎるサイキックを預かって、条件すら無視して無理矢理あたしを表に出した結果、もう取り返しのつかない領域に踏み入れてしまったんだ。


 『疎光遡行リベレイター』――未来の意識を、過去の自分に飛ばすサイキック。

 本来起こり得ない奇跡を可能にしたのが、ナルの前では発動しないという条件だったのに。それを解っていたはずなのに――やっぱりあたしも、焦っちゃってたのかな。

 これが最後だって意識し過ぎて、どんな死の予感すらも近づけたくなくて。

 でもナルが凶毒に倒れた瞬間、あたしが強制的に浮上したのは――もしかしたらこの時間のタミも、とっくに気付いていたのかもしれない。そして望み縋ったのかもしれない。

 自分の中の存在が、この絶望を何とかしてくれるんじゃないかって。


「ヤオのサイキック、『侵蝕感染インヴェンションイーヴィル』は御明察の通り、直接触れたって発動しません。毒ですが――直接触れさえしなければ発動しない、なんてわけではないんですよ」

 サイキックの過負荷に加えて、機械嶋八百の能力によるダメージ。

 あたしを見下ろし覗き込む、ヤオの少し暗い紫色の瞳――この色は竜胆を思い出して、少し嫌になる。

 あたしがいつか、あなたのようだとナルに言った花の色。

 今でもはっきり覚えている――最初に花をくれたのはナルだった。


 最初の物語、花壇に生えていた野紺菊を「まるでタミみたい」と。

 あたしは雑草か、と不貞腐れていたら、慌てて植物図鑑を持って来て。

 花言葉の頁を指差して、たどたどしくも丁寧に説明してくれて。

 その時初めてあたしは、博士のお気に入りのサイキックにも、人並みに何かを好きになったり、必死で何かを伝えたりしようとする――心があるということを知った。

 

 でもそんな、心を持つ一人の少女の結末は、いつだって残酷すぎて。

 あたしを見つけてくれた彼女の、あたしに好きだと言ってくれた彼女の、あたしに生まれた意味をくれた彼女の――そんな運命を変えたくて、ここまで来たのに。

 あと少しで何かが変えられるかもしれないと、思っていたのに。


「ヤオが触れた物に触れた物が、たとえ人体でなくとも、。今回はその木の枝――まぁ、三次接触ですから発症には時間がかかりますけど――わざわざ待ってくれるとは。なんて優しい人なんでしょう、あなたは」

 せっかく説明されていても、半分以上は頭に入ってこなかった。

 元々衰弱しつつあった身体は、酷い嘔吐のショックで息もままならなくて。

 涙と涎と鼻血と吐瀉物でベシャベシャになった顔をじっくり見られながら、されるがまま口の中を、舌先を、喉の奥を好き勝手に指で弄ばれて。

 本当に、なんて無力で――なんであたしには、好きな女の子一人救う力さえ。

 

 ごめんね、ナル。

 やっぱりあたしじゃダメだったよ。

 ナルのこと助けてあげたかったけど、守ってあげたかったけど。

 悔しいけど――すごく悔しいけど、所謂失敗作のあたしじゃ、こいつからナルを逃がすことすら、できないみたい。


「さて、悪戯に苦しませ続けるのも酷い話ですし――安心して下さいね、タミさん。あなたから奪った幸せは、ヤオの幸せに積み重なります。決して無駄にはなりません。じゃあ」

 いい夢を見られますように、とヤオがジャケットから携帯を取り出す。

 見せつけるように掲げるそれは、しっかり彼女の細指に包まれていて。

 アレが軽く触れた瞬間、あたしの命は世界から容易く消えてなくなるだろう。


 夢って――あたしの夢ってなんだっけ?

 ナルに見守られながら最期を迎えること?

 外の世界にナルと一緒に旅立つこと?

 いや、違う。それだけがあたしの夢なんて、絶対に違う。

 ましてや幸せになることでもなくて――あぁ、いや、とっくに分かってる。


 二人で一緒に幸せになんて、本当はなれなくてもよかったんだ。

 だってあたしは、もう十分幸せだったから。

 いくつもの物語で、沢山の幸せをナルに貰ったから。

 溢れるほどの幸せの、恩返しとしてはごく些細で釣り合わないとしても。

 あたしはただ、生きて見つけてほしかったんだ。


 ナルという少女に――これからの未来と、その物語の果てにある幸せを。

 

「じゃあ、いい夢を見られますように」


 ヤオの言葉と共に、致死性の毒を付与された携帯が落下する。

 世界で一番の幸せ者を名乗った少女を抹殺する為に。

 即死させてやるのが慈悲とばかりに、高い毒性を持って――


「――れろ」

 

 瞬間起こった出来事を、ヤオの脳が理解するには時間が足りなかった。

 視界に捉えたのは、飴細工みたいに歪んだ自分の右腕。

 落下していた携帯共々、まるで空間ごと圧縮したように。

 明確な破壊の意思と、あるいは――殺意に押し潰されたような。


「はなれろ」


 悲鳴を上げる暇も、痛みを感じる暇もなく、嫌な音を立ててシルエットを変えていく自分の腕――あと数秒離脱が遅ければ、間違いなく死んでいたという確信。

 爆発したサイキックの気配に思わず振り返って、ヤオはそこに見た。


 それはサイキックという異能の到達点が一つ。

 世界が違えばあるいは、最も望まれたであろう可能性。

 博士が本気で作ろうとした、人型戦略兵器の究極系。


「タミから離れろ――今すぐに」

 

 空間を陽炎に歪ませ、極光を翼のように噴き出しながら。

 玉虫色の瞳を輝かせる超能力者サイキック――かつてナルと呼ばれた少女の姿を。

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