Note:06 私の話
もっと他にやりようがあったのではないか。
もっと上手くいく方法が、もっと器用なやり方が。
それさえ出来ていれば、こんなことにはならなかったのではないか――一切の隙無く私の心を苛む声に、しかし私はこう返して黙らせる。
他に方法があったのなら教えてよ、と。
タミがこの世からいなくなってしまう前に、どんな手を使えば外の世界に触れさせてあげることができたのか――答えられるはずがないのだ。だってこの声は、私自身の声なのだから。
間違っている、なんて解り切っている。
それでも私は、きっとどんな世界でも、同じ手段を用いただろう。
未来のことなど、誰にも分かるはずがないのだから――
†
「ナル、どうしたの?」
呼びかける声に、ハッとして振り返る。
不安げな面持ちで私を覗き込むタミの、ふわふわとした髪が視界に揺れていた。
木陰であるにもかかわらず、微かな木漏れ日程度で透けて輝く彼女の髪――少しの間呆けていたらしく、私はゆるりと頭を振って、
「なんでもない。ちょっとサイキックを使い過ぎた……かもしれない」
「ダメだよ、無理したら。今ならまだ、許してもらえるかもしれないよ」
だから戻ろうよ――許してもらえるかもしれないって、誰に?
誰に許してもらいたくて、あんな場所に戻ろうというのだろう。
立ち上がった私は深呼吸を一つ、そのまま空を見上げた。
ずっと焦がれていた外の景色。調整されていない温度。強く降り注ぐ生きた光。
あの施設にいたのでは、おそらく一生味わうことのできなかった世界を――タミと一緒に生きている。死に向かって歩くだけだった日々とは、それだけで違う。
「――大丈夫、タミは心配しなくていい」
「でも……」
「何が来たって、私がタミを護るから」
あなたは最期の時まで、好きに生きていい。
見たかったものを見て、味わいたかったものを味わって、そして。
誰も知らない場所でひっそりと、二人だけの旅路を終える。
それが生きるということで、自由であるということだ。
「だからお願い――私の傍から離れないで」
指と指を絡めてタミの手を強く握り締める。
彼女の存在ごと全て、失くしてしまわないように、しっかりと。
肌を伝う温度が、胸の奥からせり上がる熱さが、今の私の絶対だから。
「――うん」
どこか複雑そうな心地を混ぜつつ、タミはふにゃりと笑った。
そう、それでいい。あなたが私に見せる顔は、その笑顔だけで。
「……なんか照れるね」
もう少し休憩しよっか――隣に腰かけたタミが着ているのは、見慣れた青いパジャマではなく、太陽の光を吸い込んで、明るく輝く白いワンピース。
普通に生きている子供はそんな無愛想な格好をしていない、と。
そう言ってタミに、目に眩しいワンピースをくれたのは博士だった。
こんな余所行きのワンピースを彼女が持っているのも、そのサイズがタミにピッタリなのも驚いたが――やはり一番驚くべきことは。
あの博士が私ではなく、タミにくれたということだろう。
思い出すのは数刻前――私達が施設から脱走した時の光景。
†
「……自分が何してるのか、わかってる?」
サイキックにおいて、手の平を向けるという行為は準備である。
力を飛ばす方向をイメージする、たったのそれだけで。
威嚇、牽制、脅迫など詳細に差異あれ、要するに「これから私はあなたにサイキックを行使します」という意味であることに他ならず、ましてそれがサイキック同士なら――その瞬間、双方勝敗を察していることも珍しくない。
つまりまさに今、ナルに掌を向けられているマギは。
これから行う所作の一つ一つが、自分の生命を左右することを悟った。
「はい」
どこまでも無表情に、ナルは危険極まりない力の矛先を向けている。
対するマギはゆっくりと立ち上がり、冷や汗を掻きながら。
「冗談じゃ済まされないわ、ナル。冷静になりなさい」
「冷静です、私は」
あぁ、そうだろう――そして焦っているのは自分の方だと、マギは理解していた。
恋を知り、感情を知ったナルが、しかしそれを表に出すのはあの失敗作――先日倒れたらしいタミに対してだけ。その他の感情を極力抱かせないように、少しでも兵器らしくあれと育ててきた結果、マギに向けられる手の平に一切の感情はなかった。
「博士はただ、私の言うことを聞いてくれたらいい」
「……何が目的?」
観念して問い質したマギに、ナルは表情一つ変えずに言い放つ。
「私とタミは、ここから出ていきます。だから探さないでください」
そう言うのではないかとも、想像だけは出来ていた。
動力足りうるほどの感情と、自由を勝ち取るだけの力を得た人間がどう動くかなど、人間科学に詳しくなくとも分かりそうなもので――それはきっとマギが、本当に欲しかったモノなのだから。
「――外に出たところで同じよ。もうその子は長くは持たない」
「わかっています」
「逃げ出したことが判明すれば、いずれ『
「邪魔をするなら潰します」
「そこまでして結局、あなた一人だけ置いていかれるかもしれないわ」
思い留まってほしい、という考えが無かったといえば嘘になる。
ナルが脱走したと知れば『
担保を確保する為に手段を問わないだろう。
それはマギ自身の破滅にも繋がり――けれどもう無理だ。
「それでも生きていたい。タミと一緒に、最期の時まで」
ある種の諦めにも、悟りにも似た覚悟を前に、果たして他人の言葉がどれだけ届くものか――とうの昔に忘れたはずの感情が眩し過ぎて、直視すらできないのに。
かつてのマギが駆け足で、今のマギを追い越していったのが見えた気がした。
こんな境遇になっても、しかし後悔だけはしなかったのだ。
「私達の人生は、私達が決めます」
あの日の自分が選んだ未来を、望んだ願いを、否定できなかったように。
それこそが自分の使命であると、気付いてしまっては、もう止められない。
「――そう」
今のナルに一番近かった頃のマギが、振り向いて囁いた気がした。
分かっているくせに――そう隣に彼女を連れて、小さく囁いた気がした。
「……あぁ、もう! いいわよ! 勝手にしなさい! あんた達が逃げ遂せようが、どこかで野垂れ死のうが、マギにはもう関係ない!」
だから――ナルの後ろに姿を隠しながら、こちらの様子を窺う失敗作を一瞥する。
大した力も持っていなかった彼女がいつの間にか、一人の兵器をただの人間に変えてしまった。自分の想いを優先する、ありふれたつまらない存在にしてしまった。
生きられるものなら、きっと生きていたいだろう。
ただの人間なら当たり前の願いに、ならば。
「逃げ切ってみせなさい。誰の手も、運命すらも届かない場所まで」
ならば抗ってみせるといい。
どこまでも無様に、人間らしく足掻いてみればいい。
本当は誰もが――そんな風に生きたかったのだから。
「あぁ、それと」
自分で脅迫しておいて、間の抜けた表情を浮かべるナルに思わず苦笑する。
随分と知らない表情が上手になったもので――その原因である少女に、
「タミ、だったかしら」
「え、あ、はい!?」
「そんな無愛想な恰好で外に出るなんて許さないから。逃げるのなら、生きるのなら、もっと相応しい格好があるってものよ――勿論ナルも。ちょっと待ってなさい」
私室に積まれた段ボールを無作為に崩し、やがて一つの段ボールを探り当てる。
ナルに似合うはずだと見繕っていた灰色のチュニックと、いつか買った純白のワンピース――まとめて買えば送料無料だったから、自分用に買って肥やしにしていたそれを取り出し、放り投げて寄越した。
「そこのクローゼットに色々あるから、適当に。レギンスでいいと思うわ。というかレギンスにして。タミは――あぁ、もう、あのサンダルどこにやったかしら……」
「……くれるんですか、これ」
「どのみちマギには必要ないもの」
この先好きな服を着て自由に外出する機会など、与えられないだろう。
暗闇に堕ちるだけの人間よりは、これから光を浴びる人間が持っておくべきだ。
「博士」
すっかりどこにでもいそうな格好になったタミの手を引き、部屋を出ていこうとしたナルはふと立ち止まってマギに振り返る。
「なによ」
「私が生まれたのは、結局博士の勝手だけれど」
別れの挨拶か、恨み言の一つでも寄越すのかと思ったマギに、
「だから私は博士のこと、嫌いじゃなかった――と、思います」
それだけ言い残して、彼女は出ていった。
おそらく二度とマギの手の届かない世界へ、最愛の存在と共に。
「……何よ、それ」
世界一の科学者になりたかった。けれどそれは叶わなかった。
究極のサイキックを造り上げたかった。だけどそれも叶わなかった。
何も成し得なかった、何も手に入れられなかった女が、唯一手に入れたモノが――嫌いじゃなかった、なんて曖昧な評価一つで。
「嫌いでいてくれなきゃ、意味無いじゃない……」
おそらくそれも覆るだろう――隠しコードはもう発動している。
サイキックがある限り、ナルは蝕まれる自身の記憶と感情に惑うのだ。
最後までマギの仕組んだ運命に、翻弄されることになると知れば。
「……もしもし?」
ペタンとその場に座り込んで、マギは携帯電話を取り出す。
連絡するのは二つ。一つはケムリに、ナルが脱走したことを。
もう一つは――あの憎き科学者に、これまでの全てを。
できれば何もかもが上手くいくことを、願いながら。
†
「見て、ナル!」
施設は想像していたより、ずっと山奥にあったらしい。
誰かに踏み潰されること無く育った雑草に、サンダルが圧し掛かる度、草の香りが鼻を突く――五感の全てを使っても追い切れない情報量は、けれど居心地が良かった。
どこまでも広がる緑に、まばらに咲き誇る色彩の飛沫。
眩みそうになる光の中で、祝福されるように煌めく命の灯火一つ
真っ白なワンピースの裾を翻し、くるくると回転するタミの、宙に踊る少しウェーブのかかった茶色い髪は、まるで金糸のようにきらきらと。
「これが世界なんだね!」
「えぇ、そうね」
「えへへ! 楽しいなぁ、嬉しいなぁ!」
檻の外はとても広くて、とても優しい――今更知った私達にも、牙を剥くことなく受け入れてくれる。
初めてなのに、まるでずっと前から知っていたかのような温もりは、
「あはは――ねぇ、ナル!」
「なに?」
「ありがとう、あたしを連れ出してくれて!」
だからこそ――全て手放して旅立ってしまうから、泣きそうになる。
博士の言った通り、もうタミは、両の指で数えられる程度の命だ。
タミから聴こえる音が弱まっていく度、それを痛感する。
いずれ来る追手を撃退しても、どれだけ先に逃げようとも。
優しいだけの世界に私を置いて――タミはいなくなってしまう。
「……ごめんなさい」
「えっ、どうして?」
「もう少し早くこうするべきだった。タミが外に憧れていること、知っていたのに――あなたの手を掴み取る勇気が、私には無かった。なのに今更になって、こんなこと」
そして彼女を連れ出した今、私はもっと怖くなった。
外の世界がこんなにも素晴らしいと、知ってしまったタミが、けれどその全てを諦めなければならない現実を、後悔と呼ばれる物を、与えてしまったのではないか、と。
「勝手なのは、きっと私も同じ。だから、ごめんなさい」
それはとても傲慢で、そして罪深いこと。
私の我儘はタミの願いを中途半端に叶えた。
本来彼女が味わうはずもなかった絶望まで一緒に。
そう思うと繋いだ手が、どうしても強張ってしまう。
感情や心は、姿の無い急所だ。
私が得た絶対で、酷く儚く、そして脆くて壊れそうで。
それでも手放したくなかった――だから彼女に光を与えてしまった。
すぐ奪われることになる光を、私の醜い欲望が。
「ねぇ、タミ――私、間違えてしまっては、いないかな」
憧れと願いを抱えたまま消え逝く、目の前の少女は。
それで誰かを恨んだりしないと、理解していても。
不幸を嘆きながら終わってしまう可能性を孕んでいて。
その可能性を生み出したのは――間違いなく私の我儘なのだ。
「……うーん、どうだろう」
首を傾げていたタミは、やがてふにゃりと笑みを浮かべて言った。
「あの場所にいたままだったら、こうして触れることもできなかった世界に、今はナルと二人でいる――あたしはもうすぐ死んじゃうけど、それでもずっと近くに、手が届くところに、大好きなナルと憧れた世界があるんだもん!」
「タミ……」
「だからあたしは、世界で一番幸せな女の子! ナルのしたことが間違っていても、間違っていなくても――それだけはきっと、何があっても変わらないの!」
だからね、とタミが私の頬に触れた。
軽い圧迫と同時に感じた湿度に、私は初めて自分が泣いていることを知る。
「後悔だけはしないで、ナル。ナルがあたしの為にしてくれたこと、そうするべきだと思ったこと――間違いでしかなかったなんて、あたしが誰にも言わせない」
あたしの幸せも、あたしにしか決められないんだから。
ぷにぷにと頬を摘まんだり伸ばしたりしつつ、そう言って笑うタミを抱き締めた。華奢な身体の彼女は、私よりよっぽど何もかもを受け入れていて、その羞恥を悟られないように。
「……!」
「うわぁっ」
そのまま倒れ込んだ緑の絨毯を、嬌声と共に私達は転がって。
瞬く花々に囲まれながら、お互いの匂いを胸一杯に吸い込んだ。
溢れ出る愛しさを表現する術など、幼い二人は知らなかったから。
「えへへ、くすぐったいよ、ナル」
「うん……うん」
ただ力いっぱい抱きしめて、縋るように求め合うことでしか、言葉以上の想いを伝え切れなくて――そして、それで充分だった。
世界で一番幸せな女の子が、私の傍にいる。
こんなに触れ合える。こんなに感じ合える。
あぁ、だから――もう何も怖くないんだ。
見つめあった瞳の中に、お互いの姿を捉えた。
いつの間にか私は、こんな風に笑えるようになっていたのだ。
「……タミ」
「……ナル」
抱き寄せたタミの音と、身体の内から響く鼓動が混ざった二人の音。
額をくっつけて、髪を梳いて――僅かな感触だって零さないように。
こうしていると私達は、まるで一つの生き物みたいだ。
「不思議だね。あたしとナルって全然違うのに、どんな世界でも出会えるし、絶対にナルのこと、好きなるって思うんだ」
「うん、私も」
「……あたし、生まれ変わったら花になりたいな。死んじゃっても、この世界で咲く花になる。そしたら絶対、またタミに会いに行くから――その時はちゃんと、あたしのこと見つけてくれる? もう一回あたしに、好きだって言ってくれる?」
「もちろん――約束する」
小指を結ぶ代わりに、絡めるように手を握り締めた。
どれだけ無数の中にいようとも、必ず私は見つけるだろう。
この特別な花を絶対に、たとえ音が聴こえなくなっても。
「……ありがとう、ナル」
そして綻ぶように咲く彼女に何度でも――愛していると囁こう。
†
けれど私は果たせなかったのだ。
体温と共に交わした約束を、当たり前のように立てた誓いを。
私は何も知らなくて、何も気付けなくて。
擦り切れていく記憶の果てに――やっと理解した時には手遅れだった。
タミが自分と引き換えに起こした奇跡が、誰の為の物だったのかを。
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