Note:05 希の話
「ん……?」
ナナミが彼女の異常に気付けたのは、単に偶然と言える。
いつものように、子供達のメディカルチェックをこなし、結果をカルテに纏めていた――そんな慣れ切った作業の中でふと、違和感を覚えたのは一枚のカルテに記載された数値であった。
「……なんだ、能力係数がおかしい」
サイキックの強さと影響力、そして成長の指数になる能力係数。それが妙な数値を示している子供が一人いた――話としては珍しいことではない。サイキックは成長する物である以上、何かのきっかけで急な発達を遂げることもあるだろう。ナナミの専行ではないから詳しくは解らないが、開発者の論文を読んだ限りだとおかしくはない。
「装置のバグ……? いや、でも他の子は別に……」
だが、彼女に限っては異常だと断言できる。
彼女のサイキックは、なんというか――控え目に言って使えないモノだったと記憶しており、つい先日の測定結果も芳しくなかった。そもそも使えるタイミングがあまりに限られていて、故に応用の効かない、博士の研究の悪いところを凝縮されたようなサイキックだったはずだ。
しかしこの数値はまるで――まるで博士の最高傑作に迫るような。
どころか上回っていておかしくない、不可思議の領域に足を突っ込んでいる。
「……」
ナナミはしばし悩んだ――このことを、博士に報告するべきかどうか。
立場を考えれば、勿論報告すべきなのは理解している。ナルに続く成功例が現れたと知れば、単純な彼女は狂喜乱舞し、私室をディスコにしてしまうだろう。だがナナミ個人としては――これを報告することで、何かとんでもないことのトリガーを引いてしまう気がしてならないのだ。
それこそ、かつての友の姿を完全に失ってしまいそうで。
散々呆れさせられた今でも――それだけは避けたくて。
「……あとで個人診断しよう」
結局ナナミは目を瞑ることにした。機械も正確無比ではない――それはもう、バグを起こすことだってあるだろう。それがたまたま、ナルの溺愛する彼女だっただけ、きっとそうだ。
「万が一、ということもあるからね」
もう一度診断する準備をしながら、ナナミはカルテを引き出しに封印した。
ふにゃりとした笑顔の写真が添付された、タミのカルテを。
†
「食べないの、トマト」
ナルの言葉に、タミはビクリと肩を揺らして、小さく頷いた。
肯定とも否定とも分からない動きに、ナルは久しぶりに顔を顰める。
「食欲がないの?」
「違う、けど……なんか朝から、ちょっと変かも」
プレートに乗った、赤くて小さな球体を見つめるタミの顔。
どこか紅に見えて、ナルは聴こえる音に耳を研ぎ澄ませた――微かに弱く、どこか波打つように聴こえる彼女の音。これは熱病の類だろうか。温度管理の徹底しているこの施設で、風邪を引く者など滅多にいないのだが。
「先生に診てもらったらいい。風邪なら寝ていた方が」
「風邪じゃないと思う……疲れてるのかなぁ、頭も痛いし……」
タミはそう言うが、しんどいのは事実なのだろう――結局プチトマトに口をつけず、彼女は脱力して深い溜息を吐いた。蕩けて潤んだ瞳が妙に扇情的で、この間から感情を抑えられなくなりつつある身には、心配でもあるが酷く目に毒である。
「食べ終わったら、先生のところに行こう」
「うん……」
「っ……」
気怠そうに響く音が痛々しく、刺さるようにナルの心をざわつかせる。
強い能力があっても、目の前にいる少女一人。
愛する少女の一人だって、楽にしてあげられない。
自分の持つサイキックはどこまでも、ただ強いだけのサイキックで――人を救うことを目的に、開発されてはいないのだと痛感する。
「ごめん、ナル……今日は一緒に遊べないかも……」
「気にしないでほしい。待ってて、タミ。私もすぐに――」
食べ終えるから、と続けようとした口が、それ以上の言葉を紡げなかった。
ゆっくりと立ち上がろうとした、タミの姿が不意にぐらりと傾いて。
糸が切られたように、膝から崩れ落ちていく光景を。
はたして自分がどこまで冷静に観測できていたのか、分からなかった。
「――タミ!」
気が付けばサイキックは発動していた。
華奢な身体を空間に固定して、なんとか床への直撃を防ぐ。
「タミ……!」
サイキックを維持したまま近付いて、解除と同時に彼女をしっかり受け止めた。
まるで力の入っていない肢体はずっしりと重く、彼女の体内の熱を、粒のような汗の湿り気を――異常事態であることを、これでもかと言わんばかりにナルに伝える。
「どうしたの! タミ!」
「う……」
苦しそうに歪められたタミの顔。
呻き声と共に、その鼻から一筋の線が。
赤黒く、ドロリとした色が、彼女の少し焼けた肌を侵して――
「――――」
その刹那だけは、はっきりと記憶が無くなっていた。
全ての光も、音も、何もかもが真っ白に染まって――気が付けば。
「いい加減目ぇ覚ませ!」
襲いかかった鋭い痛みに、やっとナルは我に返った。
じわりと熱くなる頬、力強く睨みつけるシズ、振り抜き切った手の平に、どうやらシズが本気で自分の頬を張ったのだということを理解する。
「シ、ズ……?」
「想いのままに暴走したって解決しないんだよ! 今すべきことはなんだ!? 衝動に身を委ねて、タミを助けられるとでも思ってるのか!」
よく見ればシズは掠り傷だらけで、恐る恐る見渡した辺りには惨状が広がっていた。引っ繰り返ったテーブル、吹っ飛んだ椅子、隅の方で恐れ慄く他の子供達――食堂全体を支配する恐怖の音が、ナルが起こした無意識の暴走を如実に物語っていた。
「あ……違う、私は……そんなつもりじゃ……」
「あぁ、わかってる――とりあえず先生のとこ向かうぞ、手伝え」
そう言うとシズは、ナルの腕の中にあったタミを引き上げた。
慌ててナルも肩を支え、食堂を後にした。
血の雫が地面に滴って出来た赤い斑点から、目を背けながら。
†
「あと少し待てないの?」
暗がりにディスプレイの光がぼんやりと光る部屋。
博士の私室に響いた声は、イラついた博士その人の声。
「いやぁ、そう言ってもう三年近く経ってるじゃないッスか?」
それに怯むことなく、もう一人の声が響いた。
どこか軽く、面倒臭さと呆れの色を隠そうともしない声。
それらを加速させるような相手の口調が、博士の神経を容赦なく逆撫でする。
「最強のサイキック兵器を創るっていうから、ボスも了承したんスよ? ウチらも慈善事業でやってるわけじゃないッスから、融資にはそれなりの結果が伴わないと――それともマギさんはやっぱ、その程度の結果しか残せないってことなんスか?」
「あんたね……!」
博士が睨みつけても、小馬鹿にするように肩を竦めるだけ。
癖のある赤髪をふわふわと揺らすスーツ姿の女――ケムリと名乗る彼女は、博士がこの施設を造るにあたって融資を受けた『
「いやいや、別にウチはマギさんのこと嫌いじゃないんスよ。アホみたいな動機でも、要するに結果を出しちゃえば、誰だって評価せざるを得なくなるッスから――まぁ」
それが出てないから、ただのアホ止まりなんスけどね。
明らかな挑発は尻を叩く為だろうか――彼女の素の性格であるような気もしてならないが、それ故博士は彼女を蛇蝎の如く嫌っていて、しかし自身のサイキックを行使することもできない。
融資相手の機嫌を損ねるとまずい、などと社会的な理由もあるが、何よりこのケムリという女もサイキックであり、博士の持つそれとは頗る相性が悪いのだ。一度激昂のままに矛先を向け、地面の味を思い知らされた苦い経験が、今も脳に焼きついている。
「……あんた達は何を焦ってるのよ。ここまでしつこくなかったじゃない」
「んー……まぁ、最近『
「そんな厄介なことになってるわけ?」
「厄介と言うかなんと言うか、ちょっと危ない感じのやつが跋扈してるんスよ。技術と思想、二つの意味で危ないやつ――サイクロポリスを終わらせかねないんスよね、アレの考えは」
特定個人のことを示しているのは分かるが、あまり要領を得ない情報。
キョトンとする博士に「……喋り過ぎたッスね」と不敵に微笑んで、
「要するに、金の生る木をみすみす伐採されるのも、金の卵を産む鵞鳥を締められるのも困るって話ッス。その辺はあんま気にしないでほしいッス」
ケムリは大きく伸びをすると、溜息を一つ吐いて、博士に耳打ちした。
「じゃあ、今月を最後に、融資は打ち切らせてもらうッスよ」
「……っ!? 待ってよ! 話が違うわ!」
「違くないッスよ、何も。さっきも言ったッスけど、もう三年経ってるんスから――これ以上は結果にも期待できないって、ボス直々の判断ッス。ボスにそう言われちゃ、末端のウチらは逆らえないんスよねぇ……いやぁ残念ッス」
「待って――待ちなさい!」
ヘラヘラ笑いながら部屋を出ようとするケムリに、博士の投げかけた声は届かない。
奥歯を噛み締め、拳を握り締め、それを口に出すか一瞬躊躇った。
今までの金を返せる手段もない以上、間違いなく自分は『
腐っても研究者だ――危険な現場に放り込まれることはないだろう。
けれど『
表を歩けなくなった人々が泥を啜り、闇で舗装された道を歩む、科学都市の影。
一度落ちてしまえば、もう二度と――それこそ鎹榛名に勝つなど。
一生叶わない夢を抱いたまま、沈んでしまうのは。
世界一の科学者と、対極の存在に成り果ててしまうのは――
「……出せる結果なら、ある」
絞り出した声に、動きを止めたケムリが、真顔のまま無言で続きを促す。
続きを口にすれば、もう後戻りできなくなることを分かっていた。
博士ではなくマギとして、唯一自分を観測してくれている存在に。
愛想を尽かされてしまうことなど、目に見えていて――それでも。
「最後の手段として、用意しておいたコードがある。脳にかかる負荷を、記憶にフィードバックさせる、隠しコードを仕込んである」
「ふぅん……? つまり何ができるんスか?」
「サイキックを駆使すればするほど、何もかもが空っぽになっていくの――それを発動させる。副作用や影響の確認が取れてなかったから、今まで使わなかったけど」
それでも、ここで終わるくらいなら。
彼女と一緒に見た夢すら、理想に貶めてしまうくらいなら。
「あと一ヶ月だけ時間を頂戴――究極のサイキックを、献上させてもらうわ」
しばしの沈黙が部屋を支配していた。
見定めるように見つめていた、ケムリの瞳が不意に細められて、
「……いいッスねぇ。そういう覚悟が、最初から欲しかったんスよ」
ぬるりと近付いた彼女は、マギの肩に優しく手を置いた。
人肌の温度が、その時だけは妙に生温く、背筋を凍らせるほど冷たく感じた。
「ヒトデナシで行こうじゃないッスか、お互いに。高い理想を追うほど、果ての夢を求めるほど――それに見合った結果を欲するほど、失う人間性だって決定的になるもんなんスから」
「……っ」
「ボスにはウチから言っておくッス……いやぁ、ここ数年で一番楽しみな一ヶ月になりそうで、ワクワクするッスねぇ――ねぇ、マギ博士?」
逃げられるだなんて、思わない方がいいッスよ。
囁かれた言葉が嘘偽りや、脅しの類でないことを理解する。
そのままニッコリと微笑んで、ケムリは私室を後にした。
「あ――」
直後、どっと汗が噴き出て、マギはその場にへたり込んだ。床の冷たさに脚から、心から――奪われていく温度に耐え切れず、思わず我が身を抱き締めた。
「……そうよ、何を躊躇っているの」
プライドも、信用も失って、ようやくここまで辿り着いたのだ。
世界一の科学者になると、それだけを指針にして、ここまで来られたのだ。
今更失うものなんて――これ以上失うものなんて。
「マギはもう……誰にも負けないんだから……!」
失って後悔するものなんて、あるはずがない。
震える身体は、ポケットの携帯の着信に気付かなかった。
†
「外の世界を見てみたいって、今でも思っている?」
彼女の髪を弄りながら、ナルは零すように問いかけた。
指で梳く度、指先に絡まる細い糸。ふわふわの髪の毛を千切ってしまわないよう、細心の注意を払いながら。
「外の世界って……この壁の向こうのこと?」
白いベッドに横たわる、タミのぼんやりと開いた瞳と目が合った。
今は容体が落ち着いているが、それも今だけかもしれないと思うと、胸の奥にフォークを突き立てられたような痛みが襲いかかる。
タミの身体は、もう長くは持たないかもしれない。
それが先生の下した、これからタミに起こる未来。
なんてことの無い簡単な話だ――そもそもデザイナーズベビーであるナル達は、最初からあまり長生きできるようには作られていなかった。
役に立つサイキックが芽生えたのなら、延命処置として身体の調整を行う。
生憎そうはならなかった者は、調整を受けられず寿命による死を迎える。
それでも最終的な見極めをするまでは、子供たちに共通の調整を施す予定だったが――タミに関してはそれ以上に、サイキックの急激な発達とそれに伴う負荷が、彼女の肉体を苛め抜いているらしい。
サイキックばかり強くなろうが、それを宿す人体には限界がある。
ましてや弱く調節されていた身体では――耐え切れるはずもない。
「うーん……気にならないっていえば、嘘になるけど……」
でも難しいよね――痛み止めを処方されたタミは、今だけ全てを忘れてふにゃりと笑えている。それも時間の問題だ。いずれまた彼女は自身を蝕む負荷に苦しむ。
調整には段階が必要で、いきなり五段階ほどすっ飛ばして施すことはできない。
そもそも本当にタミのサイキックが発達しているのかも分からない。
少なくともナルに聴こえるタミの音は、いつもと何も変わらない。
そして博士がわざわざ、タミの為に手を尽くすとは思えない。
完全に成す術がない――このままでは、タミを救えない。
「難しいことなんて、何も無い」
「外に出ようとしたら、怒られるよ? 処分されちゃうって、シズも言ってた」
今、この部屋にはナルとタミだけしかいなかった。
先生は博士に相談を、シズは食堂の片付けに向かった。
ひどく静かな空間は、それでもタミがいるだけで温かかくて。
どれだけ幸せだろう――このまま時間を、止めることができたならば。
けれどそれは叶わない。
いずれこの温もりは、ナルの手から零れ落ちる。
時を止めるサイキックも、彼女を癒すサイキックも。
心の底から望む才能は――何一つだって、ナルは持っていない。
「――私なら、タミに外の世界を、見せてあげられる」
だから、君を連れ出そう。
このまま死の檻に閉じ込められる君を、自由な世界に。
いつだって夢見ていた、この壁の向こうに。
願いの先を見に行こう――君と一緒に。
「えぇ……それって……どういぅ……」
眠たくなったのか、ほとんど呂律の回っていない甘い声。
そうだ――そのまま彼女は、夢の世界に落ちるだけでいい。
開いた小説に躍る、恋の文字をなぞった時の感覚を。
初めて寂しいと思えた、空っぽの心を満たす何かを。
知る由もなかった感情を――教えてくれたタミの、願いを叶える為に。
与えられた
「安心して、タミ。全部、私に任せてくれたらいい」
「んぅ……」
瞼を閉じたタミの額に、軽く口付けし微笑んで。
音を立てないよう、ゆっくり立ち上がったナルの瞳は。
射抜くようなその瞳は、まっすぐ窓の外に聳える壁を見ていた。
未来を予知するサイキックなど無くても、分かる気がする。
これから始まるのは、きっと――終わりへ向かう、それだけの物語だ。
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