Note:03 恋の話

「……」

 

 読み終わった本を静かに閉じて、垂れていたナルの頭が持ち上がる。

 先生が「私の趣味」と言って持ってきた、今までにない類の小説。

 面白い、面白くないで言えば――退屈はしなかった。

 少なくともほんの少し、気を紛らわせることはできた。

「ふぅ……」

 溜息にも似た深呼吸――今日とて変わらない日々が過ぎていく。

 降り注ぐ陽光も、手の平の本の重たさも、退屈な能力測定も。

 最早生活と化した出来事は、変化を覚えさせることなどきっとない。

 今日がそうであったように、明日も同じ時間を生きるはずで――

「……タミ」

 しかしナルにとっては不十分だった。

 菩提樹の下に彼女のいないことも。あの音が聴こえないことも。


 陽だまりのような笑顔が、欠けてしまったこんな日々に。

 一体どれほどの価値があるものか。


『ナル、あなたはこれ以上、雑魚と関わらなくていいわ』

 

 博士の一歩的な通告から、タミとの接触が無くなって一週間が経つ。

『あなたに悪影響を及ぼすのよ、アレが傍にいたら』

『……それは、どういう』

『大丈夫よ――マギに任せておけば、あなたは究極のサイキックに至れる』

 最初は彼女の言っている意味が分からなかったが、体感してみると解りやすく――この数日間、ナルが会った人間は先生と博士の二人だけになった。食堂で食事を摂る時も、ぼうっと自由時間を過ごす時も、絶妙に他の子たちとは時間がずらされているのだ。

 それでも同じ建物の中で生きている以上、すれ違うことはあるのだが、みんなナルを視界に捉えた瞬間体を強張らせて、目を逸らして歩き去ってしまう。

 そしてそれは、タミも同じだった。

 一度だけ、一週間のうちにタミを見かけた。

 話しかけようと思わず動き出した脚は、しかし。

 しかしハッとして顔を背け、踵を返したタミを追いかけられなかった。


 私、何かしてしまったんでしょうか。


 ナルの質問に、先生は申し訳なさそうに『ごめんね』と。

 それ以上のことを言ってくれなくて、だからこそ博士が裏で手を引いているのは明白だった。ナルはそれなりに先生のことを信頼していて――そんな彼女を黙らせることができるのは、この施設において一人だけしかいない。

 じゃあ、いったい何のために。

 その答えもまた明白だ――博士自身が言っていたのだから。


 究極のサイキックに至る。

 そんなモノ、望んだ覚えなんて――ナルには無いのに。


「どうして、私なんですか」

 

 ナルの言葉に、ナナミは思わず手に持っていた注射器を取り落としそうになる。

 定期健診の時間――体温計を腋に差しながら、ふと零した言葉。

 何より初めてだったが故、ナナミは動揺を隠せなかった。

 近状報告を促したわけでもないのに、ナルが言葉を発したこと。

 そしてそれが明らかに――負の感情を纏って聞こえたことに。


「どうして、とは?」

 注射器の準備を止めて、一旦ナナミは向き合って座ることにした。

 言葉と態度を慎重に選ばなければならないだろう――目の前にいる少女はまだ幼く、しかしこの施設でも、おそらく世界でも有数のサイキック。

 急速に発達しつつある精神に比べて、経験があまりに幼すぎて。

 初めて見せた負の感情に従えば――暴走すればナナミも、周辺も無事では済まない。

「私は、もっとタミと遊びたいです。もっとタミの、近くにいたいです。だけど博士は、それだと究極のサイキックに至れない、と。だったら、そんなモノ――そんなモノ、なりたいなんて思いません」

 言葉を選んでいるのはナルも一緒らしかった。

 おそらく彼女も、急に膨らみ始めた自我に戸惑っている。

 それでも無意識に、サイキックを抑え込めているのは流石と言ったところだろう――そしてそれこそ、博士が彼女に執着する理由なのが、あまりに皮肉だった。

「単純に、君がサイキックとして高いスペックを持っているから、かな。一人に一つのサイキックを、複合能力という形で持っている。これは世界的にも革命なんだ。だから博士は君を究極に至らせたがっている……君にとっては、どこまでも迷惑な話かもしれないけれど」

 さっぱり解らない、と言いたげにナルは首を傾げた。

 解るはずもない――博士が、マギがナルに抱いているのは、他ならぬ彼女の夢と執着の残滓でしかないのだから。そこにナルの意思は存在していなくて、だからこそナルが理解できるわけがないのに。

「しかし珍しいね。ナルちゃんが自分から、話を振ってくるなんて」

「……最近、よくないことばかり考えてしまうから」

「よくないこと?」

「タミが私のこと、忘れてしまうんじゃないかって」

 その瞬間背筋に走った悪寒を、ナナミは悟られまいと必死だった。

 その瞳は、その眉は、その口元は――あるはずがない、と切り捨てた博士の。

 荒唐無稽にも思えた、とある仮説を証明しているようなもので。

「……ありえないよ。タミはいつも、君のことを気にしている」

「今はそうかもしれません――だけどタミには、他にもいっぱい友達がいます。いつか私のことを忘れて、他の子と仲良くなって、そんなの」


 嫌だと思ってしまうのは、きっと悪いことです。


 あぁ、なんてことだろう。

 こんなにも分かりやすく、ナルは抱いているのだ。

 タミという少女に特有の独占欲を――あるいは恋と呼ばれる感情を。


「……ナルちゃんは、タミのことが好きなんだね」

「好き……?」

「今はまだ、解らなくてもいいかもしれない」

 はたまた小さく首を傾げた少女の、自覚のない小さな宝石。

 誰もがいつかは知るそれを――無慈悲に叩き壊そうとしている事実に、ナナミはもう堪えることができなかった。どうしてこんなことをしているのだろう、と自問自答せざるを得なかった。


 究極のサイキックを創る――達成すれば、確かに史上の功績だろう。

 だがそれは大人の望みでナルの望みではない。

 だがそれは大人の願いでナルの願いではない。

 彼女の願いはただ純粋に、自覚の無いまま抱く淡い感情。

 ありふれた喜びと、ありふれた嫉妬と、ありふれた敬愛の果てに。


 タミと一緒にいたい、なんて――あまりに小さな想いに他ならないのだ。


「……今日の検診はここまでにしよう」

「まだ、採血も、能力測定も終わってません」

「一日くらいしなくたって平気だよ――それより少し、頼んでいいかな?」

 せっかく準備していた注射器を仕舞って、困惑するナルにナナミは微笑む。

 これから自分がしようとしていることは、間違いなくマギの思惑に背く行為だ。

 知られれば立場が危うくなるし、最悪この世とおさらばしておかしくない。


 けれどそれでも、こんな恥ずべきことをする為に、大人になったわけじゃない。

 ナナミも、そしてマギも、もっとなりたい自分がいたことを忘れていて。

 そしてそれは――芽生えた大切を、踏み躙る大人では断じてない。


「研究棟の裏の花壇に、水をやるのを忘れてたんだ。私の個人的な花壇……というか鉢植えなんだけど、私はちょっと動けそうにないから、ナルちゃんにお願いしたい」

 医者として、子供たちの動きは大体把握している。

 今どこに誰がいるのかも、その仕事を今日は誰が請け負っているのかも。

「はい、大丈夫です」

「プチトマトもあるから、食べたくなったら摘まんでいいよ」

「……?」

 ナナミの言っている言葉の意味が理解できなかったのか、不思議そうな面持ちでナルは部屋を出ていった。

「……さて、私は私のやれることをしないと」

 その背中を見送って、ナナミはポケットから携帯を取り出す。

 職員用の携帯ではなく、個人用の携帯――施設のドクターとしてではなく、ナナミミサキとして彼女と話をする為に。

 聡い彼女なら、それだけでなんとなく察してくれると信じて。

「――はっ」

 そこまで考えて、ナナミは思わず自嘲する。


 信用なんてもの――まだ彼女に抱いていたのか、私は。


「……」

 

 先生に言われたとおり、花壇に向かいながらナルは考える。

 好き――とは一体何なのだろう。

 タミに忘れられたくないという想いが、タミが他の子と仲良くするのが嫌だと思うことが――あの日、タミとシズの音に混じって聴こえた歪な音が、好きということなのだろうか。髪に触れる手を見た瞬間の軋んだ音が、好きということなのだろうか。

 あの不協和音の正体が好きということなら、それはきっと醜い。

 醜くて、悪いことだ。そういう音として聴こえた以上、違いはないはずだ。

 なら――もっとタミと一緒にいたいと、思う自分は醜いのだろうか。

「…………」

 それが解らない――解らなくて、気持ち悪い。

 今まで感覚的に、全てを理解できていた。

 なのに、理解できないモノが生まれて、それが他でもない自分自身の内側で。

 博士の言う究極のサイキックに至ることができれば――それも解るのかもしれないけれど、そんなモノになりたいとは微塵も思えなくて。


「……――ッ!?」

 そんなことを考えながら歩いていた時、懐かしい音が聴こえた。

 気が付けば走り出していた――その音の聴こえる方向へ。

 誰より優しい音。陽だまりより、菩提樹の木陰より、安堵を齎す音。

 何時も聴いていたそれより、少し元気のない音に堪えられなかった。

 この一週間、ずっと耳を澄まし求め続けた音が――


「……タミっ!」

 

 果たしてそこに、彼女はいた。

 如雨露を傾けながら、突如の声に驚きの表情を浮かべる彼女。

 少しウェーブのかかった髪を揺らし、深い茶色の眼を丸く見開いて。

「……ナル?」

 小さな唇の奥、甘いような、柔らかいような声で名前を呼ぶ。

 その姿を見た瞬間、世界が色彩に溢れた気がした。

 ずっと曇っていた世界の音が、洪水のように流れ込んできた気がした。

「わ、ナルだぁ! なんでここに――わぁ!?」

「……っ!」

 走って、飛び込んで、抱き締めた――二度と離さないよう、無意識に。

 タミの矮躯で支えられるはずもなく、柔らかい芝生に倒れ込む。

 持っていた如雨露が宙を舞い、零れた水が光を反射してキラキラと輝く。

「ぐえーっ!」

「タミ、タミ、タミ、タミ……っ!」

「ちょ、ちょっと……重いよ、ナルぅ……」

 呻くタミの音が困惑と、しかし弾むように大きく聴こえる。

 温もりも、感触も、匂いも、五感いっぱいにタミを感じる。

 それが嬉しくて、嬉しくて――瞬間、ナルは理解した。

 

 この感情が『好き』ということなんだ。

 たとえ醜くても、悪いことでも――こんなに嬉しいのが『好き』なんだ。


「今日のナルは甘えん坊だなぁ」

「うん……うん」

「でもね、あたしもずっと、ナルに会いたかったよ。博士が、もうナルと会っちゃダメーって怒るから、会えなかったけど」

 今日ここの当番で良かった――ふにゃりと笑うタミの顔を直視できなくて、胸に顔を埋めた。心臓の鼓動が少し速くて、ナルの鼓動はそれより速い気がしてならなかった。


 知らない音と、解らなかった自分が溢れ出して止まらない。

 これが、好きという想い。

 今まで読んだ物語で、幾度となく出てきた感情。


「……タミ、私ね」

「どうしたの?」


 究極のサイキックなんてなれなくてもいい。

 こうやってタミがいて、私に笑いかけてくれるのなら。

 特別な彼女が、隣にいてくれるのなら。


「見つけたの、私の大好きな音」


 それはきっと、音だけじゃないけれど。


「……こんなもの、マギに見せてどうしてほしいわけ?」

 

 研究棟の二階――ナルの探知から外れる範囲の窓辺。

 眼下にいる二人を一瞥し、睨むマギにナナミは肩を竦めた。

「というか接触は禁じたはずだけど」

「偶然だよ、偶然……たまたまナルの向かった方向に、タミがいたってだけ」

「白々しいこと言ってんじゃないわよ」

 口調こそ刺々しいが、しかしマギはそれ以上何もしようとしなかった。

 花壇に向かう二人は、プチトマトを突いて遊んでいる。タミは兎も角、ナルがあぁも自然な笑みを浮かべている光景に――思うところがないと言えば、彼女としても嘘になるのだろう。

「私達にもあったよね、あぁいう時期。懐かしくない?」

「……マギはプチトマト程度ではしゃいだ覚えなんかないわ」

 そうじゃなくてさ、とナナミは向き直った。

 頭の固い――いや、、元同級生に。

「マギにもあったでしょ、一緒に過ごすだけで楽しかった時間が」

「それは――」

「少なくとも、私は楽しかったよ。マギの蘊蓄とか夢とか、ただひたすら聴かされるだけの時間がさ……中学の三年間だけだけど、今でもちゃんと覚えてる」

 やりたいことも、将来の夢も何も無かったナナミと違って、マギの夢はいつだってキラキラと輝いていて、眩しくて――羨ましいのと同じくらい、そんな彼女が好きだった。

 大人になって、マギはすっかり理想なんか語らなくなってしまったけれど。

 あの時の自分と同じ想いを、きっとナルはタミに抱いているはずだから。

「ここ一週間のレポート、見ただろ? サイキックが。原因なんて明白過ぎて笑えるよ――タミと会えなくなってから、ナルはサイキックを振るう意義すら見失いそうになってるんだ」

「……」

「ナルはもう、マギが思うよりずっと、普通の女の子だよ」


 恋もするし、誰かに嫉妬も覚える、感情ある人間で。

 余計な感情に左右されない兵器としては――もうとっくに欠陥品なのだ。


「だからさ、奪っちゃダメだと思うんだ。たとえ君が生み出した生命でも、彼女は一人の人間として存在している――意志も心も、好き勝手できるなんて思うのは傲慢だよ。神にでもなったつもり?」

「……じゃあ何よ、マギに諦めろって? このまま、鎹榛名に負けっぱなしのまま、大人しく後追いだけしてろって? あんたこそ何様のつもり?」

 言葉の苛烈さとは裏腹に、いつもの癇癪癖が発動しないのは、そういうことだ。

 やっぱり彼女自身が一番分かっていたのだろう――自分の迷走具合を、誰よりも。

 けれどそれ以上に、譲れない何かを、抱え込んでしまったのだ。


「勝つのよ、絶対に! 勝たなきゃいけないのよ! マギがマギである為に――もう誰にも負けられないんだから! 手段なんか選んでられない! 諦めてなんか、やらない!」


 肩で荒く息をしながら、マギはナナミを強く睨みつけた。

 

 そう訴えかけられているようで、紡ぐ言葉が思い浮かばなくなる。

 あぁ、そんなにも、変わってしまったのが――ただただ悲しかった。

 ナナミの知るマギが、もうこの世にいないことが。

「――話はそれだけ? マギはもう、仕事に戻るから」

「……うん、わかった……」

 白衣を翻し、目の前から立ち去ろうとする彼女に、手が届かない。

 すっかり辞表を書く気分になっていたナナミに、ふとマギは立ち止って、

「……隔離はもう止める。ナルの好きにさせなさい。恋でもなんでも、勝手にすればいいわ。サイキックが伸びなくなるのなら、続けるだけマイナスだもの」

「……!」


「別にあんたの口車に乗せられたわけじゃないから――勝つことも、ナルを究極のサイキックにすることも諦めない……ただ今回はマギが間違ってた。それは、認める」


 一度も振り返らないまま早口にまくし立てて、今度こそ歩き去っていった。

「マギ……」

 彼女の名前を一人心地に呟いて、ナナミは窓に凭れかかる。

 届いた、とはまだまだ思えないけれど。

 少しだけ昔の――あの頃のマギが、見えた気がする。

 それだけで今回は、ちょっとだけ勇気を出して正解だった。


 凭れかかった窓の外では、ナルとタミがプチトマトを摘まんでいる。

 本当に楽しそうに、幸せそうに――少し羨ましくなるくらいに。

 自分達もあぁだったのだろうか。

 何も気にせず、純粋に時間を共有できていた頃は。

 あれほど眩しく、美しく見えたのだろうか。


「……その居場所、手放しちゃダメだよ」

 

 どの口がぬかすんだ――と、さすがに嘲ざるを得なかった。

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