Lost Note:02 先生の話
「久しぶりだね、ナルちゃん――その後の調子はどう?」
随分と馴染みのある話し方で、先生は私の記憶を揺さぶる。
時は昼頃、超常開発都市サイクロポリスに陽光が降り注ぐ時間。
私が見つけたお気に入りの本屋――正しくはその併設してある喫茶店の方――にて二人、机を挟んで座る私に、先生は相変わらずの柔和な笑みを浮かべていた。
「私も暇を縫って会いに来ているけど、それでもなかなか、ね」
店内のBGMに混じる先生の声は、シズの音や、記憶の中の彼女の音ほどではないけれど、やはり落ち着く音色をしている。たぶん悪くない感情を抱いていたのだろう――それこそ、信頼とか言われる類の。
それにしても、ほんの一カ月程度、間が空いただけで久しぶりとは大袈裟に聞えるが――無論、先生は私の脳に起きていることを把握しているので、毎度このような切り口になってしまうのだろう。
「上々よ、先生」
だから私も平静に返したが、むしろ先生は一瞬虚を突かれた表情になり、
「先生はちょっと――やっぱり、やめてほしいかな」
「どうして」
「器じゃないから」
カップに入ったコーヒーを口に含み、「あちっ」と呻いた。
シズが「彼女は先生だ」と紹介するものだから、以来ずっと私は先生を先生と呼んでいたが、どうやらお気に召していないらしく、曖昧に笑い返されていたのは前回の邂逅まで――これほどはっきり拒絶されたのは初めてだった。音も少し歪に響いたような気がして、私はアイスティーで口内を潤すと、
「――じゃあ、ミサキさん」
「はい、ミサキです」
音が少し弾んで聴こえたので、私の選択は間違いではなかったらしい。
†
先生の本名はナナミミサキという。
あくまでシズがそう言っていただけで、私は勿論彼女の名前も、ましてや彼女自身のことも知りすらしなかったのだが――何でも施設にいた頃、私の担当開発者であり医者の真似事をしていた人らしい。
ナナミミ・サキなのかナナミ・ミサキなのか、最初はよく分からなかったそんな彼女と、私は月に一回くらいのペースで会うことにしている。
話すことは取り留めもない――最近あった面白い話や、少し悲しかった話、こういう夢を見たとか、時間とコーヒーの香りと、共に流れ去っていく話ばかり。
それも全て先生曰く――健康診断の続き、だそうだ。
†
「つい先日、『
コーヒーと一緒に頼んでいたのであろう、ショートケーキにフォークを突き刺しながら、先生――これは私の中だけの呼び方である――は大きな溜息を吐いた。私はそれを無言で聞きながら、彼女の音が徐々に軋んでいくのを聴き逃さなかった。
ここ数回、会えばいつも先生は『
聞けば施設が無くなった後も、彼女はギリギリで『
「……茶飯事」
そもそも『
起こる一切が血と腐臭に塗れていて当然なのに、自ら鼻を差し出して「臭い」と呻くのは些か自分勝手で、滑稽とすら思えてしまう――分かっているはずなのだ。
PSY-CODEが生んだのは、間違いなく次の可能性。
そしてもう一つ、お手頃で使い潰せる殺人兵器。
超常開発都市の誰もが知っている世界と、誰かが知っている世界。
どちらも同じく――サイキックと言う名をした、人型の生物に他ならない。
私の言葉に冷たさを感じたのか、先生はどこか自嘲的に笑う。浮き出た笑窪の鋭さ――一か月前より若干やつれたかもしれない。髪にも艶が少なくなっているようで、まるで彼女だけが世界ごと、一気に歳を取ってしまったように見えた。
「そうかもね。でもあれは、抗争なんて生やさしいものじゃなくて……そう、本当に戦争だよ。規模がいつもの比じゃない。チームが二つは壊滅したし、常連が顔を出さなくなった。『
一チームの構成が5人程度として、最低でも10人は死んでいる、ということだろう。そういうのはシズの方が詳しいし、尤も彼女はあまり話したがらないので――私にとっては絵空事の世界である。
「……でも私が片棒を担いでいたのはそういうことなんだって、思い知る毎日だよ」
「別に、ミサキさんが何かしたわけでも――」
言いかけたその時、決定的な歪みが鳴ったように聴こえた。
ハッとして顔を上げると、ケーキを切り崩しながら、先生は。
彼女はフォークを、今にも自分の喉元に突き立てそうな顔をしていて――
「うん、私は何もしていない――何もできなかった、3年前と同じで」
硝子みたいに、繊細な何かが砕け散る音が轟いた。
きっとこの場にいる誰にも、私以外には聴こえない音。
それは私自身久々に聴く、サイキックを使った瞬間に鳴る音。
あるいは竜胆のような――ナルという少女の音だった。
「――そういうこと」
「……」
「先生は、サイキックを使わせたかったのね」
「――よかった、まだまだ健在か」
ケーキに突き刺さったまま抜けなくなったフォークを突きながら、先生は笑う。
まるで時間が停止したように、ピクリとも動かないフォーク。空中に固定されて落ちることもない。時間を止める、なんて真似事は――サイクロポリスのサイキックには、そういうサイキックを持った子もいるらしいけれど――生憎私にはできない。あくまで念動力の応用でしかない現象は、しかし先生に少しだけ安心感を与えたようで。
要するに、私のサイキックがいまだに健在であることの確認。
彼女が今日会いに来たのは、おそらくその為だったのだろう。
「私の知る限りだと、真に
「……サイキックが一人一つ、だなんて知らなかった」
「シズは教えてくれなかったの?」
「サイキックに関することは、ほとんど何も」
それもそうか、と先生はフォークの尻を指で弾いて奏でた。
いい加減ケーキを食べたそうにしていたので、フォークの固定を解除。今の先生の音は非常に落ち着いており、そもそもどうして私は「彼女がフォークを喉に突き刺すかもしれない」などと思ってしまったのか、今となっては疑問だった。
「けど
「『
「あぁ、なるほど――下手に
「たぶん、そう」
博士の入れ知恵かな、と先生はどこか懐かしむような視線を空に向けた。
先生と話していると偶に――シズだと極めて稀に――博士、という人物の話題が上がることがある。なんでも施設の責任者にして、私やシズ、そしてあの子を造り上げPSY-CODEを与えた張本人――だったらしい。私は彼の人のことを知らないけれど、シズが博士の話をする時、彼女の音が嫌に大きく響き始めるので、おそらくそういうことだ。
「さて、ナルちゃん。その力――私も例に倣って『
あの子の顔とか。
そしていきなり始まった健康診断に、しかし私はいつも通り頭を振るって答える。
「忘れたことはない。けど思い出せたのは、彼女が私のことを、竜胆みたいと言ってくれたことだけ。だから最近は竜胆を育てている」
「植物を育てるのは良い、精神的にも」
それは確かシズにも言われたことだ――あと他にも誰かに言われたような。
「で、サイキック発動において欠落無し、でも回復無し、か――身体機能の方はもう、完全に一般人と同じと言ってもいいけど、脳の記憶障害については課題がある。これに関しては私より博士の方が」
「あるいは――」
失ったモノを取り戻す術など、無いのかもしれない。
言葉の後、訪れた一瞬の静寂に、BGMだけが私達の間を擦り抜けていった。
先生は何か言おうとしたが、やがてコーヒーを一口だけ含んで、
「――サイキック能力を向上させるには、想像力を鍛えること」
「それは前にも聞いた」
「あぁ。想像力とは即ち、イメージ、妄想――人はいつだって、それを夢や願いと呼んできた。人間だけが持つ、不定形で曖昧で、なのにどうしようもない原動力として」
そうしてこのどうしようもない都市ができた。
最後に苺を口に放り込んで、先生は立ち上がる。
「だから願うしかないんだよ、ナルちゃん。本当は私だって、君に少しでも施設にいた頃の記憶なんて取り戻してほしくない。代償を支払ったとはいえ、『
私の目をまっすぐ見つめながら、先生はひどく悲しそうな顔をしていた。
いや、きっと先生は悲しかった――聴こえた音が、そう思わせた。
「どうか思い出そうとすることを止めないでほしい。君が一番幸せだった頃の記憶が――タミと一緒にいた記憶が、その影の中にあるのなら」
「……ミサキさん」
「願いのその先でタミと再会できたら、また一報欲しいな」
君がこれから見つめるのは、そんな都合のいいハッピーエンドだけで良い。
そう言って紙幣を置き、先生はそのまま店外に出ていこうとした。
その背中を見ていると、何故だろう――私はいてもたってもいられなくなり、
「――先生!」
思わず立ち上がって叫んだ声に、しかし彼女は振り向かない。
私に予知能力はない。
色々なサイキックを使える一方で、それだけは開花しなかった。シズに言わせれば「あんなもん無い方が良い」らしいが、それでも私は今日ほど予知能力を欲したことはないと断言できるし――予知能力を発現させたのかもしれない、と言えるのも、今日この瞬間だけだったと断言できる。
「先生の、原動力は」
どうしてか、もう二度と彼女に会えない気がしたからだ。
このまま見送れば、もう二度と彼女に面と向かうことはない気がしたからだ。
「先生の原動力が――夢や願いなら、教えてほしい」
「……どうして?」
「参考までに」
振り向かない。足は止めたまま、なのに顔だけはこっちに見せてくれない。
不気味なほどなだらかな音。今にも聴こえなくなりそうな音。
「夢とかそんなのと一緒にしたら怒られるよ」
「じゃあ、何」
途切れさせてはいけない、と私の中の私が叫んでいる気がした。
奥底の、もっと薄暗い方――それこそ蝕の中に消えた、影の私が。
「贖罪って言えば聞こえの良い……うん、ただの自己満足」
じゃあね、ナルちゃん。
結局、最後まで先生は振り返ろうとしなかった。
見えなくなっていく背中を止められなかったのは、どうしてだろう。
きっと私は――「またね」と言ってほしかったはずなのに。
†
先生とはそれ以来一度も会っていない。
連絡を入れてみたが、どうにも繋がらなかった。きっと忙しいのだろう。
一度、『
今にきっと、また健康診断と都合付けた連絡が来るだろう。
いつもの喫茶店で先生は、少し遅れてやってきた私に訊ねるのだ。
その後の調子はどう――と、柔和な笑みを浮かべて。
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