Note:01 音の話

始まりの音は、いつだって君から聴こえた


「ナールッ」

 

 彼女が名前を呼ぶのと、ナルが振り返ったのはほぼ同時。

 中庭にいたのはナル一人だけ――それでも。

 色々な音に混じって聴こえた、優しい音が合図になる。


「うわっ」

「何?」

 視界いっぱいに広がった彼女――タミの驚きの顔が、ついさっきまで悪戯心に溢れていただろうことは想像に難くなかった。それもすぐに、ふにゃりとした笑顔に変わる。

「わかるんだ」

 すごいね、ナルは。

 耳にかかる髪をかき上げたのは、その声を聞き逃さないように。うんざりするほど聞き慣れたお世辞が、タミの声だと何故だろう――普段とは全然違って聴こえて、どこか心地良かった。

「タミの音は、特徴的だから」

「そうかなぁ……その――音っていうのが、あたしには分かんないからさ」

 小さく首を傾げたナルを、タミは困ったように頬を掻いて見ていた。ナルに言わせれば、これ以上分かりやすいモノもなかったのだが――どうやらそれは、複数人いる中でもナルだけが持つ素質のようで、だから。


「やっぱり、ナルはすごいよ」

 

 特別なんだ、と少し逸らされた顔に差した翳り。

 優しい音が少し撓んで聴こえた気がして。

 だから――あまり嬉しいとは、思えなかった。


 サイキック――ESPまたはPSI、要するに超常的能力を持つ、超能力者と呼ばれる存在の呼称であり、あるいは能力そのものを示すこともある単語である。

 かつては夢幻、もしくは偽欺に含まれていた概念は、ある日を境に実体を得る。

 とある科学者が開発したPSY-CODEは、、人を次のステージに進める為の画期的な発明だった。誰もが挙って結果と能力を求め、遂に目覚めたサイキック達の為だけに、一つの超常開発都市が一つ造られる時代に突入し――しかし忘れてはならない。

 

 才能は、万人に与えられないからこそ、才能と呼ぶのだ。


「開発結果、悪かったんだ」

 

 中庭には大きな菩提樹があって、ナルはそこでよく本を読んでいた。

 担当開発者が言っていたからだ――想像力を高めることが、サイキック能力の向上に繋がるのだと、童話や寓話を纏めた本を山ほど持ってきながら。

 何かを期待されているのは分かったが、応えてやる義理もない。

 けれど何もすることがなかったので、ナルはよく本を読んでいた。

 ここが一番いい音がする、と落ち着いた中庭の菩提樹の下――もっと心惹かれる音を放つ、彼女に出会ったのは幾許前だったか、もう覚えてはいないけれど。

 いつものように隣に座るタミに、もはや何の疑問すら抱かなくなる程度には。


「そうなの」

「うん――前回から成長なし、だって」

 月に一度行われる、能力開発の途中経過診断テスト――ナルはもう久しく受けていないが、その時間になると施設から子供達がいなくなるので、今日の静けさはそういうことか、と一人納得する。

「才能無いんじゃないかって、博士に言われちゃった」

 分かってても傷つくよね――やはりふにゃりと笑いながら空を見上げるタミの、しかし音は次第に撓んで、軋んで、歪に聴こえてくる。それがひどく気に喰わなくて、ナルは本をパタリ閉じてタミの瞳を見据えた。

「シズなんかかなり成長してたのに――ナル?」

「PSY-CODEなんてあてのないものに縋っている人を、タミが気にしなくていい」

「そうかも、しれないけど」

「タミはタミ、それは変わらない――勝手にされているだけの期待なら、応えないのも応えられないのも、タミの勝手。だからタミが傷つくのは、やめた方が良い」

「……ありがと」

 と言っても無理でしょうけど――無言で微笑んだタミに、ナルはそう思った。


 気にしてしまう娘であるからこそ、きっとこんなに優しい音がするのだ。

 都合よく生み出された自分達に、不釣り合いな責任を持ってしまうからこそ。

 タミはタミなのだ、と――隣に座る彼女が心地良い理由を、ナルは知っている。


「――ところで、音ってどんな感じなの?」

 いくらか元に戻ったらしいタミが、ナルの長い髪の毛先を弄りながら訊ねた。

 既に本に視線を戻していたナルは、やはり小さく首を傾げて、

「どんな感じ、って」

「あたしには聴こえないもん、聴覚情報じゃないんでしょ?」

 ふむ、とナルは少し考えて――この感覚をどう説明したものか、と。


 一般的に音とされる、鼓膜を震わせて伝わる情報とは違うのは確かだ。しかしだからと言って、『相手の情報を色や音で簡易的に捉え直接把握する、一定の能力水準を超えたサイキックの半数が持つ、どこまでも一方的なある種の精神感応現象』と、担当開発者が言っていた羅列をそのまま伝えても意味はないような気がして。


「……オーラ」

「オーラ?」

「あるいは、というものにカテゴライズされるかもしれない――この人はこんな人かな、この人はこういう人だろう、という感覚は誰にだって備わっていて、私にはそれが音として聴こえる。ただそれだけのこと」

 好きな音、嫌いな音も同じく誰にだってあり――その音が不快だと感じたのなら、その音を放つ人物もまた不快な人物なのだと、手に取るように分かってしまう。人間関係で傷つかずに済むと言えば聞こえはいいが、それはつまり、関係の構築すら最初からしなくなる、どこか消極的な生き方に他ならない。

「そっかぁ、よくわかんないや」

「……ごめんなさい、やっぱり説明するのは難しい」

「ううん――でもそれがあると、世界が違って見えたりするのかな」

 空を見上げるタミの目に映るのは、中庭を取り囲むように聳え立つ建物。

 いや、おそらくそれより向こう側――隔たれた外界の、まだ知らない風景。

 ナルにだって視えない世界を、タミはどこか夢見ているのだ。

「……違って見えることは、確かにある」

「そうなの?」

「自分の感覚を信じることには、困らないから」

 微かな風が吹いて、二人の髪を揺らした。

 少し遅れて、菩提樹が小さく葉先を擦り合わせる音が響く。

 木漏れ日が頁の上に円を作り、一つの文字を眩しく照らした。


「だから――テストの結果より、ずっとタミを理解できる」


 白んだ『愛情』の二文字に、弾むような音が聴こえた気がした。

 例えば箱を開けた時みたいな――喩えるのが難しい――そんな音。

 いつも一瞬だけタミの音かと思うが、しかしまったく種類が違う謎の音。

 一緒にいる時だけ聴こえるこの音を、何の音であるか理解できたことはなかったが――それでも感覚的な嬉しさが、ナルは好きだった。


「……えへへ」

 タミが肩に凭れかかった重さを感じ、しかしナルは何も言わなかった。

 言わなくたって、訊かなくたって、音は聴こえるから。

 すっかり元通りになったタミの音が、彼女の息遣いと一緒に。

 

 才能なんて知らない。開発結果なんてどうでもいい。

 どんな価値があろうとなかろうと、確かなモノはあって。


「ありがと、ナル」

「……うん」

 

 こんなに優しい音の持ち主が、隣でふにゃりと笑っている。

 それだけで――それだけで、ナルにとっては十分だった。


「……そろそろ、行かないと」


 しばらく肩の温度に浸っていたが、ふと思い出したことがあった。

ナルは本を閉じ、タミの頬を突いて起こす。呻き声を上げながら離れた彼女に注意しながら立ち上がり、スカートの裾を叩いて整える。

「どこ行くの?」

「先生のところ。今日の検査、まだしてなかったから」

「そうなんだ。ごめん、手間かけさせちゃって」

 まさか――ナルは肩を竦めて、持っていた本をタミに差し出す。

 手間だと思ったことなんて一度もないのだから、謝られる理由もない。

「すぐに戻るから、待っててくれるかしら」

「うん」


「……さて、と」

 菩提樹の下で大きく手を振るタミに、小さく手を振り返して、医務室を目指す。


 先生、あるいは担当開発者による健康診断は日課。

 施設にいる子供たちの中でも、特に上手くPSY-CODEが定着した成功例であるナルは、謂わばであり、過剰なまでに手厚い保護の対象であった。

 故にほんの一年前までは無菌室から出ることすら叶わず、先生はその時からずっと担当医をしていた。今の肩書きは『担当開発者』に変わったので、先生という呼び名は名残である。


「先生、来ました」

 施設の奥の方、パスがないと入れない区画――全体が仄かに暗い廊下の突き当たりに、存在する医務室の扉を数回ノックする。そういえば医務室とは、便宜上そう呼んでいるだけで、ここが本当は何の部屋なのかは知らない――ふとそう思ったナルを正気に戻すように、パタパタとスリッパが床を打つ音が扉越しに響き、やがてゆっくりと。


「待ってたよ、ナルちゃん――その後の調子はどう?」

 

 開いた扉の向こう、担当開発者――ナナミは笑って出迎えた。

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