Lost Note Cemetery
溝呂木ユキ
Lost Note:01 ■■の話
彼女は優しい音がした。
優しい音――言葉で表すのは難しく、どう表現すればいいのか分からない。
例えば太陽の光が差す朝、網戸を開けた時の音。
例えば人知れず流れる小川のせせらぎに、花弁をそっと浮かばせた時の音。
例えば埃の匂いがする図書室で、分厚い本をゆっくりと閉じた時の音。
沢山の言葉を知って、それでも彼女の音には当てはまらず、仕方がないから私はこう言うのだ――優しい音、と。
†
先日街に出て、お気に入りの本屋――カフェが併設してあって、買った本をすぐに読むことができる落ち着いた場所だ――に寄った時、ふとその音が脳裏で鳴った気がした。慌てて辺りを見渡した私が可笑しかったのか、笑いを堪え切れていなかったシズに訊ねてみると、
「あぁ、そう――そうだな、そうだったかもしれないな」
「でしょう」
「なら捜してやらないとな」
一緒に彼女を探してくれたので、やっぱり彼女はそういう音がしたのだ。
結局、彼女を見つけることはできなかったけれど、私は改めてあの本屋をお気に入りの場所に再設定することにした。私だって暇なわけじゃないから、少し足を運ぶ機会を増やしてみる、というだけだけど。
シズも協力すると言ってくれたし――シズは私ほど察しが良いわけではないけれど、それでも彼女の顔を知っているのはシズだけ――通っているうちにいつか、彼女に出会うことがあるかもしれない。
そういえば庭の竜胆が花を付け始めてきたのを思い出した。
いつだったか、彼女が私のようだと言ってくれた花――野生の物は国中探してもどこにもないというから、仕方なく人工の物を買った――これが存外綺麗に咲くものだ。
竜胆の音も最近は好きになってきて、だからこそ隣に彼女がいてくれたら、私にも花を育てることくらいはできる、と胸を張れたかもしれないのが口惜しい。
言ってもきっと、彼女は笑って終わらせるのだろう。
さて――唐突に彼女の話をしようと思う。
自分なりに頑張って、違う話を模索していたけれど、どんな話のどんな内容ですらも、気がつくと彼女の記憶に繋がってしまっているからだ――こういう回路になることは年に数回あって、そうなると一通り遡らないと気が済まなくなる。遡ったら遡ったで、胸の奥に小さな穴が空いたような感覚に苛まれてしまうけれど。
でも、その痛みは嫌じゃなかった。
それが続く限り、私の中に彼女が残っているという証になるから。
目を閉じて椅子に座り、記憶の頁を一枚一枚、丁寧に捲っていく。
彼女のことを思い出す時は、決まって草原の匂いの香を焚くことにしていた。施設で毎日嗅いでいた匂いに、少し雑味が混じった匂いだが、そっちの方がむしろ集中できる気がするのだ。
ボロボロになった頁を破いてしまわないように。
ゆっくり、ゆっくりと――するとほら。
『ナル』
花と緑と薬がふんわり混じった、あの中庭で。
私の名を呼ぶ彼女の、■■の優しい音が扉を開く。
†
これから話すのは、欠けていて不完全な、彼女についての私の記憶。
酷い欠け方で物語にも満たない、そんな話をあえて物語とするのなら。
なんともつまらない――それでいて滑稽な物語だ。
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