第13話

 季節は秋。雨の多い日々が続いた。

 昨年のこと。束蕗原には、一本の川が流れており、雨が多いとその川が氾濫を起こし、田やその周りの家を飲み込んだ。何年かに一度はそのようなことが起こり、この時期になると束蕗原の住人は備えを怠らない。今年も束蕗原の領主である去も、川の堤防の様子など台風の備えを強化するように言った。

 麻奈見は、昨冬に束蕗原で礼と再会してからは、用もないが何かと束蕗原を訪れていた。冬には湯治に来るが、春や夏は至って元気だった。

 麻奈見が礼に会いに来る理由は、実言である。宮廷で聞こえてくる九鬼谷の戦の戦況を礼に教えてやるのだ。

 夫になる人がいつ自分の元に帰ってくるのか気が気でないと思うが、礼の反応は冷淡なほど静かだった。

 礼にとっては、実言が帰って来るということは、今の生活が終わるということだった。去について、薬草の知識や、怪我、病気の治し方を教わるのが楽しくて、このままここにいたいと思っているのだ。実言のことは忘れたかった。体はもう実言を忘れた。

 でも、麻奈見が来ては実言の話をしていくので、その度に別れた日のことを少しばかり思い出す。

 今日も、礼は束蕗原の屋敷の庭にある大きな木に登って、枝を背に敷いて腕を枕に目を閉じていた。

「やあ、礼」

 下から声を掛けられて、礼は身を起こした。麻奈見が上を見上げていた。

「そのままで構わないよ。ここで、琵琶を引いてもいいかな?」

 礼は何も言わないが、礼が登っている木の根元に麻奈見は腰を下ろして、琵琶を弾きはじめた。

「練習をしないとね。もうすぐ宮廷で秋の行事があるんだ」

 自分に言い聞かせるように麻奈見は言って、本格的に弾き始めた。礼は木の上で、その調べを聞いた。一曲弾き終わると、礼は、木から下りて麻奈見の隣に座った。

「礼は、琵琶はやらないの?」

「私は、楽器はからきしダメで。琴の練習をしたけど、ちっとも上達しなかったわ」

 麻奈見は弦を爪弾きながら言うのだった。

「好きや嫌い。向き不向きがあるからね。君は、音楽よりも去さまの手伝いをするのが合っているのかな?」

 礼は頷いて笑った。

「麻奈見は、子供の頃から、できていたの」

「できるもなにも、やるしかなかったよ。これが私の生きる道だからね」

「立派ね」

「そんなものかな?」

 麻奈見はまた違う曲を弾き始めた。そして、当分思うままに弾き鳴らした。

「夏の疲れが出てね、少しばかり温泉に浸かって行こうと思っている。二三日いるから、またきてもいいかな?」

 礼は頷く。麻奈見に会うのはいいのだが、それはあの人も一緒に連れてくるのが嫌だった。

 翌日、空は曇り、強い風が吹いた。

「これは、台風が来ているね」

 昼間、屋敷の庭に出て、空の様子を見ながら去はつぶやいた。そばにいた礼も、この風の強さに悪い予感を覚えつつ、どうか無事にこの季節が過ぎてくれることを祈った。

 夜になると、風はさらに勢いを増して、びゅうびゅうと音をたてて吹き、それに雨が伴った。雨と風が一体となって、屋根を打ちつけ、戸を叩いて暴れまわった。

去の家で下働きをしている男が、外に様子を見てくるといって出て行ったが、雨粒に身体中を打たれて、痛い痛いと言って、慌てて家の中に戻ってきた。風は容赦なく家の戸を叩き、どこぞの怨霊に訪問されているようだ。誤って戸でも開けてしまったら、それが入って来て暗闇の中に連れ去られるような恐ろしさがあった。

 弟子や侍女たちは一つの部屋に集まって、肩を寄せ合って震えていた。雨と風の勢いは衰えることなく、逆に増していく。家が屋根ごと吹き飛んでいくのではないかと怯えた。

 去も、屋敷が吹き飛んでしまうのではないかとの不安に駆られながら、女領主として気丈にこの台風の状況について報告を聞いていた。

 この邸は川よりだいぶ高い場所に建っているため、何かあれば避難のために人が集まってくる。今も、川の様子を知らせに村の男が二人飛び込んできた。

礼は、去と一緒にその男たちの話を聞いた。

 聞きながら、脳裏には、川の水が増してゆく光景が見えた。蛇行する川の水は大きな獣のようになって、岸を削ってゆく。削れた場所が水の勢いを受けて、耐えきれずに濁流は岸を越えて行く。そこに広がる田畑を、家屋を、人を飲み込んで行く。そんな光景が、見えたのだった。

「去様!川下の村が流されます!助けが必要です。誰が人をやってみんなをここに連れて来て」

 礼はとなりに座る去にそう叫んで訴えた。

 去は困惑した顔をして、ずぶ濡れになっている男たちと顔を見合わせた。

 しかし、そんな困惑は長く続かない。次々にこの高台の邸に集落の住民が集まってきた。去は弟子たちに指示を出して、屋根のある所に住民を避難させ、食料や水を与え、怪我の手当てをした。

 束蕗原を流れる川の川下にある集落の者が、この屋敷に集まっているとの報告が入ってきた。川下では川が氾濫し、家を押し流しているという。水が溢れる前に家をあきらめた者がこの邸を目指して命からがら逃げて来たのだ。

 それを聞いた去は礼の姿を探した。

 礼が、必死に訴えたことが、現実となったのだ。

 逃げたて来た女子供は震えて口がきけない。男たちも体中傷だらけで、何人もが急に溢れ出た濁流に流されていったと話す。流れていく者の手を捕まえたのに耐えきれず話してしまったと話す。

 去はすぐに川の下流の状況を見てくるように邸の下男に指示を出した。蓑をつけて出て行った男は、すぐにそれが意味をなさないことを知った。川は暴れまわる龍のように、好き勝手に流れて、予測をさせず、束蕗原の田畑を飲み込み、水浸しにしてその周りで生活する者たちの生命を脅かした。

 束蕗原は一睡もできず、夜明けを待った。その頃には、雨風の勢いも弱くなり、台風が通り過ぎて行ったことを感じた。夜が明けると去の屋敷を目指す村人たちはどっと増して、去の邸はおおわらわとなった。比較的元気な者と怪我人とを分けて、元気な者は邸の簀子縁や階に座って、身を寄せ合った。炊き出しの握り飯や粥が振るまわれて、それを少しずつ口に入れて咀嚼し、人心地着いている。

 怪我人は庭で選別された。押しつぶされた家から救出された者や、水に流されて流木に突かれながら木につかまって助かった者などさまざまな怪我人が運び込まれた。自力でたどり着く者、戸板に乗せられて運び込まれる者など、去の屋敷は混乱した。その中で、去を先頭に弟子たちは今、己ができる限りのことをしようと懸命に走り回って手当てをした。

 目に見えて怪我を負っている者は庭に敷いた筵の上で治療を始めた。礼も、去の弟子の一人として、怪我人の担当として一人ひとりを見ていた。軽い擦り傷の者は、塗薬を塗って邸に上がるよう指示し、飛んできた枝が顔に当たって血を流している者は診療する館へと連れていかれた。

 陽がだいぶ登った頃に、ぬかるんだ道に馬を走らせて、麻奈見が去の邸まで来た。

 邸前には、後から逃げてきた者たちが、たむろして炊き出しの飯を喰らっていた。麻奈見は去の邸は高台にあるから大丈夫と思っていたが、こうして人々を救助している姿を目の当たりすると分かっていても安心した。

 馬留めに馬を繋いで、治療をしている屋敷の中に入ると、そこは湿気た空気と土と血の混ざり合った不快な臭いが充満していた。あの薬を持ってこい、この血を止めるのを手伝えと、怒号が飛び交う中で懸命の人命救助が行われていた。

 麻奈見は礼を探した。

 左目に眼帯をした小柄な女人を見つけた。黒髪を高く一つのまとめて結い上げた礼は、去の弟子と共に一人の男の治療に当たっていた。その姿は勇ましく頼もしく見えた。

「礼!」

 麻奈見は礼の名を呼び近づいた。自分を呼ぶ声にすぐさま顔を上げた礼が、麻奈見を見つけた。

「麻奈見!こちらへ」

 手を上げた礼の元に導かれるように麻奈見は、礼と去の弟子のところへ行った。

「よく来てくれたわ!人手が足りないの、少しばかり手伝って」

 礼はすぐに麻奈見をしゃがませて、痛がる男の肩を押さえろという。

 礼ともう一人の弟子は腕があらぬ方向に曲がった中年男の腕を正常な位置に戻し、添え木をして、布で手早く巻いて固定する。椀に入った水を飲ませて、筵の上に寝かせると、隣の女へ移る。膝下の足から血が流れている女は、血が流れるところを触られると痛みに背中を反らせて悲鳴を上げた。礼は麻奈見に女を後ろから抱いて暴れないようにしてくれという。言われることを忠実に、麻奈見は女を後ろから抱いて痛みに耐えられず動く体を抑えた。その間、礼は女の足を桶から汲んだ水で洗い流した。裂けた木の尖がりが刺さっており、弟子が太腿を押さえて礼は膝から刺さった木の一部を抜き取った。痛い、痛いとわめく女に、麻奈見は「大丈夫だから!もう少しで終わるよ」と声を掛けた。礼は再度傷口を洗って、塗り薬を塗った。弟子は水を注いだ椀を麻奈見に差し出した。この今手当てした女に飲ませろということらしい。麻奈見は椀を受け取って、女の唇に椀の縁をあてがった。

 女の体をゆっくりと筵の上に横たわらせて、麻奈見は礼達二人の元に行った。礼と弟子は足元に仰向けに寝かされた男を見下ろしていた。顔は青白く、開いた目は開いているだけで何も見ていない。礼も弟子も首を振ってその男の両脇に跪いた。礼が手を伸ばして、開いたままの目を閉じさせた。それで、麻奈見はこの男が死んでいることを知った。

 礼と弟子は隣の怪我人へその隣の怪我人へと移って、治療を続けた。麻奈見は人の体を抱き、肩を貸して運び、椀を口に持って行って飲ませてやる。その行動を繰り返し繰り返し、指示を受けて、自分から自発的に行動した。

 救助は絶え間なく続き、陽は西に沈みかけた。

 麻奈見は立ち上がって背筋を伸ばしているところに、肩を叩かれて振り返ると、汗と泥にまみれた礼が自分を見上げていた。

「麻奈見。ごくろうさま。こちらに来て休んで」

 礼は去たちの寝起きしている私的な邸の方へと歩いて行く。

 皆、総出で怪我人たちや逃げて来た住人たちを手当てしているから、そこは静かだった。

「温かいものを食べて、休んで」

 麻奈見は礼について庭から階を上がって、礼が用意してくれていた温かい粥をすくって食べた。

「あなたが来てくれたことをいいことにこき使ってしまったわね」

 麻奈見は匙を口に運ぶ手を止めて言った。

「そうだよ、こんなふうに君たちの手伝いをするとは思わなかったよ」

 と不平を言った。

「ごめんなさい。でも、人手が足りなくて困っていたのよ。来てくれて嬉しい。麻奈見は私が困っている時に現れてくれるのね。本当に、感謝します」

 と言った。

「温泉地は無事だったかしら。被害は出ていない?」

「大丈夫だよ。あそこは川から離れているからね。確かに強い風で戸が飛ばされたりしていたけど大きな被害はない」

「よかったわ」

「君はどうだい?夜から、ここは大変だったのではないの?」

「そうね、水が溢れて家を流された人や、怪我をした人たちが集まってきたわ。去様はとても偉大な人。すぐに何をするべきか指示を出し、できることをできるだけする。多くの人の命が助かったと思うわ。怪我人の手当てもおおかたすんだわ」

「……君がきびきびと手当てをしている姿に驚いたよ。都ではとてもこんなことはしていないだろうに」

「そうね……思ってもみなかったことだわ。ここに来て、去様の元で学べたから、こんなことができるようになった」

「……実言のお陰かな」

 麻奈見は実言がここに礼を連れて来たと聞いていたのでそう言ったのだが、礼は左側を向いて急に顔を曇らせた。

「……そうね……」

 小さな声で相槌を打って礼は、前を向いた。

「私は行くわ。麻奈見はここでばかり休んで。もう陽も暮れてしまうから、気を付けて帰ってね」

 礼は言って立ち上がると、一つにまとめて高く結い上げていた髪がほどけて落ちでしまった。留めていた櫛が音をたてて階を下へ転がった。

 麻奈見は落ちた櫛を拾って礼に近づいた。

「手伝うよ」

 礼の後ろに回って、礼がかき上げてまとめた髪を紐でまとめる。白いうなじが汗と泥にまみれた顔とは対照的に白くてきれいだった。麻奈見が櫛を差すと礼の髪はまとまった。

「留まったわ。ありがとう。また、会いましょうね」

 そう言って、礼は美しい笑い顔を見せて駆けて行った。

 麻奈見はその顔が印象に残った。そして、簀子縁に寝っ転がっていたら、うとうとと寝てしまった。そして、礼の夢を見た。

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