第14話

 台風被害に見舞われた束蕗原は、女領主、去の指示の元、怪我人の回復、病気の水に浸かった土地に流行る病気の駆除などの対策を講じた。稲が実る時期と重なったために、住人たちは肩を落としたが、皆で励まし合って助かったものを刈り取り蓄えとした。去も貯めている食料を分けて住人の生活再建を手伝った。

 礼は去の聡明さ、強さ、優しさに感服するのだった。このような人になれたいいのに。人を助け、励まし、褒めて、称え合うのは、気持ちがすっきりと明かるなって、礼は感動するのだった。

 冬支度と共に束蕗原の人々は助け合いたくましく自分の生活を取り戻して行った。

 季節は秋から冬へと変わる頃、麻奈見は束蕗原を訪れた。

 秋の行事が終わり、少し休める時間ができたので、束蕗原の温泉地に行くことにしたのだった。それに、あの水害の日以来礼には会えていなかった。

 麻奈見は翌日都に帰ったが、都も風の被害が出ていて、都人の生活が落ち着くのも少し時間がかかった。

 去の邸に来ても礼をすぐには見つけられなかった。すれ違う人に尋ねて周ってやっと礼が庭の樹にいることが分かった。静かに近寄って行って、声を掛けた。

「やあ」

 下から急に声をかけられて、礼は驚いた。声の方を見ると、麻奈見が笑って立っていた。

 慌てて樹から下りて礼は麻奈見と共に木の根元に座った。

「元気だったかい?会うのはあの時以来だ」

「ええ、元気よ。みんなで協力して束蕗原を立て直しているわ」

「私は、少し休みが取れたのでしばらく温泉地にでも行こうかと思ってね」

 麻奈見は懐から笛を取り出した。礼は聴きたいと言って、麻奈見は笛を吹き始めた。礼は隣でその調べを聞きながら、ここ数日の疲れから幹に寄りかかって眠ってしまった。麻奈見は気持ちの赴くまま曲を奏でていたが、礼の頭が肩に当たった時に、我に返って吹くのを止めた。

 礼は深く眠ってしまって、幹に預けていた体が傾き、麻奈見の肩に頭を預けてしまったのだ。麻奈見はそおっと肩にもたれかかる礼の様子を窺った。起きる気配のない礼を見て、笛を置いて、そっと肩を後ろに動かして、礼の頭が自分の膝に落ちてくるようにした。あっけなく、礼は仰向けに麻奈見の膝の上に落ちてきた。

 なんと無防備なのだろう。

 麻奈見の膝に落ちた礼を、麻奈見は左手で頭を支えて、右手で体を支えた。 

 礼は、頭が落ちていくその感覚で、目を覚ました。ストンと落ちたところで、目を開けたら、真上に麻奈見の顔が見えた。

 驚いて、礼はすぐに体を起こそうとしたが、麻奈見に肩を抑えつけられて動きを止められた。麻奈見が危害を加えるとは思っていないが、礼は、怖くなって体を硬くした。

二人はしばらく見合った。やがて。

「左目を見せて」

 麻奈見から言われた言葉は意外なものだった。麻奈見は言うと同時に、左手を礼の左目を覆う眼帯に手を伸ばした。

「だめっ!」

 礼は、麻奈見の左手もろとも自分の両手で押さえて、左目を覆った。二人とも黙って見つめあっていると、麻奈見が言うのだった。

「あの男にしか見せないの?」

 礼は体の中を何かに貫かれたように感じた。あの男にしか見せないの?との言葉が頭の中を繰り返し回る。

「醜い傷だから」

 眼帯をとられないように強く、麻奈見の手を押さえて。

「誰にも見せたくない」

 礼の心の中はあの男の言葉が反響した。この傷に触れられるのは私だけだ、と言った。あの男とは、実言だ。そして、傷に優しく触れる感触。実言の唇。

 麻奈見は、体を屈めて自分の左手の上に重なる礼の手の甲に口づけた。

 実言が自分以外の誰かとどうなろうと構わないと思っていた。むしろ、自分以外の誰かを思っているといって欲しかった。そうであれば、朔は、きっと納得するはずだ。左目の代償のためだけに実言は礼を選んだのだと。礼への愛情はこれっぽっちもないのだと。だけど、礼が誰かと通じて実言を裏切るなんてことは想像していなかった。こんなふうに実言以外の男の膝の上に仰向けになって、左目の傷をみせるなんて。

「礼。ごめん。君の嫌がることはしないよ」

 麻奈見は礼の左目から手を離そうとした。礼の重ねた手が力を緩めたところで、ゆっくりと手を引いて抜き、礼の肩に置いた。

 麻奈見は心の中で呟く。

 礼、君は左目がないことで美醜を気にしているけど、そんなことは関係ないことだよ。君は今のままでも美しい。君を知りたいと私の心は揺さぶられるんだ。

 麻奈見は、礼の体を起こすと、温泉地に帰ると行って立ち上がった。

 正月を迎えた。雪の多い年で、束蕗原は一面銀世界となった。

 新しい年を迎えるのに、去は鬱々と礼の身の上を案じて独り言のように言う。食事の時に。

「誰がこんなに待たされると思ったでしょうね」

 ここにはいない実言のことを言っている。

「去様、私は気にしていませんよ。去様のところで勉強ができるし、不自由していません」

「礼。あなたの十七、十八の年が終わっていったのです。今年で十九。こんなに長くなるのなら、なぜ婚儀をしてくださらなかったのかしらね」

 礼の不安定な身の上のことを思っての去の言葉だが、礼は適当にやり過ごした。

実言がこの束蕗原を去って行くとき、体に着けられた実言の痕跡は、この二年で消えていったはずなのに、秋の終わりに麻奈見から、左目を見せてと言われて、再び実言を強く思い出してしまった。実言の声、左目に触れる唇の感触。そう思ったら、束蕗原の最後の夜のことを思い出して、体がおかしくなってしまいそうだ。

 正月は寒くて、礼は兄の瀬矢の形見の上着を着て過ごし、部屋の火鉢に手をかざして暖を取っていた。そう言えば、実言との別れのときに不思議なことを言っていた。

「瀬矢様に守ってもらうのだ。私もお願いするよ」と。まるで、兄の瀬矢を知っているような言葉だった。兄の上着の襟元に手をかけると、あの日が思い出される。別れの時、実言の手を握って離さなかったこと。もう二年近くも前のことになるのに、ついこの間のことのように脳裏に現れる。

 正月のお祝いも終わって、行事も落ち着いたときに、麻奈見が訪ねてきた。前日に雪が降って少し積もったが、今日は朝から日が出てその雪を溶かしている。

「君に伝えたいことがあって」

 礼を連れ出した麻奈見はそのような切り出しで話し始めた。去の屋敷から庭に向かって二人並んで歩きながら、麻奈見が言った。

「そういえば」

 麻奈見は急に違う話を切り出した。

「朔」

 その名前を聞いて、礼は立ち止まった。

「椎葉家の、嫡男の奥方」

 麻奈見は回りくどい言い方をした。

「第二子を出産されたよ」

 朔のことは全く知らなかった。二人も子供をもうけているとは知らなかった。

 朔は、着実に自分の役割を果たしているのだろう。礼は思うのだった。私の心は実言を受け入れないから、体は子を宿すことはないはずだと。

「喜ばしいことね」

「朔と君が一緒にいたことを思い出してね。朔は君の姉のような人だよね」

 朔とは絶縁状態だから、朔の身にどんな喜ばしいことが起こっても、なにもできない。礼が矢を受けなければ、朔は実言と結婚し、仲の良い従姉妹として、いや本当の姉妹のようにお互いの慶事を祝っていたことだろう。

「本題だけど」

 もったいぶったように、言葉を止めて、しかし、歩みは止めず庭の先へと進む。礼も麻奈見に付いて行くしかなかった。

「九鬼谷の戦が終わったよ」

「えっ」

「大王は鰐輪に勝利した。九鬼谷の戦が終わったんだ。まだ、正式に発表はされていなが、宮廷内はそのことで持ちきりだ。実言の武功も聞こえてきてるよ。兵士たちはすでに、九鬼谷から都に向かっているはずだ。実言が帰ってくるよ」

 そう聞いたら、喜びがにじみ出てくるはずだが、礼には、現実とは思えなかった。実言のいない、束蕗原での生活がずっと続けばいいと思っていた。しかし、二年の歳月をかけて鰐輪の制圧を成し遂げて、実言が帰ってくる。

「礼。よかったね」

 麻奈見の言葉に、礼は全く感情がついてこなかった。

「もう少ししたら、正式に発表されるはずだよ」

 それを言ったら、麻奈見は温泉地に帰って行った。

 間もなく、九鬼谷の戦の勝利は都を駆け巡って、この束蕗原にも聞こえてきた。去はとうとう終わったかと喜び勇んで、いつ実言が帰ってくるか尋ねるために、岩城家に使いを立てようとした。礼はそれを必死にとめた。岩城家からなにか言ってくるまで待ちたかった。

 二月の初めに岩城家から遣いが来て、実言の帰還が伝えらえた。しかし、帰ってきてからも宮廷での報告や、行事への参加、雑務があるために、礼はここ束蕗原で待つようと言われた。いずれ、実言が迎えに来るとのことだった。いつ現れるかわからない実言に礼は怯えながら過ごした。約二年の隔たりに、どのような顔をしてあったらいいのかわからない。

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