第12話

 麻奈見は礼に会いに来ると言ったが、それは形だけの言葉となっていた。

 子供の頃から寒くなると麻奈見は咳が出て寝込む。そのため、少年の頃から冬には束蕗原に療養に来ていた。今では一人で来るようになったが。

 今回、また礼に会いに行こうと思った時に、都とさほど遠くない束蕗原なので、一度呼び戻されて宮廷の仕事をして、再び、束蕗原へ療養に来ることができた。温泉地に行く前にいつもの薬薬をもらおうと、夕方、去の邸を訪ねた。できたら、礼に会いたいとも思っていた。

 麻奈見は去の邸の敷地に入ると、邸の方でざわざわと騒いでいる。

 どうしたことかと、麻奈見は急いで馬留めに馬をつなぐと、邸の前の騒ぎの中に入って行くと、邸の中から飛び出してきた小柄な女人が大きな声を出した。それは礼だった。

「馬の用意をして!」

 礼が誰かに指示をしている。

「礼、お前が今から行くのは無理です!」

 次に去の声がして、去が庭に出て来た。二人が言い争っている。そしてその様子を弟子や侍女たちが取り囲んでいる見ている。 

「こうして待っていられません。私、行ってきます。去様は、産婆と一緒にあの子についていて」

 馬はまだか、と礼が大きな声で男勝りな言葉を言って、前を向いたところに、人をかき分けて輪の最前列に進み出た麻奈見と目が合った。

「麻奈見!」

「何が起こっているの?」

 礼は、立ち止まらずに人をかき分けて厩舎に向かって走っていく。麻奈見も後を追った。

「村の娘が産気づいたのだけど、難産で。今のままでは母も子も危ないの。だから私は今から医者を呼びにいくの!」

「なぜ、君が!」

「今日は、男が都まで行っていて誰もいない。馬に乗れるのは私くらいだからよ!」

 厩では腰の曲がった老爺が馬を引き出して、鞍を乗せようとしているところだった。礼が駆け寄って老爺を手伝う。麻奈見も手を貸し、馬の支度が出来た。

「私も一緒に行こう」

 麻奈見は言った。

「先ほどの会話では君一人で行くのを、去様が止めていた。それでも君は振り切っていくようだ。確かに、夕暮れ時に女人一人は危ない。一人より二人の方がいいはずだ」

 礼は、麻奈見の申し出に頷いた。

「お願いします」

 麻奈見は走って、馬留めに向かった。邸前の庭には去や侍女たちが集まって礼と麻奈見の様子を見守っている。

 麻奈見が去に声を掛けた。

「去様。私が、礼と共に行ってまいります」

「麻奈見殿!」

 馬留めから連れて来た馬に飛び乗った。同じく、礼が裏にある厩舎から馬に乗って現れた。

「去様。行ってまいります」

 小さな体の礼が馬を乗りこなしている姿を見ると、去はもう何も言えなくなった。

「どうか、気をつけて。麻奈見殿、礼を頼みます」

 去たちは不安そうな顔色で、礼と麻奈見を見送ったのだった。

 二頭の馬は並走した。

「少し遠いので、帰りは陽が暮れてしまう。だから、私一人で医者を連れてくるのを去様は心配されていたの。麻奈見が来てくれるのは助かったわ」

 馬の駆ける音に負けないように怒鳴るような大きな声で礼は言って、後は自分の後はついて来いと、馬の足を速めて麻奈見の前に出た。

 片目の女人は、上手に馬の手綱をとって、後ろの麻奈見を気遣いながら薄暗くなる山道を駆けて行く。

 日が暮れる前に礼たちは医者の家に着いた。束蕗原の領地から少し外れた山の中にその医者は、一人庵を立てて住んでいた。

「蕾和(らいわ)様!」

 礼は馬からを降りると、すぐさま医者の庵に飛び込んだ。事情を話して、必要なものを袋に詰めて背に担がせると、礼は医者の腕を持って引っ立てるように庵から連れだした。

 齢五十を過ぎた男が、礼に手を引かれて出てきた。馬に乗ったままの麻奈見が、蕾和医師の手をとって、自分の後ろに乗せた。

「麻奈見。道を覚えている?」

「覚えているよ」

「一刻も早く去様のところに帰って。私も後を追うから」

 麻奈見は馬を来た道に回しながら、礼の言葉を聞いた。

「わかった!」

 麻奈見は大きく頷くと、馬の腹を蹴って走らせた。

 陽は西の山に沈んだ。残照までもなくなったら、片目の女は視界をより失って、無事に帰ってこれるのだろうか。そんなことが頭をよぎったが、今は礼の言葉、去のところに帰る、に忠実になろうとした。

 運良く、今夜は月が出ている。

 麻奈見は、家柄から弦楽器、打楽器の弾き方から舞の動き全てを一族から耳や目、体全体に叩き込まれてきた。記憶するということは子供の頃から、訓練されてきたことだから、礼と来た道をたどるのは容易だった。馬には無理をさせたが、何とか去の邸まで帰ってきた。馬の蹄の音を聞いて、去の弟子たちが邸の前に飛び出してきた。蕾和医師を馬から降ろして、引き渡す。弟子たちに導かれながら、蕾和医師は邸の中に入って行くのを麻奈見は見送った。

 無理をさせた馬を馬留めに繋いで、水をたっぷりと与えながら背を撫でた。侍女が邸の中に案内してくれて、入口のすぐ横の部屋でくつろいでいると別の侍女が水の入った椀を盆に載せて麻奈見に持って来てくれたところで、邸の前の庭が騒がしくなった。

「麻奈見は帰っている?」

 礼の声だった。すでに、到着していることを聞くと、礼は安堵の声をあげた。それから、老爺に馬の手綱を預けている会話が聞こえた。

 邸に飛び込んできた礼は、麻奈見を見るとその前に飛んできた。大きな右目をより大きくして麻奈見を見つめた。そして、何か言い出そうと口を開きかけたと同時に、奥で赤子の泣く声が上がった。大きな、力強い泣き声である。

 一旦泣き声の方を向いた二人は再び目を見合わせた。

「行っておいで」

 麻奈見が言うと、礼は頷いた。

「今度、温泉地に私から麻奈見を訪ねるから。改めて、お礼を言わせて」

 礼はそう言うと、急いで奥の部屋へと向かった。麻奈見は盆の上の椀を取り上げて乾いた喉を潤して、落ち着くと、逗留する温泉地の館へと向かった。

 二日後、麻奈見は宿の者から、外に客人が来ていることを伝えられた。のんびりとくつろいでいたところだった。玄関に行ってみると、案の定、礼が人目につかない場所に立って待っていた。

「礼」

 麻奈見が声をかけると、礼は俯いていた顔をあげた。麻奈見が礼に近づくと、礼は右顔を見せるように首を傾げて、言葉を発した。

「この間はありがとう。あの母子はともに助かったわ」

 礼は続けて小さな声で言った。

「あの時、蕾和医師を一人で迎えに行くの、本当は不安だったの。麻奈見が、一緒に来てくれて心強かったわ。感謝しています」

 そして、礼は袋を差し出した。

「これ、いつもの薬よ」

 麻奈見は袋を受け取った。

「この前館に来たのは、この薬を取りに来たのでしょう」

 礼は早口にそう言って、そうそうに立ち去ろうとした。

「待って」

 とっさに礼の腕を掴んでいた。

「急ぎの用事でもあるの」

「いいえ」

「では、もう少し話をしてはいけないかい」

「あなたに迷惑がかかるわ」

 そう言って、左顔を壁に向けた。

「私が少し君と話しをしたいのだよ」

 礼の思いは、麻奈見が左目に眼帯をした女と会っていることを皆に知られることを恥じているようだ。麻奈見の方としては、この温泉地には都から湯治に来る身分の高い人もいるから、礼を岩城実言の婚約者と知る者がいて、その人が親し気に話をしている男女を見て、変な勘ぐりをされると困るな、と思ったのだが。

「迷惑をかけるのは、私のほうだよ。君は岩城家の妻なんだから」

 広い庭に向かって歩きながら、麻奈見がそう言うと礼は顔を上げた。

「私の左目に好奇の目を向けられて、あなたにいらぬ噂が立つかもしれない」

「いや、そんなことはない。私はしがない音楽家一門の倅さ」

 麻奈見と礼は、庭の樹の下にある椅子に座った。そこで、麻奈見は先日の母子の出産の後のことを聞いた。

「礼、君はいつ馬に乗るのを習ったの?」

 麻奈見は礼の後ろを追いながら、馬の扱い慣れた姿に感嘆したのだった。帰りも夜道を右目だけで分視野が狭いのに、遅れをとることなく帰ってきた礼に驚いていた。

「馬は子供の頃から乗っていたのよ。兄に教えてもらったの。こちらに来て、また乗り始めたの」

 麻奈見は久しぶりに会った礼に興味を持っていることを自覚した。子供の頃はおっとりした子だったが、兄の後ろをついて男の子たちと遊ぶような男勝りな子でもあった。今こうしてみると、姿は黒髪の美しい、右目の印象的な女性であるが、向こう見ずな男っぽい面が麻奈見には好ましく、惹かれている気がした。

 礼は実に楽しそうに馬に乗り、山で薬草を取り、人を担いで手当てをしている。

実言は知っているのかな、礼のこんな姿を……。

 麻奈見は今の都の状況や、九鬼谷の戦のことを礼に聞かせた。礼は黙って聞いているが、興味はなさそうだった。

 それは、麻奈見に礼の実言への気持ちを垣間見せる。礼はこの結婚を良く思っていないの……?

 二人はあれこれと話をして、最後にもう一度礼は麻奈見にお礼を言うと、馬に乗って束蕗原に帰っていた。

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