第11話

 朝が来ても、礼は褥の上に仰向けに寝て、両手で顔を覆ったままだった。それは、一夜で礼の身体のいたるところに実言がつけていった印が疼いて、起き上がれないからだった。背中にも胸にも、ねっとりと礼を覆い尽くす実言の跡が、下着の上からこすっても、部屋の隅の盥の中に浸けた布を絞って拭いても、まとわりついてきて拭いきれない。しまいには諦めるしかなかった。

 体の内側に打ちつけられた、実言の跡とともに、始まるのだ。束蕗原の生活が、今日から。

 いつもより遅く起きても、侍女の縫は何も言わなかった。朝の御膳をいただいていると、去がやってきてこういうのだ。

「礼。お前は今日一日、部屋で休んでおいで」

 実言との別れを不憫に思ってか、そのようなことを言った。

「いいえ。学びます」

 礼はすぐに身支度をして、去の講義に参加した。

 これからは、一日でも早く去から医術や薬草の知識を吸収して、人々の役立ちたいと思った。

 礼は、いつも通りの生活をして、夜に部屋に戻った。自分の身の回りの支度をしてくれる縫が部屋を出て行く前に、礼に話しかけて来た。

「礼様。実言様とは心置きなくお別れできましたの」

 礼は褥の上に寝そべろうとしていた時に、そんなことを言われて、途中で止めて、その場に座った。

「先ほどの着替えの時、見えましたのよ。跡が。たいそう熱烈ですわね」

 偶然、目にしたのだと弁解しながら縫が言った。

 確かに、昨日の今日なので、鎖骨から胸に向かって、背中にも実言の唇の跡が残っているのを礼もわかっている。

「礼様は、もう少し実言様のお気持ちを素直に受け取るべきですわ。あの方の優しさは、真皿尾の邸では女人は陰で色めき立っていたものです。皆、夢中になっていたものですわ。それを、礼さまはいつもプイッと横を向かれて。そんなことでは、いくら実言様が素晴らし方と言っても、いつか愛想を尽かされますよ」

「しかし、実言は」

「朔様のことは、諦めなさいませ。今から、礼様と実言様が別れても、朔様は実言様と一緒にはなれないのです。朔様はもうすでに椎葉家の嫡男の妻ですよ。あなた様の昔のように戻りたいという思いはもうお捨てなさいませ。もう、朔様とは姉妹のように仲のよかったお二人には戻れないのです」

 朔とは礼を見舞いに来た以来、それっきりである。

「もう叶わないものを思い続けていてもしょうがないですわ。実言様は、礼様をどこまでも守ってくださる方。それも、色男です。その男性に礼様は、今、愛されているのです」

「……そうかしら?……」

「まあ、疑問に思われますの?私には、実言様は礼様をとても大事にされていると思いますわ。礼様は実言様を信じて、その気持ちに応えればいいだけなのです」

 いきなり縫は熱弁を振るい、礼は面食らった。

「わがままに生きなくてはなりませんわ。礼様がどんなに遠慮して小さくなっていても、誰も得はしません。少なくとも、あなたさまは実言様に応えなくてはいけませんわ。よくお考えなさいませ」

 縫はそう言い置いて部屋を出て行った。小言など言わない縫が、長々と説教めいた話をするのは意外で、礼の体の中にその言葉は残った。


 実言が九鬼谷の戦いに行って、もうすぐ一年が経とうとしていた。

 梅の季節が終わる頃、礼は霜の立つ日でも外に出て薬草を摘み、冷たい水に手をつけてそれを洗う作業をしていた。しかし、それは先生の立場である去をはじめ、学びの長い者も短い者も同じであった。礼も荒れた手をさすり口元で息を吹きかけながら毎日、勉強と実践のための作業に勤しんでいた。礼にはこれが、意外にも楽しいもので、苦にならずに毎日頭と体を動かしていた。

 独身でこの領地を治める去には悲しい過去がある。

 決まっていた許婚が流行病で亡くなってしまい、失意のどん底にいた。親が決めた結婚であったが、それは真の愛になり、亡くなった許婚を忘れられなかったのだ。親が男を忘れさせるためにこの束蕗原へ連れて来たが、去はこの地の薬師に出会い、勉強して人を病から救う知恵に感動し、医術の道に入ったのだった。

 去の崇高な思いとは違うが、もし、実言が帰ってこなければ、礼もこの地で去と同じような人生を歩みたいと思った。どこにも行くところの無くなった自分が存在できるのは、ここだと思うのだった。


 束蕗原には温泉があり、都からそう遠くないこともあり湯治に訪れるものも少なくない。去が中心となって薬草などの処方とをして、湯治との相乗効果で病気が癒えると都で評判になり、この地を訪れる館の都人が増えていた。

 礼は、薬を治めた離れの前に出て、干した薬草の状態を見ていた。そこへ馬に乗って男が現れた。馬から下りて、馬留に手綱を括っているから、薬の館の中に入ろうとするところを館の前にいる女を見て立ち止まった。礼も、客人に顔を向けたところだった。

「礼?」

 相手は、礼の名前を半信半疑の声音で呼んだ。その男の面影をたどって、そうだろうと思う人の名を呼んだ。

「……麻奈見?」

「うん、当たり!」

 礼は、その男に近づいた。

 子供の頃、兄やその友人の男の子たちに混ざって遊んだその中に麻奈見もいた。礼より一つ年上だった。麻奈見の家は代々宮廷の楽団を取り仕切っている音原家という家で麻奈見はその家の嫡男だった。位は低いものの、宮廷の行事の音楽一切はこの家が発する音が鳴らなければ始まらないと言われるほどの実力者である。そのため、一目置かれ特別な家であった。

 その一族の一員である麻奈見がなぜこの束蕗原にいるのだろうか?

「覚えてくれていたの」

 麻奈見は嬉しそうに笑顔で礼の正面に立った。礼は頷いた。

「麻奈見も私を覚えていてくれたの」

 麻奈見は子供の時に、男ばかりの遊び友達の中で唯一の女の子だった礼をよく覚えていたのだった。そして。

「君は、目が」

 と言いかけて、麻奈見は言うのをやめた。

 左目にかけた眼帯が、容易に礼だと気づかせたと言いたかったのだろう。岩城の三兄弟の身代わりに矢を受けて、左目を失った娘は一時都の噂になった。宮中の楽団の一員である麻奈見も、宮中生活で聞こえていたはずだ。

「麻奈見は、なぜ、束蕗原に?」

「少し体調を崩して、療養に来ているのだ。今日はこちらに煎じ薬を受け取りに来たのだ」

 温泉の近くに宿泊できる邸があり、都から逗留している者が多くいる。麻奈見もその一人ということのようだ。

「今は、宮中も行事がなく、私たちも休みが取れてね。ところで、君はどうしてここに?実言は?」

 麻奈見は疑問を次々と口にした。

「ああ、実言は九鬼谷に行っているね。もう、随分経つけど。君は、ここで実言を待っているの?」

 実言は、ここで待っていて欲しいと、言ったが、礼は待つと明確な思いを持ってはいない。麻奈見の質問にうなずくこともできず、黙っている。

「結婚したの?」

 礼は首を横に振る。

「そうなの?……ああ、ここは、去様……須和家の領地だった!君は須和家の血を引く娘だ。それで、ここにいるの?実言はそれを許しているのかな?」

「……実言に、ここにいろと言われて……」

「そう。君たち、結婚はまだなの?」

 礼は小さく頷いた。

「君は、ここで何を?」

「去さまのお手伝いをしているのよ。見習いみたいなもの」

「へ〜。実言は許しているの?」

 礼は頷いた。

「そう。実言らしいね」

「……麻奈見は実言とは仲がいいの?」

「子供の頃は、身分を感じずに無邪気に遊べたものだよね。実言とは子供の頃に一緒に遊んでいた仲なんだよ。宮廷に出るようになってからも、実言は、分け隔てない人だから、私への態度は変わらなくてね。大人になっても子供の頃と変わらず私と仲良くしてくれている。大っぴらに友人と呼ぶわけにはいかないけれど、私は秘かに友人と思っている」

 岩城一族の中にいる実言が麻奈見とも親交があるとは意外で、礼は新鮮な気持ちで聞いていた。

「九鬼谷の戦いは膠着しているよ。負けはしないけど、大勝ちもしない。そんなことで一年もたってしまったね。実言も、一年も君を放っておいて、ひどいやつだね。しかし、今宮邸では、いろいろと作戦を立てているところだからね。勝利するのももう間近と思うよ。実言が帰ってくるものもうすぐだ」

 実言の消息は、岩城家のものが時々やってきて、教えてくれる。礼よりも縫のもほうが熱心に聞いている。使いは礼に実言が怪我や病気もせず息災であることを伝えて、その後実言にきつく言われているのか、礼の身の回りを気にしてくれている。生活に何の不自由はない、と縫が答えると、満足そうに帰っていくのだった。

「音原の、麻奈見殿」

 ちょうど去が薬の館から出てきた。

「去様。いつものものをいただけるでしょうか」

「はい、かしこまりました。礼、手伝ってちょうだい」

 礼は去に言われて、館の中に入って薬箱の抽斗の前で去の指示に従って、言われた薬草を用意した。用意できたものを袋に入れ、外で待っていた麻奈見に手渡した。

「ありがとう」

 礼は、袋を渡すのと交換に麻奈見からお金の入った小さな袋を受け取った。

「礼。私は当分、ここの温泉地に逗留するつもりなんだ。また、君に会いに来てもいいかな?」

 礼は頷いた。

「もちろんよ」

「君の仕事の邪魔はしないからね。では、また」

 麻奈見は馬に飛び乗ると、少し離れた温泉地に駆けて行って。

 束蕗原の温泉地に来るのは年配のものが多く、麻奈見と同年の者はないといって良い。麻奈見も話し相手がいなくて寂しいのかもしれない。

 実言が九鬼谷の戦に行く前に礼に会いに束蕗原来た夜、礼の体に刻むようにつけた実言の跡は、この一年で消えたと思っていた。礼は、実言の支配が薄らいだことを感じていたのに、麻奈見に実言、実言と言われてその痕跡が浮き出てきそうで体が痒く感じて、辟易した。


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