第10話
実言の訪れは突然、礼に告げられた。実言の従者が先に実言の訪れを知らせに来たのを応対した縫は、束蕗原の侍女に後のことはお願いして、慌てて礼のところに駆け込んできた。
礼は薬を作る棟の中で薬草を干す作業を手伝っていたところだった。
実言の南方への出発はまだ先のはずだが、急な用事でもあっただろうか。
「わかった」
礼は答えた。外で作業して汚れた服を着替える時間が必要なため、縫も慌てているのだった。
「すぐに行くから、縫は部屋で着替えの用意をしておいて」
縫は頷いて急いで離れの礼の部屋に戻って行った。縫の後ろ姿を見送って、礼は途中になっている薬草をカゴの上に広げる作業の続きをした。今から実言に会うと思ったら、体が固くなって動かない。どんな顔で会ったらいいのだろう。親愛の情もない相手にどのような態度で接したらいいのかわからない。
実言は礼が束蕗原に来た数日後に一度訪れた。昼間の短い時間に、礼のこちらでの暮らしに不自由がないかを確認した。そして、その後は忙しいのか、訪ねるとの連絡はなかったのだが。
縫とは別の侍女が、切羽詰まったような声音で礼の名前を呼びながら棟の中へ入ってきた。礼ははっとして、手を止めた。実言に会いたくない気持ちが部屋に戻ることを躊躇させて、時間が経ってしまった。侍女の様子では、もう実言が礼の部屋に来たのかもしれない。礼は慌てて、薬草をそこに置いて棟を飛び出し、母屋に向かう渡り廊下に走った。
礼は廊下を走り始めてすぐに、立ち止まった。向こうから実言が歩いてくる姿が見えたからだった。実言の後ろには、青い顔の縫が立っていた。実言を引き止められなかったことを申し訳なさそうに頭を下げる。
礼は近づいて来る実言にどんな顔を見せていいかわからず、思わず左側を向いて横顔を見せた。
「礼」
実言に叱られると思った。実言は立場なくそこに立ちつくす礼の前に立つと、礼の手を取った。
「汚れてるから、だめ」
礼は手を引いて、体の後ろに隠そうとしたが、いつものように実言は礼の手を離さない。礼の両手を握ると、自分の顔まで持ち上げて、鼻腔に礼の手の匂いを吸い込んだ。
「薬草の匂いだな」
礼の手から顔を上げて言う。
「礼。急だが、戦の準備も整って、近いうちに出発することになった。お前に会いに来られるのが今日しかなくて、急遽こうして来てしまったよ。縫は、部屋で待っていろと言ったが、わたしはせっかちな質で待てなくてね。ここまでお前を探しに来てしまった。縫を叱らないでおくれ」
礼は部屋に入ってから、実言に着替えてくるから待って欲しいと言って、別の部屋で縫に手伝われながら着替えをした。梔子色の袍に萌黄色の背子、緋色の裳を着けて改めて部屋に現れた。実言から少し離れた場所に座った。
「礼、こっちにおいで」
礼は、体一つ分にじり寄って、実言に右顔を見せて座った。
「そこは、まだ遠い。もっと側に寄って」
膝を少し動かしてほんの少し近寄って座りなおしたら、実言からも近寄って礼の正面に座った。
「去様に聞いたよ。去様のお弟子たちとともに、去様を手伝っていると。去様はお前の体に負担をかけるような畑仕事をさせるのを気にされていた。礼に手伝いをさせていいのかと訊かれたけど」
礼は先ほども薬草の匂いを纏っているのを、何をしているのかと実言に叱られるのではないかと思ったところだった。実言が今までに礼に向かって声を荒げることはないが、薬草作りの下働きなどするなと言われてしまうのではないかと身を硬くして実言の言葉を待った。ここで、実言に叱られたとしても、素直に従う振りをしておこうと思った。明日ここを立って、この男は、戦に行ってしまうのだから。
「礼がやりたいというなら、やらせてやって欲しいとお伝えしたよ。去様の仕事は大切なことだと思っている。だから、礼がやりたいというなら、私も賛成だ。お前は好奇心の強い、活発な娘だからきっと、去様の所で様々なことに興味を持って退屈することなく過ごしてくれると思ったんだ。私はいつ帰るとも約束できないから、私を待っている間のお前が心配なんだ」
実言はあっさりと礼の好きにしたらいいと言ってくれた。礼の気質をわかっているような口ぶりで。
夕餉は去を囲んで、楽しく取った。去は、戦のことをいろいろと尋ねていたが、実言は詳しいことは言わない。去は、実言が戦からいつ帰ってくるのかわからないことで娘盛りの礼を長く待たせるのではないかと不憫がった。実言は去の言うことにただ頭を下げて詫びるだけだった。
礼の部屋に戻って、縫も早々に部屋から下がっていった。改めて、礼は部屋に実言と二人っきりになった。
「礼……」
二人切りになると、実言は言葉もなく礼を腕の中に引き入れた。おとなしく実言の肩に頭を置いている礼に、実言は礼の名を囁いた。礼が顔を上げると、実言がのぞき込んできて、実言と目が合った。
礼は実言が戦に行くことが急に怖くなった。でも、それは実言の身を案じてではなく、自分の身の寄る辺なさにだった。もう、真皿尾ではなく、自分が支えられているのは、岩城一族、いやこの実言なのだ。実言がいなくなってしまったらと、自分の身の上が急に不安になった。実言にすがっていなければ、今までのような暮らしはできないだろう。実言を突き放すような態度をとるのがはばかられた。情けないことだが、自分が生きていくには必要な男になってしまった。
「どうしたの。心がここにはないような顔だ」
実言はいつものように礼の眼帯を取ると、左目に口づけた。
「寂しくなった?」
礼は黙って俯いた。
「私は寂しい。お前とどれほどの間、離れ離れになることか。九鬼谷に行かなくてはいけないことは十分にわかっているつもりだが、やはりお前のことが心配だよ。まして、お前は私を心の中に入れてくれないままで」
実言が後ろから抱きなおした礼の頬にぴったりと自分のそれをくっつけて囁く。時に、声は悲壮な擦れ声になり、落ち着かせるように声音を低くして言う。
礼はいつものように思うのだった。私は実言の本当の許婚ではない。だから実言のなにもかもを受け入れてはいけないのだ。心を実言で満たしてはいけない。私の心は空っぽでなくてはいけない。
実言は懐に入れた礼を一旦放して、礼が羽織っている亡き兄の上着を脱がせた。脇の下から手を伸ばして礼の寝衣の帯を探って解いた。もう一方の手が左側の衿に手をかけて、そっと肩からおろして、寝衣はするりと下に落ちて礼の左半身があらわになった。実言は礼の垂れる長い髪を背中から前に流して、右肩も露わにして白い背中を眺めた。小さな灯台の火に照らされる礼の背中に実言は顔を寄せた。吸われた背中は噛まれたかと思い、驚いて、礼は体を丸めた。その動きを抱きとめるために実言は礼の髪もろとも乳房を掴み、離さない。背中から口を離して実言が礼に言い聞かせるように囁くのだった。
「礼。逃げないで」
礼の動きが止まると、実言は遠慮なく礼のうなじへと唇を移動させた。礼は、後ろから自分の胸にまわっている実言の右腕を抱きかかえるようにして、自分を支えた。実言は唇を背中の下へと移動させると、礼は打たれたように背筋を伸ばした。
実言は後ろから礼の肩を甘く噛んだ。礼は身悶えし、実言はその動きを抑え込むようにより腕を閉めて抱いた。二人は一緒に褥の上に倒れこんだ。実言は、礼を仰向けにすると、胸を覆う黒髪をゆっくりとその上から払い退けて、礼の上にまたがり、膝で立ったまま袍を脱いだ。
礼の体に纏わる袖から腕を抜かせて実言は礼を裸にした。
「礼」
実言の声が甘く耳元に囁かれる。
「私は、この愛しい身体を離せないよ。少しの別れだと思うのに、今から恋しくて恋しくて眠れない夜をどれほど過ごすことになるだろうか」
実言の身体に包みこまれて、肌を合わせていると礼は苦しくなるばかりだった。礼の首筋から鎖骨へと実言の唇は動き、実言に愛された跡がつけられていく。礼の腕を開いて胸へそして、腹へと実言の指は動く。開かせた礼の内腿の間に入り、礼の体を起こして腰の上に抱いた。礼は右手を口元に持って行って、指の背で口を塞ぎ、実言との交合の痛みを我慢した。
それでも。
「……あっ……あ」
礼の艶かしい声が漏れた。実言は礼の口を塞ぐ指を下におろさせて、両手で礼の頬を掴み、その口を塞いだ。それから、実言は礼の呼吸に合わせながら、礼の内側のその奥へと何度も入っていった。
実言の思いを体内の奥に感じながら、やはり自分は実言の相手ではないという気持ちは変わらなかった。頭に思い浮かぶのは、姉として慕っていた朔だった。実言の相手は朔のはずなのに。
実言に求められるままに体を重ねて、今、実言の体が離れた。灯明の切れた部屋の中には、月明かりが少しばかり入って、仰向けになった礼の白い胸をぼんやりと照らした。
実言は、礼から脱がせた男物の上着を引き寄せて横になっている礼を包み、自分も横になった。
「礼……お眠り……」
実言が言うのに応じるように礼は目を閉じると、すぐにまどろんだ。礼の童女のような寝顔を見ていた実言はそっと唇を寄せてその頬に押しあてた。
次に礼が目を覚ましたのは、自分から実言の体が離れて行った時だった。
礼は急に自分を包むものが取り払われたように感じて、跳ね起きるように体を起こした。
夜明け前の、外が白んでいる時だった。青白い光が実言は起き上がって手早く脱いだ服を着ている姿を見せた。礼が褥の上に座ると、身なりを整えた実言も礼の前に座った。
実言は礼が羽織っている兄、瀬矢の形見の紺の上着の衿の前を合わせながら、礼に言い聞かせる。
「礼。私はもう、行かなくてはならない。必ず帰ってくるよ。必ず、お前を迎えに来る。それまでお前をそばで守ることはできないが、その代わりに兄上に守ってもらうのだ。私も、瀬矢様にお願いするよ」
亡き兄、瀬矢の名が実言の口から飛び出して、礼はそれを不思議な気持ちで聞いた。
なぜ、実言が死んだ瀬矢兄様のことを知っているのだろう。
そんなことを思いながら礼は、自然と兄の上着の前衿を持つ実言の手の上に自分の右手を重ねていた。胸の奥に言い知れない痛みを感じたが、実言の手を握ってやり過ごした。
「礼」
名前を呼ばれて、礼は実言を見上げた。
二人は目を合わせた。
「私に、言うことはないかい?」
礼は少しばかりの沈黙の後、口を開けた。
「……どうか、ご無事で。必ず、お帰りください」
礼の絞り出した言葉に、実言は微笑んだ。夜明け前の白んだ細い光が実言の表情を礼に見せた。
「そのつもりだ。お前を一人にはしないよ」
実言の右手が頬を包み、礼の左目、唇と実言の唇が触れた。最後に二人は額を合わせて、しばらくの間目を閉じた。礼が目を開けて上目づかいで実言を見ると、実言は、まだきつく目を閉じたままだった。やがて、実言が額を離すとともに目を開けた。
兄の上着の衿にかけられた実言の手の上に重ねた礼の手は、実言の手の甲に指が食い込むほどきつく握っていた。実言は礼の頬から手を離して礼の右手を開かせて、瀬矢の上着の衿から手を離した。
二人の肌は完全に離れ、これから礼はここ束蕗原に、実言は九鬼谷へと離れ離れになる。
「礼。私は満足だ」
実言は明るい声で言った。その顔は陰になり、礼にはよく見えなかった。
立ち上がろうとする礼を制して、実言は礼の部屋から立ち去った。実言の足音が遠のくのを聞きながら、礼は両手で顔を覆って、じっと朝が来るのを待った。
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