第9話
兵士や装備を整えるのに三月の期間がかかる。実言はその準備に毎日を忙しく過ごしていた。その合間をぬって、礼に会いに行った。
相変わらず実言に冷たい態度をとり続ける礼だが、それでも実言は礼を愛しく思っていた。今はお互いの心は通じ合わなくても、いつか通じる時が来ると信じている。いつも、曇った表情の許婚が妻になる頃には満面の笑みを向けてくれると信じている。
この日も、実言が礼の部屋に現れたら、ぷいっと左顔を見せいないように横を向いている。侍女の縫が気を使って、礼に話を振ったり、実言の話しに答えたりしたが、長く会話は続かず沈黙が広がった。そこで、実言は縫に言った。
「礼と二人で話をしたいのだが」
望むところと縫は立ち上がって、礼を残して部屋から出て行った。
「礼。こっちへおいで」
実言の言葉に素直に従いたくない礼は、横を向いたまま黙っている。
「お前が来ないのなら、私が行くしかないな」
立ち上がって、実言は礼の前へと行く。礼は実言が近づいてくるので、少し後ずさりしたが、実言は礼を捕まえて、腕の中にすっぽりと入れて、身動きができなくさせた。礼は無言で精一杯の抵抗をして、実言から顔を背けて遠ざかろうとした。
「ダメだ」
実言は言って、礼の左目の眼帯を取って、いつものようにその傷に口づけた。
「お前が右顔しか見せないからね。左顔もよく見せておくれ」
「嫌。醜い」
「醜いわけないじゃないか。私のためにお前の左目を失わせてしまった」
「違う。私は朔を助けたかっただけ。実言を助けたように見えただけ。偶然よ。実言のためではないわ」
礼は力一杯、顔を左側に振って、実言から左顔を隠した。
「礼……ああ、そうだ……朔を助けるためだった。その傷は朔のためだったな」
実言は怒ったように言った。その直後に礼を押し倒し、礼の動きを封じると、帯に手をかけて解き、衣の襟を掴んだ。礼が衣の前を手で押さえて抵抗したのを、許さず右肩が現れるところまで脱がした。礼が苦しさから声を上げそうになったとき、縫が簀子縁で声をかけた。実言は礼の口を手で塞いだ。
「実言様。お時間とのこと」
仕事に戻らなければならないため、従者が縫に取次を申し入れたのだろう。
「もう少し、礼と話したいので、待つよう伝えておくれ」
実言は押し倒した礼の口を上から塞いだまま、そのように言った。礼から手を離すと、礼は静かに泣いた。実言は礼の体を起こすと、腕の中に抱いた。
「礼、すまない。酷いことをしてしまった。お前の心に私の気持ちが届くのはいつのことだろうか。もうすぐ私は九鬼谷に行ってしまうのに」
実言は自分の胸の上で咽び泣く礼の髪を撫でた。
「お前は、束蕗原に行く準備をしなさい。そこで、私の帰りを待っていておくれ」
礼はそれが実言との永遠の別れであればいいのにと思った。
実言が九鬼谷へ旅立つ前に、礼が先に束蕗原に行くことになった。束蕗原に行く前日、実言が真皿尾邸の礼の部屋を訪ねた。大方の身の回りのものは箱に収めてしまい、殺風景な部屋の中にいた。
「さっぱりと片付いたものだな」
「私が出て行けば、代わりにこの部屋を使う者がいるのです。全てを持って行くんだろうと言われたわ」
「……行くところがないと、言いたいのか?礼は、私のところに来ると決まっているのに。束蕗原は仮の住まいよ」
実言にそんなことを言われて、カッとなっていつものように左にそっぽを向いた。そんなことを言って欲しいわけではないのに。
「そんなふうにすぐに横を向く」
実言の手が伸びてきて、礼の両頬をつかんではなさない。抱きしめられて、すぐに束蕗原に会いに行くからと囁かれた。
翌日早朝に、礼は牛に引かせる車に乗って、束蕗原に向かう。
束蕗原は都から馬を駆けさせれば一日で往復できる距離である。そう遠くもないが、近くもないのが束蕗原という土地だった。
都より北に位置する土地で、礼の母親の出身である須和家の領地である。領地を治める叔母の去の住む大きな邸があり、その周りに集落と広大な畑が広がっている。領地には川が流れ、山の麓には温泉が湧き出ている。肥沃で作物がよく育つ恵まれた領地だった。
現在この領地を差配しているの女領主である叔母の去は、都は住みづらいと父親に頼み込んで、この土地に住むことにした。医術や薬草に興味があり、この恵まれた山野で薬草の栽培や研究、医術の習得をすることに目覚め、長い間日夜研究にいそしんでいる。
礼は母親が健在だった頃、一緒に連れらえて来たことがあった。そして、左目を失った時に気分転換になればとこの地を訪れ温泉に入って療養した。
牛の歩きは遅いもの。一日かけて都からこの束蕗原に来る礼を去は家の前に立って待っていて、出迎えてくれた。
「去様」
牛車から飛び降りて、礼は去に駆け寄った。
「礼。相変わらず、子供のように駆け回って。あなたはもういい年の娘で岩城のご子息の許婚でしょうに。困ったことだこと」
いきなりの小言から始まったが、一年ぶりに見る姪の若々しい姿を眩しそうに目を細めた。礼も久しぶりに見る去の元気な姿に手を握って喜んだ。
「あなたも苦難が続きますが、少しでもこの土地で健やかに過ごすのです」
去も礼の手を握り返して言うのだった。
束蕗原の空気は都の空気に比べたら格別に良く思えた。礼は深く息を吸った。
去は礼を邸の中に招き入れ、離れの部屋に通した。荷物は一日早く都を出発したので、すでに礼の部屋に運び込まれていた。
礼は部屋の中を見回してた。準備した荷物以上に箱が置かれているような気がする。
「これは、前の方の荷物がまだ置かれたままになっていのですか?」
「いいえ。これ全てがあなたの荷物ですよ」
はて、と礼が小首を傾げていると。
「岩城家があなたのために用意されたものですよ。あなたに不足がないようにいろいろと見立てて届けてくださったのです」
礼は、箱をそっと開けると、色とりどりの袍や背子、裳やまだ裁断前の生地などの衣装から手の込んだ細工が施された日常の道具類が幾箱にも分けて入れられていた。
「この束蕗原の薬草の研究にも、岩城家は援助してくださることを約束してくださったのです。とてもありがたいことだわ。礼を大切にしてくださっている証拠ね。礼は本当に良い方と結ばれたわね」
去はそう言い残して、部屋を出て行った。去と入れ違いに侍女の縫がやってきた。縫は予想以上の箱の数に驚き、二人は見合って苦笑した。
「とりあえず、今夜眠れるくらいには部屋を片付けないと」
礼と縫は、大小の箱を部屋の隅に移動させ、夜具を広げる場所を確保した。
「礼さま、お疲れになったでしょう。早くお休みなさいませ」
夕餉をいただいて、部屋でくつろいでいると、縫がそう言って、さっさと灯台を吹き消していった。縫に言われなくても、牛車での道中に疲れて、体は泥の中に沈むような感覚だ。礼はすぐに褥の上に横になった。
これから、束蕗原の生活が始まる。去は大好きだ。この場所に来られたのも嬉しい。しかし、実言が礼を自分の意のままにできると思っていることに腹が立ち苛立った。眠りに引き込まれそうになりながら、実言に呪詛を唱えながら目を閉じた。この家には薬草の匂いが立ち込めていて、その匂いを感じるとスッと眠りに落ちてしまった。
翌日から、何をするでもなく礼の束蕗原の日々は始まった。数日のうちに礼は、去の仕事に興味を持ち始めた。母や兄を病気で早くに亡くし、自分の左目を失いと、医者と薬草は身近な存在だった。そのため薬草の使い方や、医術への関心が高かった。束蕗原に来てからというもの、去の働きを邪魔にならないように、見守った。去は礼に自分を手伝わせるつもりはなく、あっちに行っていろと言ったが、礼は去があまりうるさく言わないことをいいことに、去が弟子に指示を与え、教えている様子を見ているのだった。
束蕗原に来て、七日。その日も礼は、夜明け前に起きて飽くことなく去とその弟子の動きを見ていた。去は、礼の視線に耐えられなくなり、朝餉の時に礼に尋ねた。
「礼。あなたは私の仕事に興味があるの?」
肯定的な言葉の去の質問に、礼は素直に答えた。
「はい。あります」
「まあ。……でも、岩城家の未来の奥方にこんな下働きのようなことはさせられないわ」
去はそんなことをつぶやいたが、礼はやる気だった。逆にこれをやらなくてはいけないように思った。もしも、実言が戦で死んでしまったら、自分にはもう戻る居場所はないのだ。去にすがって生きていくしかない。実言の意のままにはならない。自分の力で生きていけるようにならないといけないと思うのだ。
「実言殿がいらっしゃったときにでも、きいてみるわ」
去は、自分の判断だけでは決めかねるようでまたもそう呟いたが、礼は今日からでも去の弟子に混ざって話を聞くつもりだった。
真冬の寒さの中、空気は冷たく、咳き込んでいるものがたくさんいる。去が咳に効く薬草を煎じようと弟子に指示を出しているところ、その薬草がなかなか出てこない。壁一面に引き出しが備え付けられた薬箱の前で弟子があたふたと引き出しに墨で書かれた名前を探していると、礼は指で一つの引き出しを指した。
「一番上の左から4つ目の引き出しにオオバコが入っています」
礼の言葉に弟子の一人は、ハッとしてその引き出しを抜いて、去のところに持って行った。
「時間をとってしまい、申し訳ありません」
去はその箱を受け取り、礼を見た。
「どうしてその場所がわかったの」
「見ていたからです。毎日」
そう言って、礼は壁に並ぶ引き出しを上から順にその薬草の名前を読み上げいていった。去はそれを確認せずとも、合っていることはわかった。遮るように声をあげた。
「礼。あなたは」
右目だけの娘が、ここ数日見ているだけで、壁にある百いくつの引き出しを覚えるなど、驚きだった。
「本気なのね」
去は、礼にほかの弟子とともに学ぶことを許した。
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