第8話

 歴代の大王は、外へ外へと勢力を広げ、強大な国を築いてきた。それは数代にわたり受け継がれてきた際限のない夢であり野心だった。

 先代の大王は特に北、南ともに兵を進めて征服し、各地の豪族を配下にして領土を広げてきた。まだ、北も南も、征服するべき土地があり、それを受け継いだ現大王も、今、南方の豪族、鰐(わに)輪(わ)を征服するために、兵を進めていた。大王軍が奪った土地を取り返さんとして、鰐輪の軍勢が押し返してくる。それに大王軍が後退して、再びその土地を攻め込むということがここ数年の南方の戦いの状況である。

 このようなぬるい状況に甘んじていた大王は左大臣の岩城園栄に進言されて、重い腰を上げて、鰐輪を討伐することを宣言した。これを機に、南方を平定してしまおうということだ。

 奪い奪われされているその激突地は九鬼(くき)谷(たに)という谷間(たにあい)だった。

 そこへ、今までないほどの軍勢を送って、数でも武力でも圧倒し、一気に征服せんと決定した。

 各地から兵士が集められることなり、北や東から連れて来られた男たちは戦いに行きたくないと脱走する者が大勢いた。

 このような状況に宮廷は頭を痛めて、この討伐を進言した張本人の働きが少ないと岩城の当主である左大臣の園栄は突き上げを受けた。権勢を誇る岩城一族も、日々それを陥れたい勢力と大なり小なり攻防をしている。

 そこで、岩城から兵を出すことを決めた。選ばれたのは三男の実言だ。実言はまだ十八という若さだが、武術に長けており、若い兵士を集めた一師団を率いることにした。

 程なくして、真皿尾家に実言が九鬼谷の戦いに行くと岩城家から正式に連絡があった。

 まだ、礼との婚儀が整わないままとなっていることに礼の父親は気色ばんだ。そうしたものの、岩城一族の決めたことに意見するほどの気概も、力もない。礼の父親は、左目を失った一人娘を不憫がって、部屋を訪れては娘を小さな子供のように腕の中に入れて髪を撫でてやるのだった。

 礼は実言が九鬼谷に行くことを聞いたが、それが自分にどのような影響があるのかわからなかったし、知ろうともしなかった。それに、礼は蚊帳の外で何やら岩城、真皿尾の両家の間で礼の身の上が話し合われている。

 その間、実言の訪れはなく、それは礼にとって罪と罰のような実言との交わりもなく、礼の心は落ち着いていた。

 気楽な気持ちで日々を静かに送っていたある日。

 庭の中には、幹と枝の別れたところに体を寝そべらせるのにちょうどよい木があった。実言の訪れのない平穏な礼の日常は、その木に登って、昼寝をするのが日課であった。

「礼さーまー」

 侍女の縫の声が遠くから聞こえた。右目を開けて、ここにいると声を上げて伝えようとした時に、「無理に呼ばなくてよい」と後ろから言っている実言の声が聞こえた。

 縫が声を張り上げていたのは、実言のことを少しでも早く礼に知らせようとしたようだ。実言はそれを制して庭の奥へと進む。

 曲がりなりにも、礼は貴族の子女である。木の上から現れるのははしたなく、礼はどうしたらいいものか思案した。

 木の上に礼がいることを知っていながら、侍女の縫は白々しくも、礼の名を呼びながら、礼のいる木を通り越してその先の庭まで行こうとした。実言は礼のいる木の近くでキョロキョロとしている。縫とともに、実言がその先の庭まで行ったら、礼は急いで木から降りて、部屋に戻ろうと考えているのに、実言は知ってか知らずか、礼のいる木の近くからそう離れて行こうとはしない。

 こうなれば、礼は実言と持久戦をして、実言が離れていくことを待つのだが、縫が一生懸命礼の名を呼びながら、実言に自分の後をつけさせようとしているのに、実言は一向にその木から離れない。

 礼は実言の縹色(はなだいろ)の袍の端を右目で捉えながら、早くあっちへ行かないかと考えているところ、実言は囁くように言った。

「礼、いつまで隠れているつもり」

 礼は腕組みした上に頭を載せて長丁場に備えようとしていたところ、虚を突かれて、ギョッとなった。

「早く、降りておいで」

 実言はお見通しのようで、礼は渋々木から飛び降りると、実言は着地したひょうしに礼の体が前に飛び出したのを受け止めた。

「縫には悪いけど、お前の裳が見えていたよ」

 礼は縫を振り返り、なんとも間抜けなことをさせたと、目で詫びた。

「木に登るのは、控えた方がいい。今まで以上にお前は自分の体を気にかけないといけない」

 実言が言っていることの意味がすぐにはわからなかったが、縫がハッとしてすぐに詫びたことで礼にもやっとわかった。

 腹に子を宿している可能性を暗に言っているのだった。

 礼は自分の気持ちとは反対にこの体が実言を受け入れたらどうしようと思った。それは体だけを渡すのとはまた違うことのように思えた。

「二人きりになりたいのだが」

 礼にとっては、こんな間抜けな後に実言と二人きりとは耐え難いものがあるが、優秀な侍女の縫は事もなげに言うのだった。

「礼様のお部屋にどうぞ」

 勝手知ったる礼の部屋である。礼は実言に手を取られると、ぐいぐいと引っ張られて部屋へと連れて行かれた。実言は縫に用があれば呼ぶからと言って、部屋から遠ざける。縫の衣擦れの音が完全に聞こえなくなるのを待ってから、実言は礼を正面から見つめた。

「どれくらい会っていないかな」

 にこやかに笑う実言は礼の手を取って、指へと口づけた。礼は久しぶりの実言との逢瀬に、ぎこちなくなり、ぷいっと横を向いた。

「音沙汰なくて、機嫌を悪くさせてしまったかな。すまない」

 横を向いた礼の態度を寂しさの現れととったのか、実言は、握っていた礼の手を引いて、自分の腕の中に入れた。礼は実言の胸の中へ引き込まれると、じっとしてその場を我慢した。

 やがて実言が口を開いた。

「礼。お前は、もう聞いて知っているだろうが、私は、九鬼谷の戦に行くことになった。私は一族のためにもこの戦いに必ず勝利し、帰ってこなくてはならない」

 実言はより一層腕に力を込めて、礼を抱きしめた。

「私の一番の気がかりは、お前だよ。お前と正式に夫婦になっていくべきか、悩んだ。結論としては、婚約のままで私は戦に行く。しかし、お前をこのままにしておけない。だから、お前の父上や私の父と話し合い、お前は叔母様である去様のいる束蕗原に行って私を待っていてほしい」

 実言の口から聞かされた話は、意外なものだった。礼は実言の胸から顔を上げた。

 束蕗原。母親の実家である須和家が治める領地で、母親の姉である去が住んでいるはずだ。礼にとっては、子どもの頃、健在であった母と一緒に行ったことに場所であり、目に矢を受けた後も、しばらく療養した土地である。

 礼は益々自分の身がこの先どうなるのかわからなくなって、実言を見上げたまま呆然となった。

 実言は両手で礼の両頬を包んで礼を抗えないようにして、唇と唇を重ねた。近づいてくる実言の顔にびっくりして、慌てて礼は顔を背けようとしたが、がっちりと実言に頬を包まれて、二度三度と口づけられて、引き結んだ口が開いてしまう。その時を待っていたように、実言の唇が噛むように挟んで礼の唇を吸った。尾をひくように唇の端を吸いながら、実言は話すのだった。

「礼。私を信じておくれ。お前を思ってのことゆえだと」

 久しぶりの熱い実言の抱擁に、礼はじっと堪えるのだった。

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