第7話

 秋のある日。陽はまだ高い時。

 実言は礼の部屋を訪れた。簀子縁から庇の間に入ったところで実言は礼の侍女の縫を手招きした。傍に寄った縫に耳打ちすると、縫は耳を真っ赤にして頷いた。縫は部屋に入って、部屋の真ん中に座る礼に跪いて今度は礼に耳打ちした。

 今夜、実言が礼の部屋に泊まりに来ると。

 礼はそれを聞いて、どんな顔をしていいかわからず、袖で口元を隠して俯いた。

 実言と礼との婚約が整ってから、一年が経った。時間があれば、実言は礼の部屋を訪れていた。二人きりになることもあれば、訪問先へ行く途中に時間があるからと立ち寄り、少しの時間、侍女たちを交えて世間話をして帰ったりした。訪れる時間は、いずれも昼間だった。

 それが、今夜、部屋に泊まるという。これで、結婚するのもそう遠くないことと真皿尾は一つ胸を撫で下ろす。

 縫が礼に実言の伝言を耳打ちしてから、部屋を去って行った。実言は礼の隣に腰を下ろすと顔を隠したままの礼の耳元に囁いた。

「これから、宮廷に行かなくてはならないから、来るのは夜遅くなる。私を待っていておくれ」

 礼の心は破裂しそうなほど痛くなった。

 実言はそっと礼の艶のある長い黒髪の先に手を伸ばし、それから肩から下に撫でると宮廷へ向かうために部屋を出て行った。

 礼は夜を待っておられず、逃げ出したい気持ちに駆られたが、真皿尾の娘の立場がそれを押し留めた。

「礼様、お食事、召し上がりませんの?」

 少しも減っていない夕餉の膳を礼が下げろと言うので、縫は心配になって聞いた。

「いらない」

 礼は縫に知られないようにため息をついた。

 縫は礼の心中を察しながらもかける言葉もなく、早々に部屋を出て行った。

 いつ現れるかわからない実言を待つ。礼は部屋の中でじっとしておられず、簀子縁まで出てみたりしたものの、気持ちは落ち着かない。仕方ないので、部屋に戻って兄の形見の上着を羽織ると、庭に下りていって裏の小さな門を潜って邸の外に出た。

 真皿尾の邸のすぐそばには、都の人々が信仰している山の神を祀っている神殿がある。静かなその境内にはいり、礼は跪いて祈った。自分が無心になれるように祈った。

 しばらくの間、一心に祈って顔を上げたら、左隣に同じように跪いて祈っている人を見て、驚いて声を上げそうになった。

「礼、私だよ」

 その人は顔を上げた。

「荒益?」

 神殿の前に跪いていたその人は、荒益だった。

 荒益は礼の兄の友人で礼とも子どもの頃に一緒に遊んだ仲である。そして、宮廷の権勢を岩城家二分している椎葉家の嫡男でもある。月明かりの中で、幼い頃の荒益の面影が見えてわかった。

「久しぶりだね、礼。私も時々、こうしてここに祈りにくるよ。今日はちょうど今、宮廷から下がってきたところだ。あなたも、時々こうして祈りにくるの?」

「はい、たまにですが」

 荒益は立ち上がり、礼の隣に立った。

「真皿尾の邸はそこだから、すぐに来られるね。しかし、こんな夜更けに女人が一 人というのは不用心だな。実言は知っているの?」

「……いいえ」

 実言の名前を出されると胸がしめつけられる思いになった。

「先ほどまで宮中で実言と一緒だった。実言が心配するよ」

 傍で見る荒益は少年の頃の面差しを残したままの麗しい青年になっていた。

「朔は、元気ですか?」

礼の唐突な言葉だったが、荒益は微笑して答えた。

「元気だよ」

 荒益は、実言と朔の婚約が解消された後に、朔と婚約したのだった。

 実言との婚約を解消してから、朔がどの家と縁づくのか、都の中では興味本位に噂になった。都随一の権力者である岩城家の三男との婚約を解消されて、朔の家である常磐家としては娘をどう扱ったらよいか悩んだはずだ。

 どのような経緯をたどったかは明らかにされていないが、程なくして椎葉家の嫡男である荒益と婚約したことが発表された。常盤としては、岩城家と双璧を成す椎葉家の嫡男との結婚は体面上も悪いものではない。年頃の娘を持つ家は皆、椎葉家の嫡男に縁付かせたいと思っていたはずだからだ。

 しかし、とうの朔がどう思っているのはわからない。子どもの頃から一途に夢見てきたのは実言の妻になることだった。それが一旦は約束されたものの、妹同然にかわいがっていた従姉妹に奪われたのだ。

「朔のこと、気になるの?」

「はい……姉として、慕っていたので」

「そう。……いまさらこんなことを言うのはいけないことかもしれないけれども、ここで会ったのも何かの巡り合わせかもしれないから言ってしまおう」

 荒益は一度上を向いて月空を見あげてから、真っすぐに礼に視線を戻して話し始めた。

「私は、実言と礼の婚約を知って、私の許婚になるのは礼だと思っていたよ。礼のお母上が須和一族の血を引いているのを知っていたし、私の親もあなたの家柄を認めていたし、私も内心あなたを望んでいたから。親たちの間ではそういう話になっているところだった。あの件がなければ」

 礼自身も、荒益と同じように実言と朔の婚約が発表されてから、私なら誰と結婚したいだろうと想像した時に初めに名前が思い浮かんだのは、荒益だった。子どもの頃遊んだ時の優しさの記憶と、家柄に惹かれていただけかも知れなかったが、この人の妻になりたいと幼い心は憧れを感じていたのだった。親愛の証としてかけられる首飾りを荒益から受けることを想像して胸が躍ったことが、脳裏に浮かんだ。

「思った通りには行かないものだね。しかし、朔は美しくて、かわいらしい人。私に尽してくれる。野心家だけど、それは私のようなぼんやりした男には頼りになるよ。こうなったもの何かに導かれたことだろうからね。私は朔を幸せにしたいよ」

「朔の幸せは、嬉しいです」

 礼は言うと、荒益は左手を上げて自分の左目を覆った。つられるように礼も真似て自分の手を左目に置く。そこには、眼帯をした顔がある。

「左目はもういいの?あなたの命が危ないと聞いて、とても心配していた。命が助かるなら、どんな傷を負っていても、私はあなたを妻にと申し出るつもりだった」

 そう言って、荒益は微笑したが、すぐに顔を横に逸らした。

 礼は目の前の男の告白に自分がどのような顔をしたらいいかわからず、俯いた。本当は嬉しい言葉なのに、今の自分は、いや、荒益も同じだ。決まった相手がある。自分たちに括りつけられた糸が複雑に絡まって交差してしまった。だから、何も言えなかった。

 荒益は礼に目を戻した、小さな息を誰にも分らないように吐くと言った。

「近くまで、一緒に行こう。男物の上着を着ているからと言って、安心は出来ない。都は治安が悪くなっているから、今後はこのようなことはしてはいけない」

 真皿尾邸の裏門の前まで、二人は無言で歩いた。門の前まで来ると、荒益は礼と向かい合い言った。

「私たちは、近々、結婚するよ」

 礼はそれを聞いて頷いた。

 礼にとっては先ほど告白されたのに、たった今別れを告げられたような気分になった。

 しかし、そのような時間が得られたことが、嬉しかった。幼い自分は身近な男に好かれていたのだと知れたのだから。

「では、おやすみなさい」

 荒益は月夜の明かりの中で、清々しく微笑んで、立ち去っていった。

 門をくぐって、自分の部屋の前の庭に来るまで荒益との会話の余韻に浸っていると、部屋の前の階の上に座る人影が見えた。

「やあ」

 人影から、暢気な声が発せられた。

 礼は慌てて階の下へと走って行った。荒益との出会いが、今夜の実言の訪れのことを少しの間忘れさせてしまった。

「……実言」

 昼間に今夜来ると、言われていながら部屋にいなかったことを実言は怒っているだろうか。

 実言は階の下まで下りてきて尋ねた。

「どこへ行っていたの?」

「神殿へ」

「ああ、ここからは目と鼻の先だからね。だからと言って、一人で行くのはやはり危ないよ。行くなら私と一緒に行こう」

 礼が沓を脱ぐのを手伝ってやり、その手を握ったまま階を上がりながら。

「礼が消えてしまったと思って、少し不安になっていたところだった」

「ごめんなさい」

 礼はうなだれて、うつむいた。

「でも、よい月見ができた」

 実言は礼の手を握りなおし、冷たいね、と言って、妻戸を押して二人は部屋の中に入った。

 部屋の中は油皿を何個もおいて、小さな灯りが奥の寝室へと延びていた。

 我が邸だというのに、実言に導かれるまま礼は部屋の中に入り、真ん中に設えられた寝所の褥の前に来た。

 実言がこちらを見ている。その視線に礼は耐え切れず、実言を見上げた。

「待ち遠しかった」

 それが合図であったかのように、実言は礼の手を引いて褥の上に上がって座った。

「長く外にいたの?まだとても冷たい」

 実言はいつものように耳元で囁いて、袍の中へと礼の手を入れて胸の上で強く握った。

 礼の手を握った逆の手が、礼の背中を抱いて実言は礼の唇を求めた。礼は恐る恐る顔を上げると、すぐに実言の唇が重なった。長く吸いつけられて、唇が離れると、実言は礼を見つめた。礼は怖くて身を硬くした。

 実言はいつものように礼の眼帯を外そうと手を伸ばした。礼は顔を横に振って抵抗したが、実言は左耳の後ろに手を入れて紐を外してしまった。醜い傷痕が現れたが、実言はいつもの儀式のようにその傷痕に口づけた。そうされたら、礼は静かになるしかなかった。こんな醜い傷痕に恐れることなく口づけられると、受け入れてはいけないとわかっていても、心は綻んで嬉しく思ってしまう。

「お前を傷つけたいわけじゃない」

 実言はそう言って、再び礼の唇に唇を押しあてた。

「お前が欲しい」

 実言の唇が離れて、礼のそれは自由になったが、何も答えなかった。

 実言が求めるものを渡すのだ。自分の心以外のものは全て。

 真皿尾一族のために実言を拒絶することは許されない。自分以外に代わりはいないのだから。娘に恵まれなかった真皿尾家にとって、実言と礼の婚約は願ってもないものなのだ。優しい父や兄たちを悲しませたくないという思いが礼の実言を拒絶する心より勝るのだった。

 礼は今ここで再び自分の心に刻む。実言の本当の許婚は幼い時から実言の妻になることを真に願っていた従姉妹の朔なのだ。それなのに左目を失った娘を哀れに思って、実言が許婚を礼に変えてしまった。自分の左目が朔の人生を変えてしまった。礼は実言を思ってはいけない。朔がどれほど思っていたのか知っている自分がやすやすと実言を思うことは許せないことだ。それは礼が静かに立てた操である。

実言は、礼を褥の上に押し倒して共に横になった。あからさまに嫌がりはしないが、横になった礼は、左目を下にして俯いて両手を胸の前に畳んで小さくなっている。左側に寝そべっている実言は右腕を枕に、礼を見ている。礼はぎゅっと目を閉じたままだ。

 実言は左手を伸ばして礼の右頬に触れると礼は、その指から逃げようとしたが、それは実言の胸に近づくことになった。

 実言は近寄ってきた礼を自分の胸に抱き寄せてから仰向けにした。

 一瞬にして礼は、天井を見ることになった。そして、すっと実言の顔が右目に映った。実言は礼の上に覆い被さって、唇を吸った。礼は口づけられても、唇を開かないように引き結んでいると、実言が口を離して囁いた。

「礼。怖い?」

 帯が解かれ、下着だけになった礼を実言はまた抱きしめた。

「私を信じて」

 部屋の隅に置いてある油皿の灯りは小さな火を揺らして、静かな中、実言が袍を脱ぐ姿を礼に見せた。

 実言は一気に下着も取って裸になると、礼も自分と同じ姿にした。その時、礼は自分の右目を固く閉じてその時を耐えた。

 実言は礼と契る。

 首筋から、鎖骨、裸にした胸へと実言の唇は異動し、その手は礼の左乳房を掴み、掌で撫でて、乳首に指先が触れる。実言の胸と礼の胸が合わさって、二人の体は隙間もないほど密着した。そうかと思ったら、実言は体を起こしその手を礼の足に延ばして、腿を引き寄せ、外側に向かって開かせた。

 礼は体を硬くし、息は止まりそうだった。恐怖と痛みで声も出なかった。

「礼、……礼っ」

 実言が呼んでいる。抱き合って耳元で喘ぐように、歌うように。

 一つになった体は離れ、背中を向けて横になっている礼は、裸のまま後ろから実言に抱かれた。

 礼は実言の方を向けなかった。脚の間から、体の内側に疼いてくる痛みで実言を見ることができない。この疼く痛みは、礼の罪を体に刻んで罰を与えているように思えた。

 実言は後ろから礼の黒髪に顔を埋めて言った。

「礼。愛しいよ」

 そう言って、実言は自らも起き上がると同時に礼の体も起こして自分の方へと顔と体を向けさせた。秋の夜風の冷たさに実言は礼が羽織っていた男物の上着を引き寄せて礼の肩に掛けた。

 実言に抱き寄せられて、礼の右頬は実言の裸の胸に押し付けられた。

「どうしたの?……どうして泣いているの」

 礼は実言に言われて、初めて自分が泣いていることに気付いた。右目からこぼれる落ちる涙が、実言の胸を濡らしていたのだった。

「そんなに、私のことが嫌いかい?」

 礼はそう問われて胸が張り裂けそうになって、実言の胸に突っ伏した。

「いつか、教えておくれ、泣いた意味を……。どうしたって、私たちは別れられないのだから」

 礼は思った。実言は朔とも、こんなふうに抱き合ったのだろうか。そんなことをしていながら、婚約を解消したのだとしたら、朔はどんなにか心が引きちぎられて、苦しんだことだろう。

 だから、泣いたのだろうか……。礼は自分が泣いた理由をすぐには言葉にはできなかった。

 夜明け前に、実言は帰って行った。部屋を出て行く実言を見送るのに、部屋の外まで行こうとしたが、褥の上で実言はここでいいと言い、礼の額に口づけて、去っていった。

 夜が明けて、日も高くなったころ、礼の父親が礼の部屋の前の簀子縁に現れた。すでに、侍女の縫から、実言が泊まるということは報告されていたので、その首尾はどうだったのかを探りを入れに来たのだ。

 父親が来るというので、礼は脇息に伏せていた体を起こしてしゃんと座った。

「実言殿は、昨夜この部屋にいらっしゃったのか?」

 礼が答える代わりに、後ろに控えている侍女の縫が答えた。

「いらっしゃいました」

「それで、どうなった?」

 どうなったもこうなったもないが、侍女の縫は見ていたかのように、迷うことなく答えた。

「無事に契られました」

 寝衣の着替えや夜具の片付けをしたところから、昨夜のことの結果を悟ったのだろう。

「そうか。……これで、子供でもできれば、我が一族は安泰だな」

 礼の父は最後の言葉を呟くように言った。

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