第6話

 真皿尾の邸に戻った礼は、熱を出して苦しんだ。もうだめかという時もあったが、辛うじてその命をつなぎとめた。そして、病状は落ち着き、徐々にではあるが快方に向かっていった。父や兄の呼びかけにも応えるようになり、礼は言葉少なではあるが意思表示をするようになった。縫は礼が、はっきりと自分の状況を理解しているとわかった。左目にはまだ厚く巻いた布があり、一人でいる時に左手で自分の左顔に手を置いているのを見ていた。右目だけでぼんやりとみて世界に違和感があるふうだが、それを言葉で父や、兄、縫には尋ねない。だから、周りで世話をする侍女たちに、礼にどんなに請われても絶対に鏡を見せてはいけないと伝えた。矢を受けた新嘗祭から月日は経って新年を迎えて、十五になった礼にとって、自分の容姿がどんなことになったのか、現実を知るのには、まだ時間が必要に思えた。

 新年の行事が終わったある日。このような礼を置いて、事はあらぬ方向に向かっていた。

 岩城家から使いが来て、今の礼の様子を聞いてきた。礼は岩城家の三男の実言の盾となって矢を受けたというのが、岩城家の思いであるから、礼の父はその責任を感じて病状を聞いてきているのだと思っていた。真皿尾家もいろいろと気遣いされるのは心苦しくて、これ以上の心配は無用であると知らせるために、礼が快方に向かっていることを伝えると、後日、岩城は意外な話を持ってきて、真皿尾家は大慌てとなった。

 それは、実言が礼を妻にしたいと申し込んできたのだった。

 しかし、実言は常盤家の朔が許婚にしている。礼をもらいたいとの申し込みのその真意が分からず、どういうことかと伺いを立てたところ、朔との婚約は解消したとのことだった。

 これに真皿尾が、そうですかといって応じるわけもなく、すぐに固辞した。

 礼と朔の母親は姉妹であり、幼い時から礼と朔は姉妹のように育っている。その二人が一人の男を取り合っているように見られるのは、本意ではない。礼の母親はすでになくなってしまったが、朔の母親はいまだ健在であり、我が娘の幸せを妹の娘に潰されるのは、他人に潰されるよりも口惜しく、やすやすとは許せるはずがない。いとこの二人が岩城の三男を挟んで争っているような姿は、すぐに都中の噂になってしまった。真皿尾や常盤にとっていいことではないので、真皿尾家は断った。

 真皿尾家は一時期隆盛を誇った名家ではあるが今では名ばかりの家になってしまった。現当主である礼の父親は争いごとが嫌いで、人を蹴落としてでも良い地位を得たいという意欲も気概もない。はなから常盤家と張りあおうなどとは思っていない。

 反対に、常磐家は真皿尾家より位が上であり、当主である朔の父親は野心的で出世欲の強い男だ。左大臣に登り詰めた岩城家とのつながりが欲しくて仕方なかったはずなのに、その繋がりをやすやすと手離すとは思えなかった。

 真皿尾は礼の怪我は悲しいことだが、これ以上の心配は無用だと伝えたが、岩城家はうんとは言わない。常盤家とはすでに話がついていて、実言と朔の婚約解消は承諾されているとのこと。真皿尾家の承諾が得られれば、実言と礼の婚約を公表すると言ってきた。

 常磐家はどう思っているのか。

 常磐家と話しをするべきか、優柔不断な礼の父親は迷っていた。真皿尾家にとっても、今を時めく岩城家の三男との縁談は、垂涎の申し込みであった。真皿尾家にはこの娘しか女は産まれていない。そして、左目を失ったことで、良家へ正妻として嫁ぐ当てはなくなったと言っていい。岩城家の三男の正妻としてもらうという申し出を断る理由はないのだ。真皿尾一族の話し合いの結果、本当に常磐家に異論がないのであれば持って申し出を受けると回答した。

 すると、岩城家は婚約の儀式をいつにするかと言ってきた。

 常盤の腹の中はわからないが、婚約破棄は両家にとって承諾されたことだと分かった。それから。岩城主導で、婚約の儀式の話は進められた。

礼はそんな話しが進んでいるとは知らず、体を起こして口に運ばれるものを吸い、横になって天井を見上げる日々を送っていた。

 そんなある日。

「礼様、朔様がお見舞いに来てくださいましたよ」

 天気の良い日で、通る風が気持ち良く、部屋を開け放して明るい光が部屋の中を照らしている中、縫が嬉しそうに、部屋に入ってきてそう言った。

 姉妹のように育ち、姉として慕っていた朔が見舞いに来てくれたことは礼にとっても嬉しかった。礼の伏せている部屋に通された朔は、微笑をたたえた表情で礼を見下ろしていた。気を利かせた縫が部屋から出て行ったのを見届けて、朔はそれまでの表情を一変させ、きっと目を吊り上げて礼に視線を送った。

「礼。お前はどんな手を使ったんだい。私の実言を奪うとは!」

 二人きりとなった途端、礼の傍に両手をついて座って、朔は礼に容赦ない言葉を投げつけた。

「実言は、私との婚約を解消すると言ってきた。代わりに、お前を許婚にすると言うんだよ。お前はその左目と交換に、実言に許婚にしてくれとでも言ったのかい?」

 礼は朔の言葉に、右目を見開いた。

「なんとか言うんだよ!礼!」

 礼は、朔の言っていることが理解できず、ただただ目を見開くばかりだった。

 その様子に朔は余計に苛立ち、寝ている礼に詰め寄り、顔を近づけてまくしたてた。

「礼!お前は私の夢を奪ったんだ。どれだけ、私が実言を思っていたか、一番わかっているのはお前じゃないか。それとも、お前も、実言を人知れず好きだったのかい?それなら、そう言ってくれないと」

 朔は弱々しい声を出して泣いたかと思ったら、喉で笑ったような音を立てて、さらに礼に近づいた。

「私が馬鹿みたいじゃないか。お前という恋敵を味方だと思って、今までいろんなことを話して、さらけ出していたなんて。こんな裏切りはないよ。……それとも、礼はまだ私の味方だというの。これは親たちが勝手に決めたことで、お前の本心ではないというのかい?」

 朔はまた、震えるような泣き声を出した。

「礼!私を姉と慕ってくれた、礼よ!私のことをまだ姉と思ってくれているのなら、実言を私に返してよ!私は実言のことをずっと思ってきたのよ。それはお前が一番分かっているはずじゃないか」

 今度は、声音をずっと低くして、囁いた。

「そう、だから、お前が死ねばいいんだ。今からでもいい。死んでおくれ。そうすれば、実言は私のところに戻ってくる」

 そこへ、菓子を載せた盆を持ってきた縫が現れた。

礼の右顔に触れる寸前まで顔を近づけて、今まで知っている朔とは思えぬような声と、言葉を吐き出しているのに驚いた。

「朔様!」

 縫の声に、朔は顔を上げた。

「礼!礼!私だって、実言のためならこの左目なんて惜しくない。いつでも差し出すつもりだ。なのに、なぜ、お前が差し出したのだ。……お前など、あの矢に射られて、死んでしまえばよかったのに」

「朔様。もうおやめくださいませ!」

 縫が近寄り、礼から朔を引き離そうとしたが、その手に触られないように、朔は立ち上がり、そのまま部屋から出て行った。

 朔。それは本当?私が実言の許婚になったって。もし、本当なら……本当なら……朔の言う通り、あの時、私はあの矢に射られて死ねばよかった。

 礼は、朔の悲痛な叫びを最後まで聞いた。そして、その後自分がどうなったのか覚えていない。

 縫は、礼の枕元に座って、礼の様子を窺った。右目から幾筋もの涙を落としながら、礼は意識をなくしていた。

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