第8話雨の夜

しとしとと冷たい小雨が幸村雪の小さな肩を濡らす。

白いマントの襟部分をぴったりとしめ、しみ濡れるアスファルトの道をトボトボとうつむきながら歩いていた。

体は疲労に支配され、足取りは重い。

鉛のように重い。

ぜえぜえと息切れし、肺が苦しい。

足を引きずるように歩き、彼女は三成実知が大家をつとめる下宿に向かっていた。

早く家に帰り、熱いシャワーを浴び、実知のつくる美味しい料理を食べたい。

さいぜんから胃が存在を証明すべく、ぐるぐると悲鳴をならしていた。

ずれるマントの位置をなおす度に切り裂かれた衣服の間からのぞく皮膚の部分が外気にさらされ、不快で寒かった。

両手でマントをあわせなおすと、はだけた肌を風がなで、あのときの感覚を思い出させた。

心の奥底の片隅の一辺にあの快楽をもう一度味わいたいという、汚れた欲望が小さな小さな種火となってごくごくかすかではあるが、確実に燃えていた。

それは薬物中毒者のあってはならない欲望に似ていた。

人間はなんと欲望と快楽に弱いものだろうか。

その気持ちが心をよぎるたびにかの女戦士アルフリードの赤い唇と胸の柔らかさとバラの香りが思い出され、どうにか正気を保つことができた。

気持ちを強くお持ちください。

あのバラの香りの記憶はそうアルフリードが語りかけてくれるような気がした。

しっとり濡れる髪の上に落ちる雨が何かによって遮られた。

白くむっちりとした肉付きのいい腕が黒い大きな傘を持っていた。

たれ目に愛嬌のある顔で雪の青白い顔を覗いていた。

「みやび……」

花柄のワンピースを着た豊満でスタイルの良い女性の名前を呼んだ。

下宿の同居人で親友の正宗みやびであった。

彼女はボリュームたっぷりの体で雪の細く小さな体を抱きしめた。

ちょっと熱いくらいのみやびの体温を体に感じ、安堵からか涙が頬をつたう。

「大丈夫、雪ちゃん……」

舌ったらずの声でみやびがいう。

彼女はマントの隙間から見える切り刻まれたままの服を着ている雪の体を、確認していた。

「偶然ね……私も仕事終わりなのよ。今日もテレビの撮影で疲れちゃった。一緒に帰りましょう」

愛らしい顔に魅力的な笑みを浮かべ、みやびは言った。

自分のことは語るが、雪の事情はあえて聞かない。そんな優しさがみやびにはあった。

「ありがとう、みやび。そうね、お家に帰りましょう」

こくりとみやびは頷き、さらに濡れるのもかまわずに雪の肩をだき、二人で相合傘をした。明るい色のみやびの髪もじっとりと濡れた。

だが、彼女らの目の前に夜の暗がりの中から、雨にまったく濡れていないゴシックロリータの装いの美少女があらわれた。


うつろな瞳孔の開いた目で少女は、彼女らを見た。

薄い目には見えない透明な膜のようなものが、美少女のまわりに張り巡らされ、雨から彼女の衣装を守っていた。

「あなたが、私の新しい体なのね。かわいいわ。実に素晴らしい体だわ。」

異常な美少女のもたらす空気感に気圧され、雪は震えながらみやびの腕に抱きついた。

目の前に立つゴシックロリータの少女は紛れもない魔術師だ。

彼女がまったく、水滴ひとつも濡れていないのが、なによりの証拠であった。

そしてその瞳に宿る狂気はあの水原武瑠と同様のものであると、そう本能がつげていた。

「さあ、私と、瑠美と一緒に来なさい。そうしたら、もっともっと素晴らしい快楽をあなたにあげる。それは普通の人間からは味わえない極上の快楽よ。私とひとつになることによって、武瑠から愛される存在になれるのよ。これ以上の幸福はこの世にはないのよ」

まばたき一つせず、美少女は言い、血の気のない手を差し出した。


その手は絶対に掴んでいけない。

絶対に掴んではいけないのだ。

醜い欲望に負けたことになる。

人間ではいられなくなる。


すっと正宗みやびは雪と美少女との間に立つ。

「持っといてね」

そう言い、愛用の黒いコウモリ傘を雪に持たせた。

両の拳を腰にあて、きらりと目の前の美少女を睨みつける。

「なんだ、貴様は。邪魔だてするなら、容赦はせぬぞ、牝豚め」

指で鉄砲の形をつくり、人差し指の先端をみやびの顔にむける。

瞬時に水滴が指のまわりにあつまり、弾丸を形作る。

手を軽くひくと、水の弾丸は発射され、みやびのふっくらとした頬をかすめる。

その白い頬に赤い線が薄く走る。

唇まで流れた血を舌を伸ばし、ぺろりと舐めた。

「次はその額を撃ち抜く。さがりおれ、肥えた牝豚よ」

悠然とかまえ、ゴシックロリータの美少女こと瑠美は言う。

「二度も豚っていったわね。もう怒ったわ。ただじゃおかないんだから」

頬をふくらませ、みやびは言った。

ただその姿は、本当に怒っているかわからないほど愛らしいものであった。

「なんだ、何ができるというのだ。魔力を持たぬ劣等人種よ」

大きな瞳で、見下し、瑠美は言った。

「さて、どうかしらね」

うふふっと笑みを浮かべると、みやびは慣れた手つきで愛用のハンドバックから一冊の本を取り出した。

夜の闇の中でも映えわたる黒皮の書物であった。黒きダイヤモンドのようなうつくしさと魅力がその本の装丁にはあった。


その本を見て、まさかと思い、雪はごくりと息と唾を飲み込んだ。


「魔書‘’ドラキュラ伯爵‘’よ、その力をわが前にしめせ‼️」

そう天に向かい叫ぶとみやびの豊かな体が夜でも際だつほど漆黒の闇におおわれた。巨大な闇の繭玉となった彼女はぐるぐると回転を始める。

一瞬にして繭玉は闇のタキシードとマントに変化し、それを身にまとったみやびがあらわれた。ぴったりとはっきりと体のラインがわかるタキシードにマントの裏地は鮮血のように赤い。胸元は大きくはだけ、ボリュームたっぷりの谷間がくっきりみっちり見えた。

口の両端にはきらりと光る二本の牙。

頬の傷はきれいに消えていた。

「我が名はアルカード。人呼んで串刺し公ドラキュラなり」

ハハハッと高笑いし、正宗みやびは叫ぶように言った。




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