「っ!……寒い……」

 いつもの悪夢に魘され、いつもの時間に目が覚めた朝。レオンの体に軽く降り積もった雪は、寝起きの体温を確実に奪っていた。その悴んだ体をゆっくりと動かし起き上がろうとする。ふと、横をみれば、いつもはここで静かに酒を飲んでいるナナキの姿がない。おそらく防寒着の買い出しやらに行っているのだろうか、夜までに戻らなければ炙り出そうと。淀んだ思考で、徐々に目を覚ましてゆく。

『よう、早いお目覚めだな』

「……はぁ、夢じゃなかったのか」

『残念、現実だ』

 ようやく目を覚まし始めた頭の中で、しゃがれた老人の声が響く。昨日から急に蘇った鎧の右腕に取り付いたアルムの声に違いなかった。

『随分とひどい目にあったんだな、お前さん』

「……人の頭の中、勝手に見るんじゃねぇよ」

『見えちまうんだからしょうがないだろう。それに、こちらとしては好都合だ』

「何がだよ……全く……」

 体を起こそうと左腕を地面に着こうとするが、次の瞬間。体の右側が大きく持ち上がり、まるで跳ね上がるように体を叩き起こした。それもそのはず、レオンが左手を着く寸前で、右腕のアルムが思いっきり地面に手をついて力を込めたのだ。

 そのお陰で、レオンは大きく体のバランスを崩し地面に尻餅をつくことになる。

「っ……痛ぇなっ、何すんだよっ!」

『ありゃ、力加減間違えたか。悪い悪い、というか坊主。もっと食って体大きくしねぇとダメだぞ?』

「余計なお世話だっ!」

 倒れた地面で、レオンは再び左腕を着こうとするが。今度は、雪の積もった地面に優しくアルムの右腕が添えられる。

「……行くぞ」

『三、二、一』

 アルムのカウントともに、体の重心を持ち上げるレオン。今度は、うまく立ち上がることができた。そして、体についた雪を払うようにレオンは左腕を動かすと、それに合わせて今度は右腕の鎧も同じ動作で雪を払ってゆく。

『これで生活に困らないだろ?』

「まぁ……な」

 レオンの頭の中で次に行う動作を予想し、それに合わせてアルムもまた右腕を動かす。すなわち、あくまで右腕を動かすのはアルムの意思ではあるが、レオンの頭の中を見ることにより一人の人間のようにレオンの動きに合わせることができるのである。

「ん……?」

『ありゃ、嬢ちゃんはどこ行ったんだ?』

 レオンが立ち上がり周りを見渡すと、レオンの隣で眠っていたはずのナインの姿がどこにもないのである。雪の積もり具合から、レオンよりも先に起きたことはわかるが周囲を見渡してもどこにも姿が見えないのである。

「トイレか……?」

『……おい、坊主。耳を澄ませろ』

「は?」

『いいから澄ませてみろって』

 軽くため息。アルムの言われた通り、レオンが耳を澄ませる。聞こえてくるのは、起き始めたホームレスたちがそれぞれ自分の食い扶持を稼ぐためにゴミや、鉄くずを集める準備を始める音。だが、同時に普段は聞こえてこない話し声にも似た雑音がレオンの耳に届いた。

(嬢ちゃん……次はこっちを頼むわ)

(次は俺の番だろ、抜け駆けしてるんじゃねぇよ)

(みなさん、順番に並んでください。ちゃんとシテ差し上げますから)

 頭の血管が一瞬切れたかとレオンは思った。自然と右腕のアルムはホームレスの簡易住居の骨組みをへし折り一本の凶器を作り上げる。一歩前進するたびに、足元の雪が溶けるのではないかと思うくらいにレオンの体から怒りの熱が発せられる。

 いくら昨日会ったばかりの少女とは言えども、一度面倒を見ると決めたからには責任というものがある。況してや、いくら何もかもを失ったとはいえ大の大人が寄ってたかって小さな女の子に溜まりに溜まった欲望を吐き出すとは情けないのにもほどがある。

『全員ぶちのめす』

 もはやアルムには生身の体が無いのにも関わらず、その鎧の右腕から禍々しいオーラが放たれていた。レオンも同様、頭に血が上っているものの左手首をボキボキと鳴らす始末である。その声は、路地裏の曲がり角。何か良からぬことを企むには十分に人目から外れた場所だった。

 確かに、この奥からナインの声と知った声が聞こえてくる。

『悪い、抑えが効かなかったら』

「……おいっ! 何をやっているっ!」

 アルムの声を無視し、路地裏で大きな声を張り上げる。それを聞き、路地の中で暗闇が微かに蠢く。同時に、どこか狼狽するような姿。その姿を見て確信したのだろうか、右腕のアルムが持っている骨組みを壁に叩きつけた。

「ヒッ……な、なに怒ってるんだよレオンっ!」

「惚けるな。お前ら、こんな子供相手に一体何をやって……っ」

「ご、誤解だっ! 俺たちは、ただ傷を治してもらおうとして」

「……は?」

 アルムの叩きつけた赤煉瓦の壁の一部がパラパラと砕けて崩れる。同時に、薄暗い路地の向こう側で淡い光が発せられているのが見える。それに照らされ、数人のホームレスの連中が怯えた表情でレオンの方を見ていた。

 そして、その光の発生源。それは、ナインだった。

「終わりました。次の方、どうぞ。レオン様、おはようございます」

「……何をしてるんだ」

「怪我をした方や、傷を負った方がいたので治癒をしていました」

 深々た頭を下げながら淡々と話すナインの様子をレオンは黙って見ていた。鎧の右腕から力が抜け、握りしめていた骨組みの棒が軽い音を立てて地面に落ちた。

「……申し訳ありませんでした。出過ぎた真似を……」

「いや……いい、勘違いをしたのはこっちだ。すまない」

 レオンの肩から力が抜け、大きく息を吐き出す。その様子を見ていた周りのホームレスたちもほっと息を吐き、軽い笑い声が寒空に響いた。そんなレオンの背中をバンバン叩きながら先ほどのホームレスが話しかけてきた。

「おいおいレオンさんヨォ? 何想像してたんだ?」

「……ほっとけ」

「いくら溜め込んでるからって、こんな嬢ちゃん相手にするほど落ちぶれちゃいねぇよ。いやなぁ、この嬢ちゃんがこの前怪我したところに布巻いてるの気づいてくれて『治せる』なんていうからよ。他にも怪我してる奴らを呼んで治してもらったのさ」

 『それに俺は、もうちっと成長したネェちゃんがいいし』などとホームレスが零し、その言葉に周りの人間も賛同するように笑顔で大きく頷いた。その様子をレオンも、そしてナインもどこか不思議そうな表情で見ていた。レオンがここにきて約三年近く経つ、その間笑い声なんか聞いた記憶がなかった。周り人間が笑っているなんて、一体いつぶりだろうと。

 自然と、レオンは自分の口角が持ち上がっているのがわかった。

『はぁ〜、いやいや。危なかった、勘違いでよかったなぁ坊主』

「元はと言えばあんたのせいだぞ」

『いやぁ、すまんすまん』

 カチャカチャと音を立てながら手を振るアルム。雪の上を再び溜息を零しながら座るレオンに、ナインが近く。少し、申し訳なさそうな表情をしている彼女の頭を、アルムは優しく撫で始めた。同時に、彼女の前髪が少しずれて幼い彼女の表情が露わになる。

「……あ」

『……なんだよ……これは』

「……申し訳ありません。醜いものを見せてしまい」

 アルムの手を解き、前髪で再び顔を覆うナイン。レオンの脳内で、アルムの唖然とした声が、レオン自身は目の前で目に写り込んだ光景に唇を噛み締めていた。

 それは、レオンが救うことのできなかった未来の一つでもあった。

 本来、人の形をしているのであれば必ずなくてはならない器官。今レオンの目の前で前髪を覆いながら隠しているナインの顔。本来であれば、右目があるところ。彼女の顔には、そこが黒くぽっかりと穴が空いていたのだ。

「……誰にやられた」

「……前の主人に、火箸で殴られて」

「それで売りに出されたのか」

 静かに頷くナイン。その様子を、周りにいたホームレス達は下を俯きどこか哀れんでいるような表情をしていた。レオンはといえば、どんな言葉をかけて良いのか全くわからなかった。ナインが右目を失った理由、それはモラルのない南側の人間が行った暴力行為だ。彼女は一生この傷を背負って生きてゆくことになるだろう。

『……儂達は、勝つべきではなかったのかもなぁ』

 こんな小さな子供が傷つけられて、平気でいられる世の中なのだ。弱い人間が強い人間に組み伏せられて平気でいられるのが今の世の中なのだ。そして、レオンが防ぐことのできなかった、今の世の中だ。

「レオン様……?」

「……行くぞ、今日も仕事だ」

「は、はい」

 逃げるように目を背けたレオンは、ナインに背を向けて路地を抜ける。その後ろ姿を、ナインは慌てて追いかける。レオンの左手は固く、爪が食い込むほどに握り締められそこからこぼれた血が真っ白に塗り替えられた地面に点々と赤く色をつけてゆく。

 既に諦めたはずだった。

 自由のために戦って、そして負けて。それは既に望むべきではないと理解していたはずだった。だが、それでもレオンは。あの少女の姿を目の当たりにした時。ただただ悔しいと思ってしまったのだ。

 いつもの道は、雪で真っ白に塗り替えられ。立ち並ぶ民家から、暖かそうな暖炉の光が漏れていた。しかし、大きな黒い煙を轟々と吐き出しながら、レオンとナインの隣を黒い鉄の塊が走り去ってゆく。その隙間から見えるのは虚ろな目をした奴隷達。

 その姿がただただ腹立たしかった。

「本日の依頼になります」

「……え?」

「あ、いや。その……こちら依頼です」

 ギルドの受付にて。レオンは気づけば目の前で、怪訝そうな表情を浮かべたいつもの受付嬢が書類と貸し出し用の鉈を差し出していた。ワンテンポ、レオンの反応が遅れたことにいつもの流れと違うことを感じ取った受付嬢がさらにレオンの顔を覗き込む。

 受付嬢の視線から目を外すように、レオンは少し下の方へ目線を向けた。

「……この依頼、あと少しだけ増やせるか?」

「え、あ。はい、少々お待ちくださいませ」

 レオンの視線の先。そこには寒さで身を縮こませ、レオンの体温にすり寄っている薄着のナインの姿があった。ギルド内で炊かれている焚き火程度では、この日の気温はあまりにも暴力的だった。幸いにも、レオンの腰につけた麻袋の中にはナナキに渡したものとは別に取って置いてある金がある。依頼で受け取る金も合わせれば、子供の防寒着の一つくらいは買えるだろうとレオンは思った。

「お待たせいたしました。依頼内容とは別での採取も記載させていただきました」

「……ありがとう」

「こちらこそ、どうぞ。お気をつけて」

 何もかもを失って三年。ギルドに通い詰めて、初めての会話だった。

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