頬を何かが伝う感触でレオンは目を覚ます。ゆっくりと目を開けると、ぼんやりとしたレオンの視界に、土色と緑色の何かが映り込む。朦朧とした頭で肌に突き刺さる冷たい雨から考えられるのは、まず生きているということ。そして、どこか外で気絶をしていたということである。

「……っあ、いっ」

 体を起き上がらせようとするレオンの脇腹に鈍い痛みが走る。はっきりとしたレオンの視界に写り込んだのは脇腹に血でベットリと汚れた布が押し当てられ、ひどく雑で手馴れていない感じで応急処置らしきものがされているのが理解できた。

「……いてぇ」

『おい、まだ安静にしてろよ。傷が開いちまう、抑えててやるから』

「すまな……っい!」

 あまりにも自然なやり取りに淀んでいたレオンの思考が一気にクリアになった、一体誰が自分の頭の中で語りかけてきたのかと。すぐさま、首を動かし周囲を見渡すも、周りにあるのは木と草、そして土のみで人のいる気配が全く無い。そして、同時にレオンの目の前であり得ないことが起きた。

 鎧の右腕がギリギリと音を立てて動き出したかと思うと、レオンの傷口を抑え始めたのである。『よう、若造。死に急ぐには若すぎやしねぇか?』

「……お前……本当に、俺の右腕……いや、鎧?」

 嗄れた老人のような声が頭に響くのと同時に、レオンの目はさらに見開かれる。周囲に人がいないことはすでに確認済みであり、このレオンの頭に響く声は紛れもなくレオン自身が生み出した妄想や幻聴の類では無い。そして、決して動くはずのない右腕の鎧が頭の中の声の通りにレオンの傷口を抑えているのだ。故に、出た結論は。

 この声の張本人は紛れもなく、レオンの鎧の右腕。

『応よ、儂はアルム。アルム=マフタン。どうする、握手でもするか? ん?』

 レオンの傷を抑えていた鎧の右腕が、なんとも親しげにその右腕を差し出す。全くもって、自分の右腕に握手を求められるなど稀有な体験だと思った。しかし、それ以上に『アルム=マフタン』という名前にレオンは聞き覚えがあった。

『その様子じゃ、儂の名前を知っているようだな? そりゃそうだろうとも。お前さん、北軍最強の剣士であるのなら、そう。儂は、南軍最強の槍兵と言われていたからなぁ』

 アルム=マフタン。レオンはその名前をもう一度頭の中で噛み締めると生唾を飲み込む。南軍が『スチーム』を用いた最新兵器に重点を置いた戦いの中で、唯一神に触れるような槍術を操る古強者が戦場にいると北軍で話題の男の名前だった。そんな、神にすら届くと言われる男が、レオンの鎧の右腕の中にいるというのである。

「そんな……まさか……」

『だろ? 儂だって思ったわ。だが、その証明っていうのかねぇ? 見ただろ、あれ』

 確かに先ほど盗賊の前で、奇跡のような技を目にした。かつての戦友を殺したあの技は、紛れもなく神にすら届きそうなほどの技の冴えだった。そして、それの技を繰り出したのは確かに、今まさにレオンの右腕にはめ込まれた中身のない空っぽの南軍『ディスト』の、鎧の右腕なのである。『ま、信じようが信じまいがどうでもいいがな。それにしても、坊主。なんで儂がお前さんの右腕なんかに入っちまってるんだ?』

「……そんなの、俺が聞きたい」

 目の前で起こっている出来事に、レオンは頭の整理が追いつかなかった。先ほどまで、死んだと思っていた戦友と対峙し、ましてや殺し合いをした直後に、決して動かないと思っていた鎧の右腕が動きだし、目を覚ませばその右腕は三年前南軍『ディスト』にて神槍と呼ばれたアルム=マフタンと名乗ったのだ。

 整理したところで、到底まとめ上げることのできない内容だった。

「そういえば……あんたは俺のこと……知ってるみたいだな」

『応さ、北軍ユートにて。最強の剣士、ディストのスチーム駆動の戦車を物ともせず叩き斬りながら戦場を駆け抜けた。こっちじゃ、お前さんは『ハウンド』って言われてたんだぜ?』

 ハウンド。レオンは、嫌な記憶を掘り起こされた。その単語を聞いたのは、実に三年前。あのロベルトと呼ばれる将校の口から出たものだ。猟犬のような素早さで、戦場で標的を狩ってゆく姿についた名前がそれだったらしい。

「手当はあんたが……?」

『いんや。たかが右腕にここまで運んで手当できると思うかい?』

 頭の中で響くアルムの声に、仮に右腕が動いたとしても。先ほどの場所から離れて、山の中の木陰にレオンの体を運ぶのは難しいだろうと思う。だとするのならば、一体誰が。と、レオンが周りを見渡していると後ろの方から草の揺れる音が聞こえた。

「っ!」

 追っ手が来たのかと、レオンがすぐさま立ち上がろうと左手に力を込めるが。もはや、立ち上がるほど体に力と血が残ってはいなかった。抵抗しようにも武器がなかったことを思い出し、なされるがままと体の力を抜き、レオンは静かに目を閉じた。だが、突然鉄で頬を軽く叩かれるような感触が走る。

『おい、安心しな。敵じゃねぇよ』

「え?」

 ペシペシと、右腕の鎧がレオンの頬を叩き。頭の中に聞こえて来たアルムの言葉にゆっくりと目を開ける。灰色の空が割れ、そこから太陽の光がのぞいた。そんな雲の割れ目からのぞいた太陽の光を背後に、一人の子供のような人物のシルエットが映し出される。

「……君は?」

「助けていただき。ありがとうございます」

 逆光で映し出されたシルエットの頭には人間ではない、獣の耳が乗っかっていた。そして、その体のラインからひどく痩せているものの少し女性らしい体つきをしていることがわかる。再び、雲が太陽を隠した。

 雲が隠れるのと同時に、その少女は深く深く頭を下げる。

「逃げなかったのか……?」

『この嬢ちゃん。お前さんをここまで運んできてくれたんだぜ?』

「……君が、俺を……」

 その子供は、ゆっくりと頭を上げる。全く手入れのされていない黒く濡れた長い髪が持ち上がり、その顔が露わになる。ひどく痩せこけた頬に、おそらくレオンの血で汚れた顔。濡れた前髪が少女の顔に張り付いて、その隙間からまっすぐと左目がレオンのことを見つめていた。

「これも……君が?」

「はい」

 傷口を押さえている右腕が親指をあげ、少女の前に突き出す。それを見ている少女の目はまるでガラス玉のように無機質で、表情も蝋人形のように貼り付けられたものにレオンは感じていた。

 しかし、そんな姿もレオンの前で徐々に歪みだす。レオンの体を回る血液のほとんどは体から抜けてしまったのだ。同時に、レオンは自らの死を悟っていた。

「……すまないが……俺は、多分死ぬ」

「……」

「いずれ、ここにも……っ……憲兵どもが押し寄せるだろう」

 山の向こう側とはいえ、小さな騒ぎではなかったのだ。もしかしたら山の中でこの光景を見ていた人間がいたかもしれない。そうなれば、当然この騒ぎの首謀者であるレオンは捕まる。そして、目の前の少女は憲兵隊に引き戻され再び奴隷として使役させることになる。そうなる前に、レオンにはこの少女に逃げて欲しかったのだ。

「……頼む」

『それで坊主、お前さんが死んだら元も子もないだろう』

「黙れ……別段……俺が生きたところで。何も変えられん」

 徐々に視界がまた暗く閉ざされ始める。意識もまたどこか遠くに昇りそうな感覚に、レオンは死を許容し始めた。今更無益に生きたことに関してただの嘆きも、後悔もない。しかし、それでもたった一人でもいい、手を差し伸べることができたのなら。レオンは徐々に瞼を閉じてゆく。その眠りに体を委ねるように体から力を抜いていった。

 しかし、突如。傷口に暖かな痛みが走った。

「……何をしている?」

「嘘はつかないでください」

 その暖かな痛みは、少女の翳した小さな手から淡い光を通してレオンに伝わっていた。この光は、戦場で見たことのある光だった。魔術の最奥にあるとされる『治癒』の技。普通の人間ならまず使うことのできない、魔術の鍛錬の果てに身につく技である。とてもではないが、奴隷の少女が使える技ではない。

 しかし、その光は紛れもなく。レオンの傷を癒していた。

「あなたは何も変えられないわけじゃありません。あなたは、私の運命を変えました。あの場で殺されるはずだった私を救いました」

 傷が塞がってゆく。そして、遠くに飛びそうだった意識を自分の物だと確かめるように、レオンは左手をゆっくりと動かす。

「あなたに尽くします。あなたにいただいた、残りの人生。あなたのために使わせてください」

 傷は完全に塞がった。同時に、目の前の少女の深く頭を下げる姿に唖然とする。

『だとよ、坊主。どうする?』

「どうするって……」

 目の前の少女は奴隷である。首に魔法陣の焼印を押され、国が管理をする正式な奴隷である。それゆえ、レオンのようなホームレスが持っていたところで宝の持ち腐れのようなものだ。奴隷の管理にも義務があり、その一つが『奴隷に最低限の衣食住を与えなくてはならない』というのがある、所詮道具扱いしていても人間なのだ。道具でも手入れをしなくては長く使うことはできない。当然ながら自分の生活だけで苦労しているレオンにそんなものが用意できる余裕などあるはずがなかった。そもそも、そんな義務が無くとも一人の人間を養うという上では人として当然な話ではあるが。

『儂は別に構わんが?』

「シレッと話に入ってくるな。あんたのことについても全然解決してないんだ」

 思わず左手で顔を覆うレオンだった。この短時間に、右腕の鎧が勝手に動き出し、人格を持って脳内で話しかけてくる、そして助けてしまった奴隷の少女に残りの人生を尽くさせてくれと懇願される。一気に増えてしまった問題に頭の処理が追いついていなかった。

 そんな彼の悩みきった表情を見かねたのか、少女は腰に巻かれている紐の端に結ばれた小さな麻袋に手を伸ばす。

「お金のことですか?」

「え……まぁ、それもだが」

「なら、これを使ってください」

 少女の小さな手から差し出されたもの。それは、この世界の通貨である『ディスト』の紋章が刻まれた紙幣の束、そして大小様々なコインがその麻袋の中にこれでもかと詰まっていた。

『すげぇな』

「……これをどこで?」

 勝手に右腕が動き、その麻袋の中身を弄ろうとするのを抑え込みながら混乱した頭でレオンは聞き返す。麻袋の中身をザッと見ただけでも、あのホームレスたちに冬を越させるだけの金額が中に詰まっていた。レオンは生唾を飲み込む。正直に言えば、喉から手が出るほど欲しい、しかしおそらくこの金は奴隷商の馬車から盗み取ったものだろう。

 それに、手を染めていいのだろうか。

『いいに決まってるだろう。汚い金だろうがなんだろうが、最後に生き残った方の勝ちだ』

「うるさいって言ってるだろうっ、人の頭の中に勝手に入ってくるんじゃねぇっ」

 アルムの言葉で、レオンはさらに左手を深く頭にめり込ませる。しばらく、機能が停止したように動かなくなったレオンをじっと見つめながら待つ少女。やがて、何か諦めたように軽く声を漏らしながら顔を上げた。

「……春までだ。春まで面倒を見てやる」

 これから冬がやってくる。ただでさえ、過酷な環境と時期になるのだ。ならせめて、春になるまでこの少女の面倒をみよう。と、レオンは妥協した。確かに、助けておいてそこからは放任というのも無責任な話である。

 なんてことを、レオンは無理やり自分に理解させた。

『いいぞ坊主。男なんだ、女の一人や二人。養えなきゃたかが知れてるってもんだぜ』

「黙れ、とにかくあんたのことについても帰ってから詳しく聞いてやる」

 と、レオンが発言をしたところで気がついた。ここに来るまでの道中、何かを忘れてはいないかと。そして、しばらく考え込んだところでようやくその答えにたどり着いた。

「しまった……鉈」

「私が探しに行きましょうか?」

「すまない、手伝ってくれ。えっと……」

 少女の名乗りに助かったものの、その少女の名前を知らない。言葉に詰まるレオンを見て、少女は黒く長い髪を上げて、首筋に刻まれた数字の焼印を見せる。

「九番と呼ばれていました。どうぞこれからも」

 奴隷として生まれたからには、名前がないのは当然である。人として扱わないのなら与えられたそれはただの製造番号だ。しかし、レオンは一人の人間として、一人の少女として彼女のことを対等に見ている。故に『どうぞ、これからも』という言葉を聞き入れる訳には行かないのだ。

「……ナインだ。お前のことをこれからナインと呼ぶ。いいな?」

「……かしこまりました、命を助けていただいた上、名前まで頂くなど身にあまる光栄です」

「俺はレオンだ。よろしく頼む」

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