3
体を大きくビクつかせたレオンは朦朧とする意識の中、視界が徐々に像を作るまでぼんやりと横たわっていた。同時にレオンの鼻先に冷たい雫が滴る。すでに、レオンは山に入った昨日の時点こんな予感はしていたが、ホームレスにとっての寒さに次ぐもう一つの敵に雨がある。ただでさえ、屋根のないを暮らしをしている以上、濡れた体で一日を過ごすのは非常に体力を消耗する。これで風邪を引こうものなら終わりだ。
「おはようさん。少しはいい夢みれたか?」
「……くたばれクソジジィ」
「へっへっ、あと十年は生きなきゃなぁ」
「……雨か」
「今日はどうするんだい?」
「……いつも通りだ。ギルドに行って山に入って依頼の報酬をもらって食って寝る。いつもと変わらないさ」
「そうかい。こんな日くらい休んじまえばいいのによ」
「……何もしないのは落ち着かない」
ナナキの手を借り起き上がったレオンは、いつも通りギルドへと向かおうと足を進める。細い路地を抜け、大通りに出ると人通の多い道も雨の日に限っては石畳を雨が弾く音で混雑していて、肝心の人間たちは形を潜めている。
いつも通り、レオンの横を黒い煙を吐き出しながら路面機関車が大きい音を立てて通り過ぎて行く。そんな車両の隙間でふと、道端に放り出される人影を見た。
大きい音を立てて締め出された扉。そして、泥だらけの体で必死に扉を叩き地面に頭を擦り付けて何やらブツブツと喚いているその姿は哀れさを通り越して、レオンには滑稽に思えた。
「明日から仲間だな、あいつも」
やがて、諦めたかのように雨に打ちひしがれながら反対側の路地を泥のように進んでゆくその姿は人のそれではない。奴隷に一番多く扱われる種族、人の姿をしているのにもかかわらず人にないものがある穢れ呪われた種族の『獣人』。ホームレスにいる連中の大半はそうで、逆に言えば、レオンや、ナナキのような人間の方が珍しいのである。
目の前で新たな仲間が生まれた瞬間に、特になんの感情が湧くわけでもなく。ただただ嫌なものを見てしまったとだけ。ギルドへとレオンはその足を急がせる。
「依頼内容はこちらになります」
「……どうも」
いつもと同じ内容。
いつもと同じやりとり。
いつもと同じ自問自答で喉に支給品の錆びた鉈を押し当てる。
「一体何をやってるんだか」
そんな言葉を繰り返すようになってからは、もう末期だった。どうせ、ロクでもない死に方をするくらいならと。とっくに消え去ったはずの騎士道なんたらが奥底で窒息寸前と言わんばかりに息をしているわけだが、それを頭から水の中に押さえつけるように左手で鉈を振るって薬草を刈り取ってゆく。
飛び散る雫と、草木、土。
記憶にあるのは、飛び散る無数の血と、人の頭、触れ合う剣の火花。
あの時。なぜ、レオンは生かされたのか。ここ三年間、悩みに悩んで生かされている理由がいまでも彼を苦しめていた。全てが終わった、三年前のあの日。人々がむせび泣き生を懇願していたのにもかかわらず、何一つ余さずレオンの大切なものを刈り取って行った三年前は、なぜ彼を生かしたのか。
「……痛い」
頭痛がした。
先ほどの言葉には語弊があった。なぜなら、レオンのみ。あの中で生を懇願せず。死を懇願していたから。何もかも失ったものに生きる理由など存在しない。生きていたとしても、待っているのは苦痛のみ。ならいっそ、楽になればよかったのだ。しかし、与えられたのは死ではなく。生きる権利だった。それでも、レオンの前で剣を突きつけた彼らはしっかりと奪い取るものは奪い取っていた。
それが、今のレオンの右腕である。
彼らは、右腕を切り落としその上、まるでバラバラにした人形の手足を入れ違いでくっつける子供のように敵軍の鎧の腕を無理やり魔法で繋ぎ止め放り出したのである。当然、剥がすことはできない、仮に剥がしたところで死んでしまう。それに、そもそも剥がすために必要な金がない。「あぁ、鬱陶しいっ」
鉈を持ったまま、雨に濡れて張り付いて長い前髪をレオンは乱暴に掻き上げる。視界が濡れたまま作業を続けていて、その上足場も悪かった。次の瞬間、ぬかるんだ地面に足を滑らせレオンの視界は灰色に染まった空と木々に覆い尽くされる。
そのまま、下へ、下へと。
泥にまみれ、木々にぶつかり。時折、右腕が鈍く軽い音を鳴らして。落ちるところまで落ちて、岩に当たったところでようやく止まった。しばらく、死体のように動かなかったレオンはやがて思い出したかのようにゆっくりとその体を動かす。
「いてぇ……」
左手で頭を抑えると、ぬるりとした感触と鋭い痛みが走った。少し霞んだ視界で左手をみれば血で濡れていることがわかった。どうやら木に引っかかって頭皮を切ったらしい。このような怪我は日常茶飯事だ。ただ、こういった傷口を最後に死んでいった奴らを知っているというだけで。
ただ、それだけのことだ。
「……鉈がない」
雨のおかげで多少なりとも意識を自分に向けるのは早かった。そこで初めて、レオンの左手に収まっていたはずの鉈が姿を消していることに気づく。そして、そのことに気づいたレオンは寒さのせいもあってか一気に顔色が青ざめた。
ギルドの支給品である以上、紛失、破損は自己責任である。ただでさえ日々の生活に困窮している人間が生活の要である商売道具を無くしたとなれば大事だ。
「クソっ」
レオンは立ち上がりながら、先ほど自分が転がり落ちてきた斜面を睨みつける。鉈が落ちているのならばきっとここら辺だろうと泥まみれの地面を必死に食いつきながら斜面を登ってゆく。しかし、レオンの右腕の鎧が邪魔になり全く登ることができない。
何度這い上がろうと足掻くも、右腕が邪魔で登れない。
「クソ、クソっ、クソっ!」
左手の指の爪に土が食い込み、土を舐めるように進んでゆくもぬかるんだ地面は容赦無く足場を崩してゆき、結果登ることはできず。レオンは再び岩に体をぶつけ、しばらくして諦めたように後頭部を岩に押し付けるようにして雨滴る曇天を見上げ、大きく白い息を吐いた。
吐いた息は遠くの空に昇って消えてゆく。顔面で雨を感じながら、頬を伝う雫になんの感情など湧かず。どうしてこうなったのだろうと、後悔ばかりが募る。
嘆き、
未熟、
矛盾、
そんなどうしようもない感情の渦を抱えて生きてゆくのなら。そろそろ、本気でここから身を投げてしまえばいっそ楽になると思った。レオンの背中にある岩の後ろは、命を落とす分ならちょうどいい高さの崖があった。
「あぁ、もっと早くこうすればよかった」
そう。もっと早くにこうすれば、楽になれたのだ。
一歩、足場が大きく崩れ土に混じった大きな石が崖下へと転がり落ちてゆく。もう一歩先にゆけば楽になれる、目の前に広がる灰色の空がそんなことを物語っているように感じた。
「っ……」
しかし、一歩踏み出す寸前。全く足元を見ていなかったせいなのか。それとも、雨の音で全く周りの音が聞こえていなかったかはわからない。レオンの下にあるのは、大きな山道。そこで一台の馬車が立ち往生していた。
「……奴隷商の馬車か」
馬の後ろについている荷台には鉄製の大きな檻。まるで家畜同然に運ばれているのは、多種族の少年少女、もしくは老人。おそらく使えない、もしくは使えなくなった奴隷を引き取り管理という名の飼育を、指導という名の躾を行い再び売りに出せるようにするつもりなのだろうと、レオンは下で停まっている馬車を見ていた。
「……」
馬車は一向に動く気配がない。おそらく地面に馬車の車輪を取られて動けなくなっているのだろう。それに関して、レオンは別段助けようとも思わなければ手伝いに行こうなどとも思わない。何よりも、レオンが誰かに救われたかった。
「……ん?」
しばらく馬車を眺めていて、馬車の様子がおかしいことにレオンは気づいた。立ち往生しているはずなのに、中に乗っている人間が一人も降りてこないのだ。奴隷商の馬車がぬかるみで立ち往生をしているのだとしたら、普通詰め込んだ奴隷たちを使って馬車を前に進ませようとするのが定石だ。
しかし、その理由もしばらくして理解した。
馬車の周辺にじりじりと近寄ってくる人間の頭が一つ、二つ、だいたい十ほど。みすぼらしい姿をしているそれらはレオン同様ホームレスの姿を想像させるが、唯一違う点があるとすれば各々手に持っている剣であろうか。そんな姿から彼等の正体を連想するのは想像に難くない。
盗賊である。
ジリジリと馬車に近寄ってゆく彼らは、最初に馬車の御者を一人刺し殺した。その間で何らかの会話が行われていたのは明白だが、雨と距離のせいでレオンの耳に届くことはない。しかし、馬車に繋がれた馬を連れ去り、馬車の荷台に積まれた奴隷の入った檻を盗賊が数人で開けた瞬間、雨に混じって悲鳴が微かにレオンの耳に届いた。
「はぁ……」
当然、レオンはその場を動くことはない。目の前で、盗賊たちが奴隷たちを表に引き摺り出して男どもを全員刺し殺し、そして女や子供はそれぞれ人攫いのように連れていかれる様を、ただただレオンは黙って見ていた。どこかでよくある日常、自分が救うことのできなかった日常。そんなものに今更手を出すのはあまりにも遅かったのだ。
「すまないな、今は自分で精一杯なんだ」
誰に聞かせるわけでもない言い訳を吐き捨てた後、レオンはその場を立ち去ろうと立ち上がる。今のレオンに、あれを救う手段はどこにもないのだ。そう、仕方がないことなのだ。
「そう、仕方がな……」
『本当に。そう思ってるのか、お前は』
突然、立ち上がったレオンの頭に響いた鈍い声。突如として聞こえたその声に、周囲に人間がいるのかと思い慌てて周りを見るレオンだが、周りにあるのは濡れた木々と雨のみ。空耳だろうか、しかしそれにしてはやけにはっきりと響いた声だった。
「……」
だが、立ち去る寸前のところで。もう一度だけ、崖下の馬車を見下ろす気になったレオンは立ったまま馬車のある崖下を見下ろす。そこでは、先ほどと変わらず。盗賊どもの蹂躙が続いていて、何をどうしようと助かることはない、一方的な虐殺が続いていた。
仕方がない。
本当にそうなのか、いや。そうに決まっているのだ。今、レオンが出たところで勝ち目などあるはずがない、況してや助けたところで身寄りのない奴隷たちに行く先などあるものか。そんなものはただのエゴに他ならない。
ここで死んだほうが、彼らにとって救いなのだ。
「っ……」
ふと、盗賊の一人が。奴隷の子供の手をひっぱり何処かへと連れ去ろうとする姿がレオンの目に写った。なんの抵抗もせず、何処かへと連れ攫われる様子をレオンはただ、ただ黙って見ていて。しかし、その少年だか少女だかわからない。その幼い子供のような姿の奴隷は、目の前で振り下ろされる剣を前に、呆然と。これから起こることを、さも当たり前のように見ていて。
そう、全ては仕方がないこと。
だったのか?
「クソッタレ……っ!」
寒さで強張る筋肉を叩き起こし、急な斜面を土砂に紛れながら走るように降ってゆくその姿は一匹の獣のようだった。レオン自身にも、よくわからなかった。なんでこのような行動に出た理由がわからなかった。突然、頭に響いた声のせいもあったのだろう。しかし、それ以上に何かがレオンの心の奥で燻っていた感情を呼び覚ましたのだ。
レオンが飛び上がったその刹那、剣を振り下ろす寸前で止まった盗賊と目が合った。
「え?」
素っ頓狂な声をあげた盗賊の顎にレオンの拳がめり込む。盗賊は顎の骨を完全に砕きながら吹き飛んでゆくと馬車の荷台に背中を思いっきりぶち当たり、体を大きく痙攣させると動かなくなった。レオンはビリビリと左手に感じる衝撃を感じながら、先ほどまで盗賊の手にしていた刃こぼれをしている剣を持ち、ゆっくりと立ち上がる。
「……」
どんな姿形をしていようと剣は剣である、レオンが剣を握るのは実に三年ぶりであった。そして、その音を聞き完全にレオンの存在に気づいた盗賊たちの視線が一気にレオンへと集まる。「な、ナニモンだテメェっ!?」
盗賊の一人が剣をレオンに突きつけながら問いただす。しかし、レオンはその質問に一切答えることなく突き出された剣を一歩踏み込むのと同時に叩き落とす。次の瞬間、盗賊の指の先から肘にかけて。目にも留まらぬ速さで輪切りに切り刻み、崩れた肉片がバラバラと土砂に散らばる。
盗賊は悲鳴すらあげる余裕もなく、次の瞬間には喉に剣が生え。池で溺れたようにパクパクと口を動かしたかと思うと、血の泡を吐きながら絶命した。
「馬車の中にいろ」
レオンは、血で濡れたその左手に突き刺さったままの盗賊の死体をまるでゴミを捨てるようにビシャリと地面に叩きつける。
「いいな」
襲われていた子供は、静かに頷くと馬車の荷台の中へと向かう。その姿を確認した後、レオンは軽く剣を振るい、血振りをした。だが、同時にその血振りをした時に後ろを向いていた彼に襲いかかろうと近づいてきた盗賊の両眼を横一閃に切り裂く。
「ギャァアアアアアアッッ!」
悲鳴を上げ、地面に倒れこんだ盗賊の背中を容赦無くレオンの剣が襲いかかった。二、三度背中を続けざまに刺したところで盗賊の悲鳴は消える。
「……」
その間、レオンは終始無言だった。戦争で多くの人間の命を奪ってきたレオンにとって今更盗賊ごときの命を奪うのに何の感情も湧いてはいなかったが。それ以上に、なぜこの場に自分が立って、盗賊の手からあの奴隷の子供を救ったのだろうと。一種の疑問に近い考えが頭の中を支配していた。そして、そんな虚ろな姿で目の前で仲間三人を一気に失った盗賊の集団はジリジリとレオンとの距離を離してゆく。
だが、その中でただ一人。レオンと距離を離してゆく集団の中で逆にレオンへと近づいてゆく人影がある。それは周りの盗賊に比べて明らかに大柄で重装備なのと、その男から放たれるオーラには別格の強さと重さがあった。その人影は、雨の向こう側でレオンの瞳にも写っており徐々にその姿がはっきりするのと同時に目を見開いてゆく。
「……レオンか?」
その人影は、確かにレオンの名前を呟いた。同時に、レオンは目の前に立つ人物がかつて北軍で共に手を取り戦っていた重装歩兵部隊、隊長のジキル=ストームであると。勇ましく鎧を身に纏っていたかつての姿は遠く、今は腑抜けた盗賊のような形をしているがそれは間違いなく三年前死んだと思っていた戦友の姿だった。
「ジキル……死んだと思っていたぞ」
「こっちのセリフだ、生きてたのか」
ここで、初めてレオンが口を開いた。しかし、懐かしさと安堵が込み上げるのと同時にこんなところでなぜ盗賊のような真似事をしているのかということが気掛かりになっていた。
「レオン、悪いが懐かしさを感じている余裕はないんだ。俺の部下を三人殺った訳を聞こうか」
「……わからん」
その言葉を聞いたジキルの表情に変化はなかった。しかし、その言葉に何かを感じ取ったのだろうか、ジキルは背中に刺してある鈍器にも見える巨大な鉄の塊と化した大剣をゆっくりと引き抜く。
「レオン、当然三年前のことは覚えてるよな」
「当然だ……毎日夢に出てくるよ」
それは慈悲か、悪魔か。人の記憶は薄れてゆくのに、丁寧にそれを夢が掘り起こす。レオンは今でも手に取れるかのようにあの時、全てを失ったあの日を鮮明に覚えている。
そして。同時に目の前に立つ、かつての戦友と過ごした日々も。
「レオン。俺は、お前に一度も勝てなかった」
「……そうだったな」
「俺は、お前がこの戦争を終わらせてくれると。いや、俺たちが信じてた」
次の瞬間、ジキルの放つ酷く重い一撃がレオンに襲いかかる。雨粒が弾け飛び、それをかろうじて受け止めたレオンの剣が放つ火花がキラキラと舞い散る。
「く……っ!」
すでに鍛える理由もなくなり、衰えた左腕だけで受け止める重量50キロ以上の憎悪。当然、耐えきれるはずがなかった。徐々に体ごと、足が泥濘んだ地面で滑りながら押される。レオンは力を振り絞りながらも一歩ずつ前へと。しかし、レオンは自分の右腕が何の役に立たない鉄の塊だということを思い出した。
必然的に、ジキルは大剣を右手から左手に持ちかえ。近づいてきたレオンの顔面に拳を叩きつける。大きく揺れる頭の中を、レオンは何も考えることができず。ただただ痛みの中で体に当たる冷たい雨を感じながら、後悔ばかりが胸に広がっていた。
しかし、同時にレオンは思っていた。これは、あの奴隷の子供を救いに行かなければよかったという後悔ではないということに。
故に、今ここでしなくてはならないことを。
思い出した。
「何もかも手遅れだ。守る理想も、国も、人もなくなった俺たちに残されたものは腐った世界と、腐りきった己自身だ」
レオンは震える左手で剣を杖のようにして体を起こしてゆく。だが、同時にジキルの言葉が体を貫いてゆく。しかし、ジキルの足はレオンの右肩を押さえつけ二度と立ち上がらせまいと力を込める。
「普通、奴隷を運ぶのにこんな山道を走ることはない。この道は、奴隷を外国に違法輸出するための裏ルートだ。それも、今この国を牛耳っている南政府の黙認でな」
レオンの右肩に留められた、肉と鎧のつなぎ目がギリギリと軋み激痛が走る。ジキルの言うことをまとめるのであれば、この裏ルートを襲撃することによりで南政府の奴隷違法輸出に抵抗し間接的ではあるが、南政府に打撃を与える。ということなのだろう。
「腐ってるなら腐ってるなりに生きるのが人間だ。お前は、この三年間で本当に腐り切ってしまったようだな」
「グ……ッ、アァッッッ!」
右肩から血が滲み、鎧の指先から雨と血が混ざり地面を濡らす。レオンはこの三年間、何もせずただ過去に後悔し、そしてその日を生きるために自分を守りながら生きてきた。過ぎ去ったことは過ぎ去ったことと諦め、今を変えようなどと露には思わず。ただ自分で付けた痛みと戦ってきた。
しかし、今こうしてようやく現実と向かい合った時。レオンはあまりにも無力だ。変わり果てた戦友を前にして、彼の行っている行動が正しいとすら思えてしまっている。しかし、痛みに耐えながら首を後ろに向ければ、怯えた目でこちらを覗き見ている子供の姿があった。
自分たちが、守りたかったものは一体なんだったのか?
「違……う、違う……っ!」
レオンは左手に力を込める。
今まで、腐って生きてきた自分に喝を入れるように。口の中を噛み締め端から血が流れるほどに噛み締め、押さえつけられた足に抵抗するように立ち上がる。
守りたかったもの、それは国ではない。
それは、理想でもない。
それは、自分でもない。
ようやく思い出すことができた。なぜ、レオンは三年前死に物狂いで剣を握り戦ってきたのかを。そして、なぜあの子供を前にして、戦うことを決意したのかを。
それは、
「俺は……っ、弱い人間を守るために戦うっ! 腐ったのはあんただ、ジキルっ!」
「っ!」
左腕に力を込めた。次の瞬間、レオンの周囲に鼓動にも似た波動が空気を激しく揺さぶる。雨が弾け飛び、思わずジキルがレオンの右肩を押さえつけていた足を離してしまう。
エンチャント。
レオンが立ち上がるのと同時に一つの単語を口にすると、レオンの左手に持つ剣が白い煙を上げながらカタカタと震えている。同時に、ジキルの記憶の中ではかつてレオンと戦い全戦全敗だった理由を思い出していた。
レオンの武器は剣技のみではない。魔術を扱うセンスに恵まれなかったものの、体内に宿した魔力量は常人の十倍以上。その膨大な魔力を武装に纏わせることで武器としての性能を大幅にあげる。すなわち、それはどんな鈍だとしても一級品の武装にすることが可能なのである。そして、それこそがレオンの最大の切り札であり、最強の攻撃手段。
「エンチャントか、だが。どうせそのボロ剣ではそう長くは持たないだろう?」
「やってみるか……っ?」
次の瞬間、ジキルの大振りの大剣がレオンの体に襲いかかる。大きく振り下ろされた大剣はレオンの頭上に吸い込まれるようにめり込んでゆくが、その巨大な剣を片腕、かつ一本の細い剣でいとも簡単に受け止める。
「チィッ!」
舌打ちをするジキルとそれを手に持つ大剣、レオンの剣がバチバチと火花を散らしながら互角のせめぎ合いを繰り広げる。武装のエンチャントを行っている最中の術者の身体能力は爆発的に跳ね上がる。よって、先ほどまでとは違い巨大な一撃もレオンは難なく受け止めることができるのである。
「っラァ!」
レオンの左腕が跳ね上がる。ジキルの大剣は上へ弾き飛ばされ、一瞬の隙ができた。同時に、その隙を逃さんとレオンが一気に距離を詰める。ジキルはすぐさま大剣を盾のように構え、レオンの斬撃から身を守っているが、その巨大な体躯が徐々に押され始める。
一瞬、レオンの斬り上げた剣がジキルの防御を崩した。
一閃。
ジキルのガラ空きになった壁のような腹筋にレオンの逆手に持ち替えた剣が横一閃と走る。しかし、攻撃は浅くジキルの肌には軽い傷しかついていない。当然、大振りの攻撃の後には隙が生まれる。
「フンっ!」
ジキルが大きな息を吐くとともにレオンの顔面に再び拳を叩き込んだ。先ほどと同様に大きく吹き飛ぶはずだったレオン。しかし、ジキルの拳の先に感じたのはまるで岩のように動じない何か。
「弱ぇよ」
次の瞬間、ジキルの腕にレオンの剣が貫いた。真っ赤な血がジキルの腕から吹き出し雨とともに地面を濡らす。しかし、その光景を眺めていた盗賊の一人がその隙をと言わんばかりに奴隷の子供が避難している馬車の方へと向かうのが、レオンの視界の端に映り込んだ。
「しま……っ!」
「余裕だな、レオンっ!」
ジキルの声が鼓膜を激しく揺さぶるのと同時に、レオンの左手で何かが砕ける感触がした。ゆっくりとスローモーションのごとく迫り来るジキルの大剣の先端と同時に、彼の右腕に刺さった剣が粉々に砕け散っていた。
一瞬のよそ見が命取りだった。
確実に躱せるはずの大振りの突きをレオンは見切る寸前に、自分の脇腹にズブズブと沈んでゆくその様が見えた。
「ガぁああアアッッッ」
全身に溶けた鉛を流されているような痛みがレオンの脇腹を中心に襲いかかる。だがそれでも、体が切断されないようにエンチャントで保護された左腕で突き刺さった大剣を押さえつけていたのは生き物の生存本能であったか。
しかし、大剣の突き刺さったままのレオンの体を大きく浮かせ。空中で大きく振り回された後、ずるりと脇腹から大剣が抜き出る感触とともに馬車の荷台に大きく叩きつけられた。
「ガハ……ッ」
背中に走った衝撃とともに口から大きな血の塊を吐き出す。満身創痍であるレオンの体に冷たい雨が降り注ぐ。すでに体から血を流しすぎておりこのままでは失血死することをレオンは戦場で散ってきたかつての仲間を見て経験していた。
自分は、おそらく助からない。
ジキルの足音が目前まで迫っており、トドメを刺されるのは理解した。だが、その前に先ほど避難させた子供は無事なのだろうか。ということだけがレオンにとって気がかりだった。すでに、首を動かす気力も残っていない。
だが、それでも。
最後の最後に、人を救うために戦えたことを。
誇りに思いたかった。
『おい、死ぬのか?』
「……え?」
『死ぬのかと聞いている。このまま、お前はこのまま死ぬのか?』
レオンの頭に響いた声。それは、あの崖を駆け下りるきっかけを作り出した声。目の前でジキルの振り下ろす大剣と雨粒がまるで世界全体がスローモーションのようにゆっくりと映像のように流れているかのようだ。
しかし、レオンの思考は瞬間的に加速する。
火花を散らしながら、脳髄が焼き焦げるような痛みがビリビリと走る。
このまま死ぬのだ。
何一つ、中途半端に守れなかったまま死ぬのだ。
「……嫌だ」
『何?』
「死にたくない、俺はまだ何も守りきっていないっ」
『なら、どうしたい?』
レオンの思考はさらに加速する。レオンにいま足りないもの、守るために必要なもの。それは理由でもなければ、思想でも、プライドでもない。それは、もっとシンプルなもの。
「力だ、武器が欲しい」
眼前まで迫り来る、ジキルが両腕で振るう大剣を見て思う。右腕に嵌め込まれた冷たい鉄の鎧。あれが動きさえすれば、あれが物を持ち戦うための手段として動けば。
レオンのこめかみに青筋が走る。
同時に、音を立てながらカタカタと振動しだす右腕の鎧。
「誰かを守れるだけの力をっ!」
次の瞬間、世界の流れは勢いを取り戻した。そして、同時にジキルの大剣はしっかりとレオンの脳天を捉え、そのままレオンの頭部は潰れたザクロのように飛び散るはずだった。
しかし、振り下ろした大剣はレオンの眉間に触れるか否かという寸前でその動きを止めた。
「な……っ!?」
ジキルは思わず声を漏らす。その力はジキルの筋力も合わさり振り下ろしたときの衝撃は岩をも簡単に砕く、故に今ジキルの目の前で起きている状況は疑問以外、いや。異常事態以外の何物でもない。
レオンの右腕の鎧が、ジキルの大剣を指二本で摘んで直撃を防いだ。
『よく吠えた、坊主っ!』
レオンの頭に響き渡った声と同時に、左手で脇腹を抑えながら勢い良く立ち上がる。右腕は、未だにジキルの大剣を掴んだまま。
レオンが、突如傷口を押さえた左手を振るう。
飛び散った血の飛沫が、ジキルの顔面にビシャリと叩きつけられた。
「グ……っ!」
視界を奪われたジキルが、顔面を拭いながら大剣を横一閃に振るう。攻撃範囲の広い分、視界が奪われたとしても闇雲に振るえば、確実に標的には当たる。しかしだ。
その標的が、ただの人間ならば。
ジキルの大剣に何かが当たった。だが、その感触はひどく硬く、生身の人間を切り裂いたものではないということが確実に理解できた。クリアになった視界に映り込む、大剣をレオンが鎧の右腕に持った何かで受け止めている姿。レオンがまるでマントのように右腕の鎧に巻かれた布をはためかせて握っている長い鉄の棒、それは彼の背後にあった鉄格子の一部を引きちぎったものだった。
「貴様……っ、その右腕は空っぽのはずだったろ!?」
レオンは無言である。左手で脇腹の傷を抑えながら、まるで右腕が別の生き物のようにノーモーションで大剣を弾き飛ばすと、その長い鉄格子を槍のように構える。
「さよなら」
レオンが一言。
次の瞬間、ジキルの大剣が粉々に砕け散る。同時にジキルの体に無数の穴が空き、それは肩、両肘、両膝、そして喉と、急所から血を流し一瞬、虚ろな目をレオンに向けたジキルはそのまま地面に倒れ込み、そして動かなくなった。
全くの、一瞬の出来事だった。
一瞬でかつての戦友の命が消えた、レオンの手によって。しかし、正確に言えば違う。レオンの右腕はかつて三年前の戦争で落とされており、その代わりに敵軍の鎧が嵌め込まれているだけである。よって、その鎧の中には何もなく当然ながら何か物を持って動くようなことはない。だが、レオンの右腕の鎧は確かに動き、その手には鉄格子を引きちぎった長い棒状の物を構えている。
「バケモノ……っ」
目の前で頭領が一瞬で倒され、怯えた盗賊の一人が喉から絞り出すような声で口にした。いいようによって、レオンのその様は確かにバケモノだった。右腕は体の意思と反して、別の生き物のみたいに動く姿は、一部の糸が切れたマリオネットを見ているように気味が悪い。
しかし、体の動きと噛み合わない右腕が一瞬振るわれるのと同時に、頭領の後を追わんばかりとレオンに突っ込んできた数人の盗賊を瞬く間に蹴散らしていった。次々と血が舞い散り、中には逃げていったものもいた、しかしレオンに剣を振りかざさんとしてきた人間は一瞬のうちにその命を貫かれ消えていった。
いつの間にか、レオンの周りには物言わなくなった盗賊の山が積み重なっていった。
『おい、大丈夫か坊主』
「……っ」
レオンの頭の中で、声が響く。体に当たる雨がより一層レオンの体力を奪っていたのと同時に、ジキルに刺された脇腹の傷から溢れる血は止まることを知らない。そして、レオンの視界が霞むのと同時に片膝をついたレオンはもう一つだけ、やり残したことを思い出した。
「……まだ……っ」
体が崩れ落ちる。レオンの霞んだ視界の向こう側には、荷台から連れ出された奴隷の子供の手を無理やり引っ張り、逃亡を図っている盗賊の姿。レオンの体はすでに力が入らず、そんな後ろ姿を追う体力は微塵も残っていない。
だが、体は動かなくても。その体とは関係のない、鎧の右腕だけはレオンの体を支えながら上半身だけを起こす。
『左腕で体支えてろ』
荒く息を吐きながら、頭の声に従うレオン。すでに、なぜ右腕が勝手に動いているのかであったり、幻聴にも似た声が頭に響いているのか、などを考えることはとうに捨てている。レオンが、今死ぬ間際に考えていることは、あの奴隷の子供を解放することのみ。
それだけのために、脇腹の傷を抑えていた左手を離し力強く血で重く濡れた地面を叩きつける。『よくやった』
次の瞬間、顔の横で引き絞っていた右腕が雨を弾き飛ばしながら振るわれるのと同時に、その手に握られていた鉄格子がレオンの耳元を風切りながら遠くに消えた。そして、その鉄格子は軽くカーブを描きながら前方を走り去ってゆく盗賊の頭を貫く。頭を失った盗賊は数歩よろよろと歩いた後、その体を土砂に埋めた。
「……はぁ……はぁ……っ」
呼吸が可笑しい、心臓が正しく動いていなかった。レオンはそのまま力つきるように、目の前で頭を跳ね飛ばした盗賊のように、その冷たくなった体を濡れた地面に預けた。
満足かと言われれば、後悔ばかりの人生だった。と、レオンは静かに目を閉じながら考える。だが、それでも。
最後の最後に、後悔しない生き方をすることができた。
『クソっ、踏ん張れ坊主っ。たった一人助けただけで満足してんじゃねぇぞっ!』
頭に響く声がうるさい。レオンの頭の中で、必死に呼びかける男の声を聞き流しているとその声が徐々にどこか遠くに消えていく、と同時に。意識がどこか遠く深いところに投げ込まれる感覚をじんわりと頭の中で感じながら、レオンはとうとう息をすることも忘れてしまった。
レオンの意識と体が黒いぽっかりと空いた穴に放り込まれる瞬間。その崖の淵で、だれかが顔を覗き込んでいた。それは、必死に手を伸ばしているようで。けれども、手を伸ばすにはあまりにも疲れ果てていて、静かに目を閉じようとしたときだった。
右腕が、無くなったはずの右腕がやけに暖かかった。体は疲れ果てて動かすこともできないのに、その右腕は諦めることなく、手を差し伸べてくれている誰かをつかもうと必死に伸ばしている。
まだ、生きろと。
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