第四夜
今日も太陽が地上へ沈む、昼と夜が交差する黄昏時。羽の一本一本が身震いするような感覚が全身を駆け抜けた。羽の硬質な感触は柔らかな肌へと変わり、急激に自分の体が大きくなる。
昼は白鳥の姿に変身する呪いがかけられ、夜だけ元の人間に戻れる。
今前世の記憶を思い出した。かつてベルであった事。かぐや姫、白雪姫、シンデレラ……そして今生は白鳥の湖のオデットなのだ。
御伽話は長く語り継がれる間に、複数の話のパターンに別れる事がある。白雪姫やシンデレラはハッピーエンドしかありえなかった。でも白鳥の湖は?
元々は悲劇の話だった。オデット姫とジークフリート王子、二人が死んで終わる物語。時代を追うごとに二人が生き残る、ハッピーエンド版も作られるようになった。
つまり、この世界の未来は確定されていない。
今までの世界と違って幸せな未来が約束されていないのが、これほど心細いとは思わなかった。私がジークフリートと出会わなければ、彼が死ぬラストは訪れないかもしれない。そう……想うと今すぐこの湖を旅立って、どこへなりと消えてしまえばいい。そう思うのだけど、心は未練がましく彼の事を思い描いてしまう。
かさり。後ろから草木を分け入る様な物音が聞こえた。思わず振り向き、その姿を見て震えた。そこにいたのは愛するジークフリートだった。前世とまったく違う姿でも一目でわかる。出会ってしまえばもう……止められない。私も彼も一目で恋に落ちた。
私は白鳥の呪いの話を語る。ジークフリートは最後まで聞いて、揺るぎのない言葉を放った。
「君の呪いを解く為に、僕は永遠の愛を誓うよ」
一点の曇りも無い、まっすぐな想いに心を打たれる。私を助けるんだと、覚悟を決めた彼の目は光り輝いていた。この瞳に恋をしたのだけど、素直に喜べない。この誓いこそ、彼を死に至らしめる呪いになるのだから。
「貴方は悪魔に騙されて……死んでしまうわ」
「君は不安なんだね。大丈夫。僕は騙されないし、死なない。二人で幸せに暮らそう」
どれほど説明しても、前世の記憶という不確かな情報では伝わらない。そもそも物語の結末が2つもある時点で、私の予言も当てにならないのだ。
「貴方の身を守ります様に。お守りにこれを持っていて」
自分の翼から作り出した、一枚の白い羽とガラスの靴の片方を差し出す。知っている。わかっている。これを渡した所で、どれだけ警告した所で、彼は騙されるのだ。そう思うと手が震えた。
「怖がらないで。君の呪いは僕が解く。また会おう。愛しき僕の姫君オデット」
日の光がわずかにさし始めた早朝。私の姿が白鳥に戻るその時が別れの時間。悲劇の時は、刻々と迫っていた。
その夜の舞踏会。私は不安で思わず城へと飛び立った。夜になっても湖を離れれば白鳥の姿のまま。彼と言葉を交わす事もできない無力だけど、それでもじっとしていられない。
やっと城が見えてきた頃に、城の周りを黒い雲が覆っているのが見えた。シンデレラの時に見た、女達の欲と嫉妬の固まりに似ていたが、あれよりもさらにうねうねと生物の様に蠢く姿が不気味だ。その黒い雲の中心から、染みでてきたように、漆黒のフクロウが飛んできた。悪魔のロットバルトだ! 思わずぞくりと羽が震える。
「オデット姫だな。王子を止めに来たのだろうが……無駄なあがきだ」
ロットバルトは私に白鳥の呪いをかけた悪魔だ。ぞわりと低い声が響く。
「今宵私の妹オディールが、オデットの姿に化けて城に向かっている。王子は約束を破り、オデットの呪いは解けない。諦めるのだな」
私は心の中で叫んだ。
『なぜ……なぜ貴方はそんな事をするの?』
私の心の中を読んだように、ロットバルトは言葉を返す。
「欲しい物を手に入れるためだ。オディールはジークフリートを手に入れて、私はオデットを手に入れる」
彼を騙して呪いにかけるつもりか? そうはさせない。きっと私が睨みつけると、ロットバルトが嘲笑う。
「この世界の王子の名はジークフリート。皮肉な事だな。まるでニーベルングの指輪のようじゃないか。騙されて愛の誓いを破ってしまう、愚かな英雄の物語。まさにあの王子に相応しい」
『ニーベルングの指輪を知ってるの? まさか……だって、この世界にワーグナーなんて……』
「生まれ変わって前世の記憶を引きつぐ者は、お前だけではないという事だ、ベル」
ロットバルトも前世の記憶を持っているというの? しかも、ベルのいた世界はここより未来のはずだ。
「未来は過去に、過去は未来に繋がっている。ここは世界の交差点……ジャンクションだ。運命の乗り換えを行って、さらに来世は良い運命に生まれ変わる。その為に私にはオデットが必要なのだ」
その声には悲壮さと覚悟が滲んでいた。彼もまた何かと戦っているのかもしれない。
でも……ロットバルトの思惑なんて知らない。私と愛しのジークフリートの為に、より良い未来に繋げなきゃいけないんだから。
ロットバルトから逃げる様に、地上に向かって滑空する。悔しいが暗い夜空では、黒いフクロウより白い白鳥の方が目立つ。地上の木々に紛れて隠れて進まなければ、見つかってしまうだろう。
馬車の中に潜り込み、城へ向かう様にと命じれば、ガラスの靴が城までの道を示し、勝手に走ってくれる。不死の薬を翼で包み込み祈る。私にはまだチャンスがある、諦めるなと叱咤しながら城へと急いだ。
ロットバルトの目を盗み城に近づく事に思いのほか時間がかかった。既にすっかり日が暮れ、舞踏会は始まっていた。夜陰に紛れひっそりと舞踏会の会場を覗きこむ。私そっくりの女が彼の手をとって笑顔を浮かべていた。
「僕は彼女を妃にする」
堂々と宣言するジークフリートの姿を見て、思わず目眩がした。
シンデレラの頃に魔女に言われた事を思い出す。自分が選ばれるとわかっているから、驕っていると。そうかもしれない。
その女は偽物で、彼は騙されているだけだとわかっていても、嫉妬の炎で身を焼かれたように痛い。警告したのに騙される彼に怒りが沸く。
私は翼をはためかせ、室内へと飛び込んだ。突然白鳥が入り込んできて、驚く人々を尻目に私は彼の腕へと降り立つ。私の姿を見て彼は震えた。やっと気がついたのだ。目の前の白鳥こそがオデットで、隣にいる女は偽物だと。でも、もう手遅れだ。私は苛立ちを混め、彼の手の甲をくちばしで抉り取る様につついた。
「すまない……オデット。僕は……」
謝罪の言葉なんていらない。彼の手の甲についた赤い傷を確認し私は湖に逃げ帰った。
馬鹿な事をした。もし……私があの場に現れなければ、偽物を本物のオデットだと勘違いしたまま、彼は一生幸せに暮らしたかもしれない。でも彼は騙されていた事に気がついた。もうじきここにやってくるだろう。そして……彼も私も死ぬのだ、きっと。
「オデット!」
嗚呼……やっぱり来てしまうのね。まだ白鳥の姿のままでよかった。人の言葉を紡ぐ事も、気持ちが表情に出る事もない。嫉妬で醜く狂う気持ちと、追いかけてきてくれたのを喜ぶ気持ちと、死んでしまうかもしれない恐怖。そんな複雑な想いを貴方は何も知らない。
「すまない……君が警告してくれたのに僕は……でも、僕が愛してるのは君だけなんだ」
白鳥の姿の私をかき抱き、ぽろぽろと涙を流すジークフリートはとても情けなくて、でもそんな愚かな姿さえ愛おしいと思う。
恋は盲目ね。塞がりかけた手の傷痕を、また抉って永遠に消えない傷にしたい……そうすれば例え人の姿に戻れなくても私を忘れる事はないだろう。そんな醜い独占欲が沸き上がる。
涙に暮れる私達の元に、ひたひたと忍び寄る不幸の影。懺悔を続ける貴方は、この後何が起こるかもわからない。御伽話の時間は進み、その刻がやってくる。
ばさりと大きな羽音をたてて黒いフクロウ……ロットバルトが飛んできた。
「どれだけ嘆いた所で……お前はオデットと結ばれない。私の呪いの中でオデットは永遠に生きるのだ」
フクロウが低くうめくような声あげ、翼をはやした男に変身した。声の恐ろしさとは裏腹にまだ若い男だ。少しだけジークフリートに似ていた。しかしその瞳の濁った様な昏さは、ジークフリートと比べようも無い。
私を白鳥のまま捕え続ける事が、ロットバルトなりの愛情表現なのか? 醜い男の独占欲。されど……私の身の内に潜んでいた嫉妬の炎に気づいた時、私も同じ側の人間だと気がついた。
ジークフリート。貴方はとても心が綺麗な人。愚かに騙されたけれど、嫉妬や憎しみ、そんな醜さを感じない、どこまでも澄み切った貴方の心が私には眩しい。
「オデットの呪いを解くんだ! さもなければ……」
ジークフリートは剣をすらりと抜いて立ち上がり、頭上のロットバルトに向ける。剣が届く距離でもなく、手も足も出ないというのに、ロットバルトを睨むその姿は無謀としか言えない。
それでも貴方は恐れも知らず、まっすぐにロットバルトと戦おうとしている。私の為に。嫉妬の汚泥に浸っている場合じゃない。今、戦わなきゃ。
ジークフリートの腕の中から飛び立つ。ロットバルトの体から染み出してくる、黒い霧を振り払い、一矢報いるべく嘴で翼から羽をもぎ取ろうとする。だが……中々上手く行かない。
空での戦いのさなか、湖は荒れ、水が溢れ出しジークフリートを飲み込んだ。荒れ狂う湖の中で必死に泳ぐジークフリート。
「オデット! 逃げろ!」
嗚呼……本当に貴方は優しい。自分が今死にかけているというのに、私の事を想って叫んでくれる。ロットバルトとの攻防で、私の白い翼は朱に染まり、飛ぶ事も苦しい。でも貴方の声を聞くと自分の運命に抗う勇気が沸いてくる。
必死にロットバルトの翼に食らい付き、なんとか羽を数本むしり取る。羽が減るとロットバルトの魔力が衰えた。飛行し続ける事ができずに、地上へと落ちていく。魔力の衰えのおかげで、湖の氾濫も落ち着き、泳ぎ続けたジークフリートは岸にたどり着いた。
「オデットの呪いは僕が解く!」
ジークフリートが剣を振りかざし、ロットバルトに突き刺した。ロットバルトの体から黒い煙が吹き出し、黒い羽が一面に舞い散った。黒い霧や羽がジークフリートの体に落ちて吸い込まれた。まるで呪いの沼に飲み込まれる様に、黒く染まって行く。
嗚呼……彼が呪われて行く。彼を救う為に人生をやり直しているのに……心の中で嘆きつつ、体は地上へと堕ちて、ジークフリートに受け止められた。体が……白鳥から人の姿に変わって行くのがわかる。けれども……同時に自分の命が燃え尽きようとしているのもわかる。
「オデット! 今……医者の元へ連れて行くから。しっかりしてくれ……死なないで……」
ジークフリートの涙混じりの声を聞くと胸が締め付けられる。頬に落ちる雫の感触が、彼の涙だとわかる。重い瞼を閉じたまま、手探りで胸元を探って……不死の薬を取り出した。今……これを飲めばまだ私は生き延びる事ができるかもしれない。
薬の入った壷を手にした所で、力つきて取り落とした。もう……どこに壷があるかもわからない。
「オデット! ……これが、薬なのか? これを飲めば君は生き伸びる事ができるのか?」
返事を返したいのに、声すら出ない程、体の力が無い。私の唇に彼の唇が触れた。流し込まれる苦い味。私の体に力が戻ってくるのと同時に、私を抱きしめる彼の力が弱まって来るのを感じた。まるで……彼の命を奪って生き返ったかのように。
目を開けると、涙混じりの笑顔のジークフリートと目が合う。
「よかった……オデット。目を覚ましたんだね」
心の底から喜ぶ彼の姿を見て、ずきりと胸が痛んだ。ジークフリートの笑顔の輝きが弱弱しい。触れれば壊れそうな繊細な笑顔。黒い霧と黒い羽にまみれた彼がいた。
ベルであった頃、父が言っていた言葉を思い出す。
『野獣の王子が前世まで積み重ねてきた命の欠片。それを前世の彼に戻してあげるといい』
王子様の口づけで目覚めるお姫様達は、口づけのたびに、王子から命を奪ってきたのかもしれない。
ロットバルトは言っていた。『未来は過去に、過去は未来に繋がっている』と。何度も生まれ変わる度にジークフリートから奪ってきた命の欠片を、過去のかぐや姫が持っていたとしてもおかしくはない。
何度も生まれ変わり奪い続けた命の結晶が、この不死の薬だとするならば。せっかく彼に戻してきた命は、また彼から失われて行くのだ。
オデットとジークフリートはその後結ばれた。しかし……二人の幸せは長くは続かず、わずか10年程で二人とも病の為に命を落とした。運命の歯車は次の世界へと繋がって行く。
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