第五夜
「私の可愛いラプンツェル。お前はこの塔の中で永遠に幸せに暮らすんだよ。私が何でも用意してあげるからね」
醜い……心の底から、養母が嫌いだった。白雪姫の頃の母も娘を殺そうとする酷い母親ではあったが、まだ「自分が悪い事をしている自覚」はあった。それが目の前の女はどうだろう。自分の娘を所有物の様に閉じ込めて縛り付け、それが正しい事だと妄信している。
私は溜息を飲み込んで、養母が塔の外へでていくのを見送った。これで……数日は来ないはず。いつも通りなら、今が逃げ出すチャンスだ。
ラプンツェルの話を思い出す。最後はハッピーエンドだが、そこに行く過程で、彼は視力を失い、二人して数年彷徨う苦労を味わう。より良い未来へ話を繋ぐなら……今逃げ出さないと。
窓から見下ろせば、塔の下に例の馬車がある事が確認できた。不死の薬、ガラスの靴、馬車、そして……何に使えるかもわからないけど白い羽。昨日前世の記憶が甦ったと同時に私の手元に現れた。
この塔から出る唯一の手段は私の長い三つ編み。これを切り落とし、家具に結びつければ自力での脱出も可能なはず。そう思ってナイフを手に取って躊躇った。
自力で逃げ出してどこに行くの? この世界には私の味方をしてくれる魔法使いはいないし、ガラスの靴も事前に渡しておかなければ効果はない。広い世界のどこかにいる私のジークフリートを、どうやって見つければいいのだろう? もしすれ違ってしまったら?
ココデマッテイレバ……キテクレルジャナイ。
そう……私の心の奥に潜む悪魔が甘く囁く。待っているだけの女は辞めて、自分から会いにいくんだと、そう決意していたはずなのに、いつの間に私の心はこんなに弱くなったのだろう。
前世でわかっていた未来なのに、目の前で彼が他の女の手を取った時、酷い嫉妬で苦しんだ。もし今生で御伽話に無い行動をして、悪い結果に転がったら? そう考えると、そこから一歩踏み出す勇気が出ない。
窓から空を眺めて、歌を口ずさむ。ジークフリートの事が好き。二人で幸せになりたい、守りたい。そんな想いを歌にこめて。歌なら……素直になれる気がして。
ーー青い空、彷徨う小鳥。泣いている、一人きりだと。ここにいるよ、側にいるよ。
幸せになりたい。幸せを届けたい。蒼い鳥になれたなら。幸せになれるかな。
キミに届け 想いの言葉。想いが風に消えぬうちに。
私が歌っていたら、白い羽が鳥に姿を変えてさえずった。私の声そのままで同じ歌を。その鳥は歌いながら空へと飛んで行った。ああ……あの鳥の声を聞いたら、ジークがここに来てくれるかもしれない。あと一日……あと一日だけ待って、様子を見てみよう。
明日には旅立とうと想いつつ、同時に明日来るかもしれないと想い、気づけば一週間の時が立っていた。
そしてついにあの白い鳥が帰ってきた。
『この美しい歌声の乙女はどこにいるんだい?』
鳥がさえずる声だけで、ジークフリートだとわかった。塔の下を見下ろすと遠くに男がいるのが見える。まだ顔立ちはわからないがきっとジークフリートだ。慌てて自分の髪をおろし、小鳥に伝言を頼む。
「私の名前はラプンツェル。塔の上に住んでるわ。どうぞ私の髪を掴んで登ってきて」
私の言葉通りに彼が登ってきて、やっと顔が見えた。一目見てぞくりとした。ロットバルトにそっくりだった。黒い霧と黒い羽が周囲を漂い、濁った様な昏い瞳。まるで……前世の呪いをまとっているようだ。
「君の名はラプンツェル……というんだね。美しい」
自分で名乗りもしないうちに、私の手に触れ、髪に触れる。その軽薄な態度がなんだかジークフリートらしくなかった。何回もともに生まれ変わった彼ではなく、もしかしたら……ロットバルトの生まれ変わりなの? 疑心暗鬼になって私は男を突き放した。
「今日は……帰って。これを……持って行って」
ガラスの靴をぐいと押しつける。男は困った様に首を傾げ「まあ……会ったばかりの男なんて信用できなくても仕方が無いか」とあっさり言って帰っていった。
男がジークフリートかロットバルトか、どちらかはわからないけれど、少なくとも前世の記憶は持ってないようだ。だから拍子抜けするくらいあっさり帰ってしまうのだろう。
あの男をジークフリートと信じていいのだろうか? このままここにいたら、本物のジークフリートが来てくれるんじゃ無いか?
そう迷う間、男は毎日のように通ってきた。時には少年のような輝く瞳で、時には世間擦れた大人のような眼差しで、遠い異国の話や、過去の武勇伝を語ってみせる。
黒い霧や黒い羽は見えるけど、彼が物語を語る時、昏い瞳に光が射して輝く。その瞳を見てやっと覚悟が出来た。ここで待ってるだけじゃ、きっとダメだ。
「私も……そんな世界が見てみたいわ」
「じゃあ……一緒にここから逃げ出そうか」
「そうね。一緒に行くわ」
私の髪を使って先に男を下ろし、後から髪を切り落とし家具に縛り付けて自分も下りて行く。地上まで後少し……という所でいきなり支えを失って落ちてしまった。慌てて男が受け止めてくれた。
「大丈夫?」
「ええ……怪我はないみたい」
見れば長い髪は消えてなくなり、腕に絡むのは金の鎖。これも……来世に自分が引き継ぐ宝なのだろうか?
わからなかったけどそれも持って、二人で馬車に乗り込む。走り出そうとした……その時だった。
「ラプンツェル! どこに行くんだ! その男は誰だ!」
憎悪に満ちた目で養母がこちらを見つめて立っていた。裏切り者! と口汚くののしる様をみて、苛立ちがつのる。自分の想い通りにならなければ裏切りなのか。私は物じゃない。馬に合図をして走り出す。
振り返ると養母は魔法を使って不気味な生物を呼び出した。三つの頭を持つ大きな黒い犬が私達の後を追ってくる。馬は全速力で走ったけれど、私達の重みがある分だけ遅い。みるみる内に犬に追いつかれる。慌てた私は馬を力強く叩いて、無理矢理走らせ……走らせすぎた。
「きゃあ!」
馬車は崖を目の前にして立ち止まる余裕も無く落ちてしまう。空へ投げ出された時、男はぎゅっと私を抱きしめた。
「しっかり掴まって。必ず助けるから」
そう囁く声が聞こえて確信した。この男はジークフリートだ。片腕に私を抱きしめ、片腕で崖の途中の木の枝を握りしめる。私達はなんとか崖の途中で踏みとどまれた。しかし……望みの綱はジークフリートの腕一本。枝もぎしぎしいって、今にも折れそうだ。
「離して、私一人なら大丈夫だから」
崖の下には森が見える。上手くいけば木がクッションになって、命拾いするかもしれない。
「ダメだ! 君一人では行かせられない」
彼の腕に守られ迷っている間に、不気味な声が聞こえてきた。
『タスケテ』
『ワタシヲエランデオウジサマ』
『シアワセニシテ』
『ドウシテエランデクレナイノ』
女達の怨嗟のような声が、黒い霧となって漂う。そこから無数の腕のような物が生えて、こちらへと向かってきた。
『ソノオンナガイルカラ……ワタシノトコロニキテクレナイノ?』
『ワタシタチノ、オウジサマヲ、ドクセンスルナンテ……』
『マジョヨ!』
『マジョダワ!』
『マジョダ!』
無数の黒い腕が私の体に絡み付き、崖下へと引き摺り落とそうとする。逆にジークフリートはその腕によって、上へと引き上げられそうだ。
「ラプンツェル!」
二人を引き裂こうとする腕を振り払い、必死に私を抱きしめるジークフリート。とうとう片腕で足らず、枝から腕を放して、両腕で私を抱きしめた。
『タスケテ』
『タスケテ』
『タスケテ』
黒い怨念が私達を包み込み、地上へと引き摺り落とし、木の上に叩きつけた。衝撃で一瞬気を失いかけたが、歯を食いしばって堪える。私はジークフリートのおかげで軽い打ち身程度ですんだようだ。
彼も木がクッションになったおかげで即死は免れた。だが血まみれで荒い呼吸をあげている。
「……もう……俺はダメだから、一人で逃げるんだ。……外の世界が見たいんだろう?」
「貴方と二人で外の世界を見たいの。一人じゃダメよ!」
死を前にした時に、その人の本性が現れるのかもしれない。今苦し気に睫毛を震わせるジークフリートの瞳は、私が前世で愛した気高くまっすぐな澄んだ色をしていた。
どうして信じなかったんだろう? この人を疑って躊躇っていなければ、もっと早くにあの塔から出ていたら、こんな怪我をさせずにすんだのに。
後悔を飲み込んで、不死の薬を口に含み、ジークフリートを抱きしめ口づける。急速に力を失い、体温すらも消えて行きそうな体を、引き止めるようにしっかり抱きしめ。自分の全てを差し出す様な長い口づけの末、ジークフリートは目を開けた。
「よかった……」
ジークフリートの無事を見届け、私は涙を零した。
その後ラプンツェルは愛する男と二人で生きた。しかし……ラプンツェルはあの時、力を尽くしたかのように短命であった。
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