第二夜

「お嬢さん。林檎はいかがかね」


 穏やかな笑みを浮かべた老婆が、籠から1つの林檎を差し出した。ツヤツヤ光る真っ赤な林檎は、とても美しく甘酸っぱい香りを放ち、手に取るとずっしり重かった。

 黒檀のような艶やかな黒髪をかき上げ、白雪姫はその林檎をじっと見つめて赤い唇でぽつりと呟く。


「この林檎には毒が入っていますよね。私を殺そうとしてる事……お父様はご存知なのかしら? お母様?」


 白雪姫の言葉に老婆は体を戦慄かせ、首を振った。


「な、何を言ってるんだいお嬢さん。その林檎に毒など入っていないし、お前さんの母親などでは……」

「では……この林檎、今ここで食べて頂けませんか?」


 白雪姫は白魚の様な指先で、鮮やかにナイフを扱い、すぱっと半分に切り、毒の入ってる方を老婆に差し出す。老婆は差し出された林檎から目を反らし震えた。


「私がこの林檎を食べても死にません。貴方が焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊る羽目になるだけです」

「なぜ……なぜ……焼き殺される事を知って……? やはり、あの夢のように私を殺すというのか……」


 怯えた声を上げながら、老婆から白い煙が沸き始める。しゅるしゅるとその煙は老婆を覆いつくして膨らむ。煙が消えた中から現れたのは、まさしく白雪姫の母だった。白雪姫とよく似たおもざしながら、その肌は白いを通り越して、青ざめていた。


「いつの頃からか……夢を見ていたわ。白雪姫。私が鉄の靴を履かされ、熱い鉄板の上で悶え苦しむ姿を、お前が男と一緒に笑ってみている……そういう夢よ。ぞっとしたわ。自分の娘がそんな残酷な事をすると考えただけで、恐ろしくて……恐ろしくて……」

「夢? 予知夢? 未来で自分が殺されるから、娘を殺しておこうというの? 馬鹿じゃない! 貴方が殺される原因は、私を殺そうとするからよ。初めから何も手出しをしなければ、平穏無事な生活をおくれるのに」

「そうかもしれない……でももう遅い。その林檎の事、父に報告して私を殺すつもりでしょう? 結局私はお前に殺されるのよ」 


 白雪姫の母はがくりと膝を地につけてに震えた。自らの罪に怯える母を見下ろし「愚かな……」と白雪姫は呟く。二人の側に七人の小人がやってきて、囁き始めた。


「ねえ……白雪姫。その女を殺しちゃおうよ」

「自分の娘を殺すような母親、殺されて当然だ」

「身勝手で醜い女。この世界に生きる価値もない」

「ここで許した所で、また同じ過ちを繰り返さない保証はないからな」

「優しい優しい白雪姫は、ここで情けをかけるのかな? そして大人しく殺されてあげるの?」

「白雪姫が殺されてあげるなんてとんでもない!」

「疑い、恐れ、怯え、死ぬまで猜疑心を捨てられぬ物は……救い様が無い」


 小人達は無責任に笑ったり、神妙にもっともらしく説教したり、まるで人ごとみたいな気楽さで、囃し立てる。だが……小人達のいう言葉は、白雪姫の中にも確かにある感情なのだ。小人達は代弁者に過ぎない。

 彼ら妖精達は、人の心の弱さや脆さに敏感で、悪魔の様に誘惑をしてくる。白雪姫はその誘惑を振り切る様に首を振った。


「殺さない。小人さん達。証人になってくれないかしら? 絶対に母を殺さないとここに誓うと。誓いを破れば私が死んでもかまわない」


 白雪姫の言葉に母も小人達も驚いた。特に母は目を大きく見開きじっと白雪姫を見つめる。その瞳が不安で揺らいだ。


「いいの? 白雪姫。僕達妖精は嘘が嫌いなんだよ」

「白雪姫が嘘をついたら……その命、我らが受けとってもかまわない。そういう誓約か?」

「人間の魂は綺麗だからね。白雪姫の魂なら特に綺麗に輝くんだろうな。とっても素敵な宝石になるよ」


 小人達が笑いあい、囁き合う。森で行き倒れていた所を助けてくれた小人達。しかし彼らは親切心で助けたわけではない。白雪姫の魂が欲しかったのだ。生かして誘惑して……いずれその魂を自ら差し出す時を待っていた。


「妖精が嘘を嫌うのは知ってるわ。だからこそ信用となる。自分の命をかけて、母を殺さないという誓い。それくらいしないと信じてもらえないでしょう? 私は本当にこの人を殺すつもりはないし、そんな事より私は助けなきゃいけない人がいるから」


 小人達は嬉しそうに歓声をあげる。まるでもう白雪姫の魂が手に入ったかのように、はしゃいで二人のまわりを歌い踊った。その光景を呆然と眺める母。


「本当に……本当に……殺さないというの? 父にも報告せず、このまま見逃すというの?」

「ええ、貴方を見逃します、だから1つだけ手伝っていただけませんか? お母様」

「何を手伝えと……」


 まだ疑心暗鬼な想いに囚われたまま、おずおずと怯えた眼差し。


「私はこの世界で会いたい人がいるのです。お母様の魔法があれば、どこにその人がいるかわかりますよね? 私はその人と巡り会えればそれだけでいいんです。私はその人と余所の国で暮らして、二度と貴方の前には顔をだしません。互いに一生関わらずに生きて行きましょう」


 自分を殺そうとした事。許せないし、許すつもりもない。でもここで殺した所で、この先の自分が幸せになるわけではない。もう殺される事もなく、一生関わる事も無い。それで十分ではないか。そう……白雪姫は言った。

 母は娘の言葉を口の中で噛み締める様に、繰り返す。そして大きく深呼吸を繰り返しぎゅっと目をつぶった。


「わかりました……お前に協力しましょう。妖精に誓ったならそう簡単に破るとは思えない」


 そう言葉を返した時、憑き物が落ちた様にすっきりしていた。

 白雪姫が割った林檎を手に取って、目をつぶって魔法の言葉を唱える。割れた実の片方は鏡に変わり、片方は馬車になった。美しい毛並みの白馬が引くのは、鈍色の金属でつくられた馬車。細やかな細工まで古めかしいが優美だ。

 鏡をじっと見て場所を特定する。


「この馬車に乗りなさい。お前が会いたい人間の元へと導いてくれる。この馬車はお前にあげるから……返しに来なくても良いわ。餞別よ」


 謝罪も、感謝も、二人の間になかった。そんな言葉はただの欺瞞だと、互いに解っていたのかもしれない。永遠の親子の別れだというのに、さよなら1つ言わずに、白雪姫は馬車に乗って行った。


「御伽話の世界では、ヒロインを虐めた母親って、大概ろくな目に遭わないけれど……」


 報復したからといって、自分が幸せになるわけではない。むしろ苦しみのうちに死んだ継母達の怨念もまた、ジークフリートの呪いに繋がるかもしれない。


「負の連鎖は断ち切らないと……ね」


 走り出す馬車の中で愚かな母の事を忘れ、ただ一途に愛する男の事だけを思った。

 馬車で一山超えてある街に着いた時、白雪姫は噂を聞いた。人助けをしてまわる旅の王子がいる。もうじきこの街にやってくるだろうと。彼だ……。石畳に足をとられてつまづきそうになりながら、街外れまで駆けた。

 夕暮れが近づく街の外れに、一人の王子が辿りついた時、白雪姫はいきなり飛びついて口づけをした。初めて会った女性にいきなりそんな事をされて、王子は驚く。


「ええっと……き、君は? どこかで会った事あるのかな?」


 まだ若々しい王子は、林檎のように頬を染めて、目をそらして呟く。でも……白雪姫の美しさが気になる様で、そわそわしていた。


「ごめんなさい。会うのは初めてよ。でも……初めての気がしないわ。きっと……前世で私達、恋人同士だったんだわ」

「前世……? 君は面白い子なんだね」


 くすくすと笑って王子は名前を名乗った。


「僕はジークフリート。君の名は?」

「白雪姫よ。貴方に会いに世界の壁を超えてきたの」


 ジークフリートは白雪姫の言葉を冗談だと思ったらしい。またくすくすと笑った。ジークフリートは初めこそ驚いたが、少しづつ話すうちに、打ち解けて行く。白雪姫の美しさと優しさに、すぐに心惹かれていった。


「どうして……人助けの旅をしているの?」

「今こうしている時も、世界のどこかで誰かが困っているかもしれないから。助けに行きたいんだ」


 正義を貫く意志の強さと、ひたむきさに価値がある。できるかできないかじゃない。やるかやらないかなのだと。理想を夢見て語るジークフリートの瞳は、澄んでキラキラと輝いていた。気高く美しいその瞳に白雪姫は恋をした。


「もし……毒林檎を食べて死んでしまったお姫様がいたら助けるの?」

「うん、助けに行くよ」

「お姫様じゃなくて、しわくちゃのおばあさんでも?」

「もちろん」

「そう……それは大変な仕事ね。よかったら私にも手伝わせて。二人で人助けしながら世界を回りましょう」


 目をぱちぱちさせて驚いてから、ふわりと笑ったジークフリートは喜んで、白雪姫に口づけをした。

 二人は異国で仲睦まじく一生を過ごし、約束通り生涯母と会う事も無く、互いに天寿をまっとうしたのだった。

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