0ーpreludeー

 高い天井までみっしりと本棚で埋め尽くされた、時が止まった様に古めかしい書斎。飴色の本棚にうっすら埃がつもっている。そこにワーグナーの曲、ニーベルングの指輪が、ゆったりと揺蕩う様に空間に流れ続ける。ニーベルングの指輪は、悲劇の英雄ジークフリートの物語。この書斎の主が好きなオペラだ。


 その書斎に一人の美女がいた。

 本の虫と村で笑われる程の読書好きの少女・ベル。初めてこの本だらけの部屋に来た時は、感動のあまり引きこもって寝食も忘れ読書にのめり込んだ。


 そんな彼女が本に見向きもせずに、じっと鏡を覗き込む。そこには大好きな父モーリスが、病に臥せって苦しむ姿が映し出されていた。ぎゅっと鏡を握りしめ、眉間に皺を寄せ思い悩む。明るく勝ち気な美女が、今はすっかり精彩を欠いていた。


「ベル」


 重低音の声が響き、はっとしたようにベルは振り向いた。毛むくじゃらの顔から、恐ろし気な牙を覗かせた野獣の王子は、獰猛な顔とは裏腹に澄んだ優しい瞳でベルを見つめていた。


「行くのかい?」

「……ごめんなさい。7日間だけ……父の元へ行かせて。必ず帰ってくるから、待ってて欲しいの」


 王子・ジークフリートは獣に似つかわしい荒い呼吸を繰り返しながら、悩む様に立ちつくしている。ポット夫人がティーカップに芳醇な香りを放つ紅茶を注いで差し出すが、ジークフリートは手を触れる事もなく寂し気に背を丸めた。


「……7日だけだ。早く帰ってきてくれ」

「ありがとう! ジーク」


 心からの笑顔を浮かべて、ベルはジークフリートを抱きしめて、その頬に口づけた。

 初めてベルが会った時、自らを「野獣」だと名乗った。最初は恐ろしく見えたが、この城に住んでから、この王子がどれ程優しく紳士的であったか、知的で教養に飛んだ魅力的な男性か、よくわかった。

 ジークフリートの事を心から尊敬するベルは、もう彼を恐れる事は無い。


「フィリップを使うといい。あの子は良い馬だ。ベルでも乗りこなせる」

「そうね……お父さんの可愛がってた子だから、きっと無事案内してくれるわ」


 名残惜し気にジークフリートの毛むくじゃらの顔を撫でて、ベルは部屋を飛び出した。



 ベルの背を見つめるジークフリートは、歯を食いしばって痛みに耐えるかのような悲壮さを漂わせる。


「何も言わずに……よろしかったのですか?」


 ポット夫人は白磁の体をカタカタを揺らしながら、主人を不安そうに見上げる。


「言ったら……ベルは我慢してしまう。最愛の父の死に目に会えないのは可哀想だ」

「でも……7日もあの薔薇は持つでしょうか?」


 城の中に隠された温室にある1本の薔薇。その薔薇の花びらが全て落ちた時、ジークフリートの命も尽きる。今、最後の一枚の花びらだけが残っていた。もう……時間がないのだ。


「せめて……呪いさえ解ければ……」


 ポット夫人が溜息をつく。ジークフリートにかけられた呪いが解ければ、死も免れ、城は甦り、召使い達も人間に戻れる。その呪いを解くたった1つの希望がベルだ。

 ジークフリートはぎゅっと瞼を閉じ、ただベルの事を想った。



 愛馬のフィリップの背に乗り、ベルは城から飛び出した。日の光も閉ざす程、緑深い森の中をフィリップは駆ける。まるで父・モーリスの居場所がわかるかのように、迷いの無い走り。ベルはフィリップの首にしがみつき、たてがみに顔を埋めて震えた。

 父の事が心配だ。でもジークフリートの事も気にかかる。別れ際、何かをこらえている様子に見えた。理由も解らぬ不安な気持ちが心の中に広がる。7日間側を離れるだけだなのに、まるで永遠の別れのようだ。

 突然フィリップが足を止めた。唐突な行動に大きく体が揺れ、ベルはフィリップから落ちない様にとっさにしがみつく。見上げると遠く森の出口に、一人の人が立っている。よく目を凝らして驚く。


「お父さん……どうしてここに? 病気で臥せっていたのでは……」

「あれは魔法で見せた嘘だ。私は病気になっていない」


 ベルは自分の父親が魔法を使う姿など見た事が無い。しかし今目の前にいるモーリスは、病にかかっているとは想えぬ程に、はりのある声で朗々と語っている。あの鏡に映ったモーリスの姿が偽りであったのは事実だ。

 ジークフリートが貸してくれた、世界の全てを映し出す鏡のはずだが、モーリスの力はそれ以上のようだ。


「我が愛しの娘ベル。お前に大切な話があって、嘘をついてあの城から引き出した。信じられないかもしれないが……聞いてくれないか?」

「お父さんの話なら、どんな話でも信じるわ」


 一歩、一歩、森の落葉を踏みしめて、モーリスはベルへと足を運ぶ。


「ベルは子供の頃から本が大好きで、色んな物語を読んでいたね。かぐや姫、白雪姫、シンデレラ……あの御伽話を覚えているかい?」

「ええ、もちろん。暗唱できる程読み込んでいるわ」

「その物語が、お前の前世だと言ったら信じるか?」


 物語世界に浸る事を愛した少女。非現実を愛する乙女。そんなベルでもモーリスの唐突な言葉に戸惑う。

 モーリスは語る。幾度も転生を繰り返し、本当は魔法の力を身につけていたが、つい最近まで前世の記憶を忘れていて力が使えなかったと。


「前世の記憶を取り戻す事で、得られる新らたな力がある。ベル……お前にもあるんだ」

「私にしかできない力?」

「野獣の王子を救う力だ」


 ベルはぞくりと悪寒を感じた。救われないといけない程、彼は危険な状態なのだろうか?


「御伽話のお姫様は、王子の口づけで目覚める。女はただ男が来るのを待つだけで、男は女の元に辿り着く為に数々の試練をくぐり抜けてくる。何度も、何度もそんな人生を繰り返した……そのツケが今生に響いている」


 モーリスが語りながら城の方角を指し示す。


「お前の前世で、求愛し続けた男の生まれ変わりがあの野獣の王子だ。前世までに積み重なった呪いが体を蝕み野獣へと変化させた。そして……呪いは今、命まで奪おうとしている」

「ジークの命が……尽きてしまうというの!」


 慌てたベルはフィリップから飛び降りてモーリスの体にしがみついた。


「厭よ。私は帰るって約束したの。彼はとっても優しくて……一緒に過ごした時間がどれだけ幸せだったか……。彼が……彼が死んでしまうなんて……」


 震るえる娘の両肩に手を添えてモーリスは言った。


「野獣の王子の命を救うには呪いを解くしかない。もし野獣が呪いの中で死に絶えれば、永遠に生まれ変わる事もできず、魂が世界から消えてしまう。彼を救えるのは、ベル……お前だけだ」

「私に出来る事があるなら、何でもするわ。だから教えて、お父さん」


 モーリスは自分の羽織っていた外套の中から1つの水晶玉を取り出した。虹色に光る不思議な玉を見ていると、まるで吸い込まれて消えてしまいそうだ。


「ベル。魔法の力で『今』のお前の記憶を持ったまま、前世に戻れる様にしよう。この世界で得た知識も経験も、お前の力になるだろう」

「私が読んだ事のある物語世界なのよね? それなら……未来がわかっているのだから、これ以上無い力だわ」


 ベルが笑顔を見せると、モーリスはなぜか寂し気に微笑む。愛しい娘の頭に手を置いて、子供の頃のように頭をくしゃくしゃと撫でた。


「初めはかぐや姫の世界に行きなさい。彼女は不死の薬を持っている。野獣の王子が前世まで積み重ねてきた命の欠片。それを前世の彼に戻してあげるといい。そして、1つ1つ世界を超えてやり直す。王子が野獣の呪いを解く未来を紡ぐ為に。行け……我娘よ」


 ベルの小さな手に手を重ね、モーリスは慈愛の眼差しでベルを見つめた。


「絶対……彼を救ってみせるわ」


 明るく勝ち気なベルの本来の性格がやっと表にでてきたように、その瞳は力強く輝く。モーリスはその輝きが眩しいかのように目を細めた。


「例えどんな事があっても、野獣の王子を助けたいという、その想いだけは最後まで手放さないように」


 モーリスが両手で虹色の水晶を包み込むと、光が溢れ出してきた。その光がベルを包み込む。柔らかな光に溶ける様にベルは深い眠りにつく。モーリスは愛娘の体を抱きしめてそっと木の根元におろした。

 切ない眼で娘を見つめ、優しく頭を撫でる。


「知識も経験も、諸刃の剣。何も知らない今のお前が一番強いのかもしれない……」


 水晶を懐にしまい込むと手を合わせ、娘の無事を願った。

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