第二話 その二

 ただ、寿にはそのことを深く考える感性はない。

 駅前から深夜零時に出発する夜行高速バスに乗り込むため、速やかに移動を開始する。

 最寄の駅で最終電車に乗り込んだのが、夜の十一時。三十分程度で、その地域では一番栄えている中心街の駅に着く。彼が駅の改札から外に出た時には、まだバスが来ていなかった。

 周囲には誰もいない。それもそのはずで、こんな時間に駅にいたのでは、電車で家に帰ることが出来ない。

 東京行きの夜行高速バスは意外と人気があるという話だったが、その時は同じバスに乗る人の姿も見えなかった。寿はたった一人、バス停の前に佇む。

 見送る者もいない、寂しい新生活への門出である。

 ただ、これが昼間の電車であっても、知り合いの殆どいない寿には寂しい門出であることに変わりはなかっただろう。

 それに寿も特に気にしていなかった。慣れたことである。むしろ、しばらくして一台の車がバス停近くに停車し、中から見知った男性が姿を現したことに驚いたぐらいである。

 その男性――久井ひさい順治じゅんじは、穏やかな笑みを浮かべて寿のほうに近づくと、こう言った。

「いやあ、君の家に行ってみたら鍵が閉まっていたのでね。慌ててこっちに移動した。間に合ってよかったよ」

「久井さん、もしかして仕事の帰りですか」

「そうだよ」

「お忙しいのにすみません」

「君が謝ることではないよ。僕のほうこそ、もっと何かしてあげたかったのだけれど」

「そんな……」

 寿は恐縮した。

 久井が普段、信じ難いくらいの激務をこなしていることを知っていたからである。

「……少しでもお体を休めたほうがよいのに」

「いやいや、そうはいかないよ。楠君の出発ぐらい見送らないとね」

 そう言って久井は笑う。

 寿は久井の目じりに、先週会った時には気がつかなかった小さい皺が存在していることに気づいた。

「申し訳ございません。こんな夜中に」

「だから、君が謝る必要はないんだよ。これは私がやりたいと思ってやっていることなのだからね――」

 そう言ってから、久井は真面目な顔になった。

「――これで君は本当に一人ぼっちになってしまうのだね」

 他の人が言うと寂しい気分になりそうな言葉も、これまでの経緯を知る久井が口にすると、寿の覚悟を確認し、それを後押ししようとする温かみのある言葉になる。

 寿は少し微笑んで答えた。

「はい。これからは自分の力で生きて生きたいと思います」

「そうか」

 二人は目を合わせて笑う。その時、初めて寿は涙を一筋だけ流した。


 *


 翌朝七時、夜行高速バスは新宿のバスターミナルに到着した。

 かなりの強行軍だったが、そもそも町田から「物件の二重契約に関する連絡」があったのが、当初の引越予定前日であったから、これでも遅いほうである。寿は用意周到な性格なので、入学式の一週間前には現地入りして生活のペースを作っておこうと考えていた。それがこの有様である。

 結局、荷物の搬入を行うことになったのが入学式の二日前で、その日は荷物の整理をするのが精一杯だった。

 その点、家具付き物件であったことが功を奏したと言える。もともと引越費用を圧縮するために、家電類は転居後に準備しようと考えていたところ、必要充分な家電と家具が既に設置済みとあれば、それ以外の生活必需品はたかがしれている。それに、寿は簡単な生活を好んでいたから。本以外の私品はさほどなかった。

 朝一番に不動産屋に立ち寄り、町田から物件の鍵を受け取る。

 その足で洋館に向かうと、引越業者が既に到着していた。門から中に入って屋敷を見た業者は、案の定、唖然とした表情になる。

「契約書には四LDKとありましたし、まあ、それでも一人暮らしには広すぎるんじゃないかと思いましたがね。これはなんとも」

 荷物の搬入は搬出よりも短い時間で終了する。引越業者は、

「これだと次の予定まで余裕があるなあ」

 と、恥ずかしそうに言いながら去った。

 彼を見送った寿は、とりあえず、階段で二階に上がった目の前にある部屋を自分の寝室として、私物はそこに押し込む。

 続いて洗剤の類を購入する必要があったので、近くにあったスーパーマーケットを四回ぐらい往復する。

 玄関に靴を置き、キッチンに当座の食材を納め、トイレに紙を補充し、とても洗面用とは思えない広さの洗面所に洗剤の類を配置すると、それで一日の大半が過ぎ去ってしまった。

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