第二話 その一

 ということで、寿は東京都の市部にある不相応な広さの洋館を、ワンルーム価格で借りることになった。

 桐谷の謎めいた言葉と確信に満ちた瞳が、寿の決断のきっかけとなったのは事実である。しかし、それをさらに後押ししたのは馬車小路の言葉だった。

「なんだか横取りした上で無理をお願いしているような気がしてとても心苦しかったのですが、その結果がこの物件であれば私としてはとても嬉しいです」

 と、最前の落ち込みを払拭するように明るく笑った彼女を見て、寿はそれ以上の抵抗が出来なくなったのだ。

 まあ、広過ぎる点は確かにデメリットだったが、それ以外の点では破格過ぎる好条件である。いや、単なる好条件ではすまない。「普通ありえない異次元レベルの好条件」である。なぜなら家賃だけではなく、その他の条件もまた「普通ありえない異次元レベル」だったからだ。

 屋敷内の加減や家具の類は、古いものばかりだが念入りに手入れがなされていて、全て使用可能なコンディションにある。それを無料で使って構わないし、破損しても修繕費の負担はない――もちろん寿は大切に扱うつもりではあったが、不測の事態ということはありえたので、この条件は実に有難かった。

 また、礼金及び敷金は不要で、退去時の修繕費用も全額大家持ちである――ということは、どうしても我慢がならなければ時期を見て適切な物件に引っ越せばよい。

 ペットも同居人も自由、事前に大家さんの了承を貰う必要もない――こちらは予定していなかったので話だけ聞いておいたが、他の物件ではまず有り得ないだろう。

 ともかく「なんでも好きにして頂いて構わない」という条件で、借り手にとっては実に有難かったが、ここまでくると何だか出来過ぎていて逆に不安になってくるものである。

 しかしながら、既に入学式まで秒読み段階となっていたこの時期、大学近くに残っている物件はこれしかなかったので、そもそも寿に選択の余地はなかった。無論、寿が町田が言った通り、大学からかなり離れたところにはいくつか物件が残っていたものの、(洋館ほどではなかったが)広過ぎて家賃が割高であったり、心理的瑕疵があったりと、条件面でいわくつきだからこそ借り手がつかず残っていたものだらけである。

 ただ、実際のところ寿が借りることにした洋館も、別な意味で『いわくつき』ではあったのだが、この時点では殆どの者がそのことを知らなかった。また、その点で町田を責めることも出来ない。なぜなら「それ」は、事前説明が必要な重要事項の範疇ですらなかったからである。


 *


 物件の内覧を行った直後、寿は地元にとんぼ返りして引越の段取りを始め、二日後には業者との調整を終え、そのまた二日後に荷物を出した。

 三月下旬の引越が立て込んでいる時期であったから、それで済んだのは僥倖といわざるをえない。その代わりに時間は選べず、引越業者が荷物の積み込んだのは夜の十時過ぎだった。これは寿の荷物が多すぎたせいではなく、無理を言って最後のほうに入れてもらったために、前の引越のスケジュールが伸びた影響をもろにかぶった結果である。

 さて、荷物を受け取りにきた引越業者は、寿の荷物を見て唖然とした。

「これはまた随分と思い切った荷物ですね。見積書を見た時にも思いましたが、こうやって実際に見ると、実に少ない」

「はあ、そんなに少ないですかね」

「この仕事を始めてから十五年ぐらいになりますがね。ここまで少ないのは単身赴任のお父さんぐらいですね。しかも、期間が一年程度と始めから決まっているケースで、本当に必要なものだけ送るというケースです。お客さんは大学入学ということでしたね」

「はい」

「だったら、こんなに少ないのは驚きですよ」

 彼がそういうのも当然である。寿の荷物はダンボールのみで、その数も二十個程度だった。宅急便で送ると割高だから、引越専門業者にお願いしただけのことである。しかも、その箱の七割が書籍だった。

「だいぶん時間が押してしまったから、これだと私達は助かりますがね」

 荷出し作業は十分とかからなかった。

 そのまま交替でトラックを運転しながら転居先に向かう引越業者を見送ると、寿は部屋に戻って室内を見渡した。

 本格的な掃除は昨日までに終わらせてある。引越作業に伴う若干のほこりをハンディ箒で集めてしまうと、それでやることはなくなってしまった。

 田舎では大変に珍しい「六畳一間の風呂付物件」が、いまやがらんとしている。寿は眼を細めてその光景を見つめた後、小さく息を吐いてから、

「三年間、お世話になりました」

 と言って、深く頭を下げた。

 それから小さな手荷物一つを左手に持って、玄関から外に出て鍵をかける。その鍵は封筒に入れて、玄関の新聞を入れる小窓から中に放り込んだ。業者の現状確認は昼間に終わらせていたので、それだけで「今までの住処との決別」は完了である。

 実にあっけなかった。

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