第一話 その三
その老婆は
彼女は、
「遠いところをわざわざお越し頂き、誠に有り難うございます。ちょっと掃除が行き届いていないもので、申し訳ございません」
と、社交辞令程度の申し訳なさをにじませながら謝罪すると、門の鍵を開けて、
「ゆっくりとご覧になって下さい」
と言いながら、門の脇に身体をずらして右手を伸ばした。手馴れた所作である。
三人は彼女の導きに従って中に入る。しばらくすると先頭を歩いていた馬車小路が、
「あらまあ」
と、小さな驚きの声を上げた。
彼女は大きな屋敷を見慣れていたので、その程度の驚き方で済んだものの、寿と町田は声も出ない。寿が「町田まで絶句するのはいかがなものか」と気がついたのは事後のことで、その時はそんなことを考える余裕もなかった。
周囲がこんもりとした屋敷林で囲まれていたので外からは分からなかったが、中に入ってみると林の奥に洋館が建てられていた。
窓の位置からすると二階建てである。ただ、二階部分と屋根の間に余裕があるように見えるので、恐らくは屋根裏部屋があるのだろう。
いずれにしても、大学生が一人で住む物件ではない。
「あのう、確か四LDKの一軒家というお話だったと思うのですが」
町田は最初の驚きから即座に回復すると、まずはっきりさせなければならない点を切り出した。さすがに不動産業者である。
対する桐谷は、にこりともせず至極真面目な顔でその疑問に答えた。
「その通り。間取りは四LDKですが、何か問題でも? あら、そういえば屋根裏の物置を勘定に入れ忘れておりますので、四SLDKになるのでしょうか?」
「まあ、屋根裏はひとまず置いておいて――あの、それにしては建物が大き過ぎやしませんか。どう見ても十LDKはありそうな
「あら、お分かりになりますか。さすがは不動産のプロですこと。元は確かに十LDKでしたが、一階にあった客間二つを居間と繋げておりますし、二階も八部屋あったものを二つずつ繋げて四部屋に致しました」
桐谷はこともなげにそう言うが、寿にとっては町田が想定していた四LDKであっても、広すぎて到底手に負えない。
それなのに「元十SLDKの四SLDK」ときた。さすがにこれはなかろうと思い、寿は町田に言った。
「私には大きすぎますよ。むしろ馬車小路さん向けじゃないですか」
そこに桐谷が口を挟む。
「あら、こんなところに女性が一人きりというのは、物騒じゃありませんこと」
さらに馬車小路が、
「あら、別に大丈夫ですよ。広い屋敷に一人きりというのは……」
と言ったところで、急に顔を曇らせた。
まるで快晴だった空に急に雷雲が密集したかのような馬車小路の変化に、寿は慌てた。
「あの、何か不躾なことを言ってしまいましたか?」
冷や汗をかきながらそう訊ねると、馬車小路は小さく笑ってから、
「あ、いえ、ご心配なく。楠さんが悪いわけではありませんから」
と言う。
それで寿は余計に心配になった。彼女の言い方からすると、寿が悪いわけではないが、懸念がないわけでもないことになるからだ。
その点をどうやって訊ねたらよいのが寿が迷っていると、桐谷がのんびりとした言った。
「まあ、立ち話もなんですから、まずは屋敷の中に入って下さいな」
屋敷の中がこれまた規格外の造りになっていた。
広い玄関ホールはまだ想定の範囲内だったが、その先にあるドアを開けると、非日常的な空間が広がっている。
賃貸物件だから調度品の類いはないのが普通なのに、それどころか古色蒼然とした応接セットが手前に置かれており、その先には十人ぐらい楽に座って会食出来そうなダイニングセットが見える。キッチンは奥にある扉の向こう側にあるようだが、この時点で既に『厨房』と呼ぶべき規模であることは明らかだ。
さすがに町田が口を開いた。
「その……こちらの、あの、残置物はどうしたら宜しいのでしょうか?」
残置物と呼称するのは不適切な風格だったので、町田も一瞬躊躇う。
しかし、桐谷は平然としたままだった。
「勿論、使って頂いて結構ですわ」
「しかしですね――」
町田がここで寿のほうをちらりと見る。寿には彼の言いたいことが良く分かった。寿も同じことを考えていたところである。町田は僅かに眉を上げると、桐谷に向き直って話を続けた。
「――壊したりしたら弁償が大変なのでは」
「あら、弁償だなんて。そんな必要は全くございませんよ。もう大層昔のものですから」
桐谷はあくまでも淡々としている。大層昔のものだから大変なのだが、意に介していない。
さらに彼女は話を続けた。
「それに、今さら他のところに持っていっても、今風の建物の造りや周りの調度品とバランスがとれません。それはとても可哀想なことですわ。最後の御奉公は是非ここでお願いします」
そう、堂々と言い切る桐谷に、町田はとうとう開いた口が塞がらなくなった。
そこで、寿が前に出る。
「お話は大変よく分かりました。条件も破格と言ってよいでしょう。大学からもさほど離れていませんから、その点もばっちりです。結局のところ問題となるのは――僕が一人でここに住むということです。さすがに広過ぎるのではないかと――」
そこで寿は気がついた。
桐谷がとても優しい目で彼を見つめている。
そのことに圧倒されて寿が黙ると、桐谷はその瞳のままでこう言い切った。
「今はそうかもしれませんが――すぐに気がつくことになりますよ。自分にはこの広さが必要だということに」
その言い方があまりにも確信に満ちたものであり、加えて慈愛に満ちたものであったがために、三人はそれ以外桐谷に対して四の五の言えなくなる。
誰もが黙る中、屋敷のどこかから猫の鳴き声が聞こえた。
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