第一話 その二
少女は
そして、彼女は現状を充分に把握していた。なぜなら、
「あのっ、本当に申し訳ございませんでした、何だか凄くご迷惑をおかけてしまいまして。本日ここにお見えになると伺ったので、駆けつけました!」
と、自己紹介もそこそこに、いきなり謝罪してきたからである。
要するに「もう一方の当事者」ということだろう。しかも、町田が前もって仕組んだに違いない。
彼は最初こそ表に出てきて謝罪の言葉を繰り返したものの、応対を部下の女性に任せると、奥のほうで事務作業に没頭している(ふりをしているように見える)。寿は町田のその変わり身の早さが別に嫌いではなかった。
それにしても、
――確かに親も心配したくなるだろうな。
と、寿は考える。
寿よりも一回り小さい身体。身長は百五十センチ前後だろう。若干丸みを帯びた体型は、健康的で好感が持てる。
何よりも表情が良い。申し訳なさそうに眉を潜めているところは、何かお願いされたら無条件で了解しそうなほどに尊い。
しかしながら、
「いえいえ、馬車小路さんは全然悪くないですから大丈夫ですよ」
と、寿はにこやかに笑みを浮かべつつ、その実、馬車小路の後方が気になって仕方がなかった。
なぜならそこには、全身を黒のスーツできっちり覆った寿とそう変わらない長髪の男性が立っており、なんだか冷たい眼で寿を睨みつけていたからである。
その男が馬車小路に話しかける。(その時だけ、視線を和らげつつ)
「お嬢様。前々から申し上げております通り、わざわざこんな狭い部屋に住む必要はないのですよ」
「何度言ったら分かって頂けるのですか、斉藤さん。私はやっと家から離れて普通の生活が出来るのですから、出来るだけ普通の生活がしたいのです」
「しかしながら、今のお嬢様のお部屋の十分の一もないではありませんか。お荷物だって殆ど入りませんし」
「そっ、そっ、それはそうですがっ」
「結局のところ、お父様からは『税金対策で買っても良い』と言われて、お隣の物件を購入済ですし。なんでしたら全面改装しても宜しいのですよ、お隣」
「だっ、だからそれでは駄目だと何度も申し上げているではありませんかっ。私はごく一般的な、普通の生活がしたいのですっ」
「お嬢様のお気持ちは大変良く分かりますが、世間にはいかがわしい輩も多いのですから、斉藤は心配でなりません」
そんな風に『お家の事情だだ漏れ』で会話している二人を、寿は黙って見ていた。
――ああ、これは係わり合いにならないほうが良いやつだ。
普通が、普通がと連呼している割に、やっていることが普通ではない。
それに『いかがわしい輩』のところで斉藤が寿をちらりと睨んだような気がするものの、寿はそんなことは気にしなかった。
ただ、引越の日付を伸ばしてここに来ていたので、出来れば早めに実家に戻りたいところである。そこで、
「あの、いろいろご事情があって大変そうですが、私はそろそろ物件の内覧に行かせて頂いて構いませんか?」
と、口を挟む。
それを聞いた馬車小路は、
「あ、はい。その、申し訳ございませんでした。お見苦しいところをお見せしてしまいまして。承知しました――」
そしてにっこり笑うと、こう言った。
「――それでは同行させて頂きますね」
「はあ、その……何でですか?」
寿は想定外の回答に当惑したが、馬車小路はさらに満面の笑みを浮かべ、こう言った。
「あら、当然じゃありませんか。私のために楠様が家を変えなければならなくなったのでしょう? それならば私にも責任がありますので、最後まで見届けさせて頂きます。斉藤さん、車をお願いしますね」
そして、斉藤のほうは苦虫を噛み潰したような表情になりつつ、
「承知致しました」
と答える。寿は、小さく溜息をついた。
斉藤が運転する車は、トヨタのプレジデント、しかもストレッチリムジンである。
寿とさほど年齢の変わらない外見から、年も同じぐらいだろうと考えていたが、それにしては運転の手際が良い。狭い東京の路地を巨大な車を縦横無尽に操って、滑るように抜けてゆく。
どうやったらそんなに運転が上手くなるのか聞きたいところだったが、
「お屋敷の庭で練習をさせて頂きましたので」(自動車学校よりよほど広いですし)
と、平然と言われそうだったので黙っていた。
それにしても車内が広い。運転席後方には向かい合わせに座席が配置されていて、進行方向逆向きに寿と町田が並んで座り、その向かい側中央に馬車小路が座った。それでも車内には、まだ充分に余裕がある。
ただ、町田もこの事態は想定外だったようで、表情をこわばらせていた。
「あのっ、もう少しで現地ですがっ――」
声まで上ずらせている。
「――ただ、そのう、少々問題がありまして」
「あら、なんですの?」
馬車小路が天真爛漫な声で訊ねる。それと同時に町田の身体が少し震えたのを寿は見逃さなかった。
「その、実は、この車を止める場所がございません」
「まあ、そうなんですか。東京は不便ですのね」
そう言って馬車小路は小さく笑ったが、寿は、
――いやいや、この車だと東京じゃなくても普通に難しいから。
と内心突っ込んでみる。
しかし、馬車小路は意に介することなく、こう続けた。
「それでは斉藤さん。しばらくの間、この周辺で待っていて頂けますか」
「……承知致しました」
不承不承了承したことが声だけで分かるような回答だった。
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