第一話 その一

 発端は、一本の電話だった。


「いやぁ、まったくもって申し訳ございません」

 先日会った不動産会社の男――町田まちだからである。しかも、電話の声だけで「四十代後半の日焼けしたいかつい男が、机の前で深々と頭を下げている姿」が浮かぶ。 

 このような、用件に入る前にいきなり謝罪が始まる電話には、碌なものがない。それは十八年しか経過していないくすのき寿ことぶきの短い人生の中でも、既に何度か経験済みのことであり、その時もそうだった。

「実は弊社のミスで、契約した物件に手違いがありましてですね」

「はあ、書類の不備か何かですか」

「いえ、そうじゃないんです」

 そこで話を続けるかと思えば、町田はそこでいったん話を切った。つまり、この後に続く話のために寿の現在の心理状況を把握したい、というところだろう。それだけ面倒な案件だということが分かる。

 しかし、この時点ではまだ事の重大さを認識出来ていなかった寿は、最近ニュースで話題になった出来事を思い出した。

「その、契約したマンションが欠陥建築だったとか、そういうことでしょうか」

「いえいえ、そっちじゃないんです。まったくの手違いでして」

 その声だけで、寿の脳裏に今度は「海千山千の不動産業者が右手をひらひらと振っている姿」が浮かぶ。それにしても、なかなか用件に入ろうとしないのが実に怪しい。

 寿は小さく溜息をつくと、

「では用件をお願いできますか。その内容によって対応を考えますので」

 と促した。

 この言葉で寿が聞く耳を持っていると判断した町田は、

「そうですか。では話をさせて頂きます。楠さんには全く迷惑な話で実に申し訳ないのですがね――」

 と、それでもいったん間合いを取ろうとする。業者の前置きが長いのも「よくない話」フラグの一つである。

 電話の向こう側から、町田が大きく息を吐くのが聞こえた。覚悟を決めたのだろう。


「――実は、同じ物件に二件の賃貸契約を入れてしまったんですわ」


 事態は寿が想定していたもの(火事で焼失等々)よりも、少し軽めだった。まあ、それでも緊急事態である。

 そこで、寿は確認のつもりでこう言った。

「はあ。でも、私のほうが先に手続きを済ましているのではありませんか」

 彼が二月前半に契約した物件は、学生向けのワンルームマンションである。

 最初から進学する先の大学を決めていた寿は、「浪人した時にはそこから予備校に通えばよかろう」と判断して、先んじて年末に物件探しに動いた。

 入学試験の合間を縫って物件の内覧を繰り返し、その上で納得して契約したものであったから、条件がすこぶる良い。

 大学から近く、生活環境も良好で、築年数の割りに家賃が相場より若干低いと、非の打ち所がなかった。

 町田も「大家さんが金に困っていないらしく、むしろ若者を助けるために建てた物件だ」と言っていたので、掘り出し物中の掘り出し物だろう。

「まあ、そうなんですがね――」

 町田はその確認があることを事前に想定していたのだろう。今度は間を空けることなく、

「――例年、この時期ですと大体の優良物件は契約済みになりまして、後はいわくつきの物件しか残っていないんですわ」

 と言った。

「はあ、そうなんですか」

 それは当然のことだろう。なにしろ今は三月下旬で、寿も明日の引越に備え、荷物の準備を完了したところである。

 そこで町田は、さらに情報を付け加えた。

「それでですね、もう一方の方が若い女性でして。大学進学のために田舎から上京して、生まれて初めて一人暮らしを始めるらしくてですね、親御さんがそれはもうご心配のご様子で」

「はあ」

 寿も「大学進学のために田舎から上京して、見知らぬ土地での一人暮らしを始める」ところだった。ただ、彼は一人暮らしが初めてではなかったし、そのことを心配してくれる両親もいなかったから、その点は違うかもしれない。

 ただ、流石にこの時点でだいたい話の筋は読めてきた。しかしながら、自分から切り出すことではなかろうと思い、彼は言葉を濁す。

 町田はそれを不満の表明と認識したらしく、急におもねるような声になった。

「それでですねぇ、出来れば楠さんには当社が厳選した物件のほうをご案内致したいと思っておりましてですねぇ」

「先ほど、いわくつきの物件しか残っていないと言っていませんでしたか?」

 寿は即座に切り返した。状況はよく分かったものの、そんなにすんなりと同意できるものではない。

 しかし、町田はそれも想定済みだったのだろう。こう話を続けた。

「それは『大学に通う学生さん向けの物件だとそうだ』という意味でですね。もう少し幅を広げていただければ宜しいのですが」

「家族向け物件ということですか?」

「はい」

「いやでも、僕は一人暮らしですし、家族向け物件じゃあ家賃も高いでしょうし……」

 寿がそう言った途端に、電話の向こうから町田が一気に畳み掛けてきた。

「その点は全く問題ございません! 家賃につきましてはむしろお安くご提供できると思いますし、敷金や礼金もかかりません。まあ、大学からは少々離れますが、それでも徒歩十五分以内のところです」

 寿の脳裏に「男が電話の向こうで揉み手をしている姿」が浮かぶ。

 寿は考えた。

 金銭面から考えると、初期費用は契約済み物件よりも条件が良い。それだけだと逆に好条件すぎて怪しいが、通学には少しだけ時間がかかるという。この辺の勧め方のバランスが実に上手い。

「はあ。通学時間はそんなに気になりませんが……」

「そうですかそうですか。それでしたら是非、明日にでも現地をその眼で確認して頂けませんかね。交通費はこっちで負担しますのでね。楠さんにはきっと気に入っていただけると思いますよぉ。私が保証します!」

 営業トーク全開である。ダブル・ブッキングが公になるのを恐れているのか、あるいはもう片方の客がよほどの重要顧客ということだろうか。

 この手の保証にはなんの担保もないことを楠は知っていたし、そこまで優良な物件なのであれば、もう一方の当事者に勧めればよいのではなかろうかとも思うものの、確かに寿のほうが柔軟に対応可能だろう。

 それに彼も、女の子に心細い思いをさせるのは忍びないところである。

 そのため彼は同意した。

「……分かりました。それでは明日、現地確認に伺います」


 後日起こった出来事により、彼はこの時の決断を大いに後悔することとなる。

 同時に「それが少女の身に降りかかっていたかもしれない」と考えると、大いに安堵することにもなる。

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