第3話
ここは何処?
真っ暗だ。
僕は林の中を走っている。
なんで走っているんだろう。
カサカサ草が擦れる音。
吹き荒れる風の音がうるさい。
自分の心音が余計に焦りを誘う。
そうだ、あいつから逃げるため。
あいつって誰だ?
汗でべとべと。
肌にくっついたシャツが気持ち悪い。
遠くから客観的に見ている自分と、実際走っている自分。
そうだ、これは夢だ。
だからこんなに違和感がある。
一生懸命走っているのに景色が変わらない、前に進まない。
だけど、夢と言い切れないくらいリアルで、感覚もしっかりある。
後方から明るい光に照らされる。
なぜだかその光を恐いと思った。
捕まっちゃいけないと。
眩しく綺麗な光なのに何となく不気味な光。
前は暗闇、後ろは光。
だけど僕が今向うのは前だと、そうしなきゃいけない。
そう何故だか確信があった。
後ろの光は冷たくて前の闇は暖かくそう感じていたからだ。
夢、これは夢のはず。
こんな空間、僕は知らない。
だけど、上手く言えない。
それが夢なのだろう。
夢だと分かっているのにこの恐怖は何だ?
この大量の額の汗は?
このリアルな心臓の鼓動の音。
本当に、夢なの?
後方の光が近くなった気がする。
捕まる。
嫌だ、僕は、僕は……
その後、何を言いたかったんだろう。
ドアから入った微かな光に豊は夢から引き戻された。
大量の汗、心臓のドキドキは今でも残っている。
夢の記憶が鮮明で、今どこに居るのか、一瞬分からなくなっていた豊だが、布団の温かさで鼓動は自然と収まった。
さっきのドアの光が原因だろう。足もとに人の気配がした気がする。
豊は瞼を擦りゆっくり目を開いた。
そこには豊と同い年くらいの、髪を二つに縛った可愛らしい女の子が立っていた。
少女は健康的な肌色で、だからと言ってワンパクそうなわけでもなく、女らしい面も見え隠れするような可愛らしい容姿で、豊が起き上がるのを見てドングリの様な大きい目玉を興味心身に開いた。
少女は顔から服から泥にまみれ、だが豊の服の様に長年ついた汚れじゃなくて最近ついた物の様だ。
「これ」
そう言いながら少女はずいっと握ったこぶしを前に出した。
彼女の声はちょっと硬く、緊張している様だった。
彼女の握った手の隙間から見える光に自分が履いていたズボンのポケットの中身を思い出した。着替えさせられた時にベッドの横に出されまた気が付いた自分が今、履いているこのズボンのポケットに入れたお守りの石を。
手を開いて中身を見せた少女は、とても得意げで目がキラキラしていた。
そこには彼女の瞳と同じ、薄い黄色の石が優しい光を放っていた。
「いいでしょう、私の宝物なの。」
そう言いながら柔らかくとっても綺麗に笑う少女に豊は見とれてしまった。
「病気が早く治るように貸してあげる。すごい汗。大丈夫?」
大人っぽく喋る彼女はとても子供には見えない表情をする。
女性と接した事、同じくらいの年齢の子と話をした事がほとんどない豊は上手く言葉が交わせなかった。
「ここに置いとくね?元気になったら遊ぼうね」
そう、艶っぽく笑う少女はとても魅力的だった。
少女は豊の布団の横にあった小さな棚の上に自分のハンカチを置いて、その上に黄色い石を置いた。
隣に置いてある沢山の細工菓子に目を奪われた少女は一つ手に取った。
「これ貰っても良い?」
キラキラしている少女は大人びていても、やはり子供だ。
豊は軽く頷いた。
少女は満足そうに笑い菓子を一つかみ持ち、軽く手を振って出て行った。
お礼言えなかった。
明日返す時にちゃんと言わないと。
そう思い少女の石を手に取った。
豊の持つ石は薄い青、この石は薄い黄色。
直径一㎝ほどの六角柱。それだけを見たら宝石のような形の石、色違いと言っても良い程とても似通っていた。
偶然だなー。
綺麗な色。
吸い込まれそうだ。
豊はポケットから自分の青い石も取り出し窓の方に手を掲げて下から二つの石を覗き込む。
黄色い光と青い光がそろう様に不思議な光を放ち、それが自分にあたり、ほんの少しだけど身体が楽になった気がした。
その日、豊は境や名前をつけてくれた女性に甘えて、一日中布団の中で過した。
豊にはこんな贅沢な一日は初めてだった。
寝ているだけで、食べ物が貰えるのだ。
暖かい食事、部屋も寝どこも温かい。
薬も飲ませてもらった。
豊は薬を口にするのは初めてだった。
警戒して首を横に振ったが。
「駄目よ」
そう、小母さん強く言われ、迫力に負けてしまった。豊は意を決して飲み込んだ。
初めての異物、苦味に初めは死をも覚悟した豊だったが、あまりに効きがよく、どんどん身体が楽になるので、こんな便利な物があるのかと驚いた。
ただ単に飲み慣れてない豊には早く良く効いただけなのだが。
世話をしてくれた熊のエプロンの女性の名は上村と言った。
境がそう呼んでいただけなので、多分だが……。
人の温もりを受けたのは初めてだったかも知れない豊は、どうしても素直に受け取れなくて、その後の恐怖を考えてしまっていた。
こんな空間、むずがゆい。
甘えたくなってしまう。
そう、豊はどんなに強く寂しく、一人で頑張って生きていても、まだ子供、本当は頼ってみたいのだ。寄りかかってみたいのだ。
「坊主起きろ」
低いダミ声。初めは怖かった豊だったが随分耳慣れた。
目は瞑っていたが起きてはいた豊だったが、この二日間夢だったんじゃないだろうか。目を開けるとこの温もりはなくなるんじゃないだろうか。
そう思い、まどろみの中、目を開けると消えてしまいそうな暖かさに堅く目を瞑っていたが、鏡の声にゆっくりと目を開けた。
豊は暖かい感触を確かめながら現実だと確かめる様にぎゅっと布団のシーツを握る。
ちょっと濡れているそこには豊の涎が垂れてしまったようだ。
夢じゃない。
身体がとても温かい。
心もなんだか温度が高い。
豊はゆっくり周りを見渡した。
視界の奥には境と上村さんの姿が映る。
「今日からはまだ早いんじゃないのかい」
「俺達は貧乏なんだ。そうも言ってらんねーよ」
そうかい?と言いながらも顔を横に振る上村。
二人の声に豊は心が痛くなった。
信じ始めていた。
だけど、やはり僕は売られてしまうのだろうか、お金儲けの道具にされてしまうのだろうか。
この夢の様な時間は終わってしまうのだ。
心の綺麗な人間なんていないんだ。
小さく身を震わす豊の態度に気づき、境がにっこり笑う。もともと、恐い顔なのでにっこり笑っても不気味だが。
境は笑う事が苦手だった、だけどこの身を震わす少年の恐怖の顔をちょっとでも変えたくて、できるだけの笑顔を作る。
だが、壁を再び作り始めた豊には届かなかった。
ふうっ、小さく息を吐いた境は長袖のTシャツと綿のズボンを豊の布団の上に置く。
「これに着替えろ、出かけるぞ」
服を横に置かれただけだがビクついてしまった。
豊の着がえる手が震える。上手く着れない。
着がえるのを根気よく待ちながらも、境は困ったように笑った。
「大丈夫、取って食いはしねーよ、まあ俺らは貧しいからな、ちょっと働いてもらうだけだ。」
働くだけ?
ちょっとだけ豊の震えが止まる。
ちょっと拍子抜けだ。
だけどまだ分からない。
落とし穴があるかもしれない。
どんな仕事かも分からない。
だけど、優しい顔の境と上村さん。
ちょっと、また信じてしまっている自分が居た。
後ろから響いてきたバタンという大きな音に三人は皆、ドアの方に目を向けた。
昨日の二つ結びの少女、石を貸してくれた少女が、走って中に入ってきた。
「具合、良くなった?」
声の高い少女の頬は赤い、走ってきたのだろう。
だんまりな豊だったが、少女には悪意が感じられなくて、
「うん、……ありがとう」
そう呟き、昨日貸してくれた石を渡した。
境や他の人達からも悪意は感じていなかったが大人は悪意が隠せると豊は思っていたのだ。
石は少女の手に戻ると答える様に小さく光った。
「効いたでしょ?」
そう艶っぽく笑う少女はやはり同年代とは思えない。
「私の名前は未羅、あなたは?」
豊はすぐ反応できなくて目線を泳がせた。
そうすると、上村と視線がぶつかった。
にっこり笑う上村。
「ゆ、豊」
呟いたら無性に顔が熱くなった。
初めて口にする僕の名前。
何だか身体も心も熱い。
境の家を出た三人はゆっくりと山道を歩いていた。
貧乏人の移動方法はやはり足だ。
今日も結構歩くらしい。
地形が変わってしまったこの地では平坦な道の方が少ない。
足が痛い。
歩くのには慣れていた豊だったが食料を探す以外はこんなに歩く機会は最近、あまりなかった。今日の天気は晴れていた為、直射日光が葉の隙間から当たり豊の額からは汗が流れた。昨夜随分と雨が降ったのか道はかなり抜かるんでいた。
歩きにくい。
そりゃそうだ、豊の靴は誰が見ても分かるくらいぼろぼろだった。
つま先は半分以上破れ、色も元は違っただろうに真黒だ。
ゴミ捨て場から拾ったものサイズはもちろん大人用、豊の足にはこれっぽっちもあってない。
境と未羅の足元をみた。
二人の靴はなんだかお手製の様ですごく足にフィットして見えた。
底の部分は木材でできていて周りには布を巻いてあり、靴紐もアジアンチックでお洒落だった。
なんだかすごく温かみを感じた。
見ながら歩いていたからか、豊は躓いた。
運よく境が振り返り後ろを歩いていた豊の元に駆け付け転ぶ寸前で支えた。
「危ねー、危ねー、あっそうだったな。」
ふーと息を吐き額の冷や汗を拭った境は思い出したように自分の鞄から子供用の靴を出した。
「それじゃ、歩きづらいだろう?」
その靴は未羅と境が履いているものと同じもののようだ。
「まあちょっと不格好だがそれよりはいいだろう?」
境はなんか照れている。
頬が少し赤い。
伺いながらもこちらを見る境。
そんなに見られると緊張する。
靴は未羅の物と同じデザインだが男の子が履くようにサッカーボールのワンポイントの刺繍が施されていたり痛くならない様調節できるようにゴムで加工してあったりとかなり手の込んでいるようで境の豊に対する愛情が感じられた気がした。戸惑いながらも豊は手を震わせながら靴紐を解き、足を通した。
木材なのに痛くない。
足に触れる部分に薄くクッション代わりに藁の様なものが織り込まれて敷いてある。
表面的に見た感じより手の込んだもののようだ。
「あ、ありがとう」
まだ足は痛いけどずいぶん楽になった。
「それ、俺が作ったものなんだ。」
そう呟いた境の顔はまだちょっと赤いけどどこか得意げだった。
着いた所は緑あふれる場所だった。
境に連れてきてもらった集落も自分が居た所よりは何倍も綺麗だったが、ココの緑は色が濃く前の日の雨の雫が光っていて綺麗で、遠くから他の動物や鳥の鳴き声も聞こえてきた。豊は空気が身体の隅々まで行き渡るよう息を吸い込んだ。
久しぶりに大きく息を吸った為ちょっとむせてしまう豊の背を心配そうに笑いながら未羅がさすった。
女性に触られることがあまりない豊は少し顔を赤くし未羅にありがとうと小声で言い未羅から距離を置いて、もう一度木々の色や空の青さに酔いしれた。
一時間ぐらいしか歩いてないのに、この町にもこんな綺麗な所があったのだ。
豊はキョロキョロと周りを見渡した。
こんな空気が美味しい所、初めてかもしれない。
ここに比べると僕はなんて汚い所にいたんだろうか。あの世界しか知らなかったからそんな事思いもしなかったけど。
広がる田畑その向こうには木々が茂っていた。
豊が居た場所と違ってここは土も水も良いのだろう。
春が目前に迫っているとはいっても今はまだ冬だ。
冬にしては花も多く咲いているし葉も青い。
ここ最近の異常気象のせいで、どんな季節でも暑かったり寒かったり日中と夜間の気温差も激しく皆、服装など温度調節には苦労していた。
興味心身の豊に、境は優しい笑みで見つめた。
「まだおめえ小せえし、何に向いてるかも分かんねえだろう?とりあえずここに連れてきてみたんだけど……」
境はキョロキョロ辺りを見渡す。
働いている数人の中から、頭を布で覆ったおじさんを見つけ声をかけた。
「トムさん」
その声に振り替えるトムさんという人。
外の作業の所為か肌の色は黒く結構お歳に見える、だけどその表情はとても穏やかでイキイキして見えた。
口の横にある大きな黒子が印象的だ。
「その子、昨日話してた子かい?」
「そうだ、俺、作業場の方行くから、今日、一日お願いしたい、夕方迎えに来るから、その後は夜間学校の手続き連れて行こうかと思ってるんだ。」
「おいおい一日でそんなにかい?今日初めて働くのにしかもこんな小さい子、昨日まで熱で寝込んでたんだろう?無理させ過ぎじゃないのかい?」
「なに、あんなとこで生きてたんだ、こいつにしてみりゃ、こんな所、屁でもねーよ、なー?」
不意に境に話を振られ、驚く豊である。
話を聞いていた感じでは僕は夕方までここで働くらしい、驚いた。本当に売られるんじゃないんだ。大人と混じってここで働くんだ。
働くという事に豊は実はずっと憧れていた。
前、居た所でも働くことを試みることもあったが、値踏みするような眼で見るだけだったり、子供だから無理の一点張りで話も聞かず突っ返されたり。そもそも働くところも少ないし働いている人も少ないような所だった。
泥まみれで体を動かす、ハラハラするような嫌な汗じゃなく、気持ちのいい汗をかく。
田畑を見た感じだと子供もいる。
豊の表情が少しずつだが明るくなってきた。
ワクワクする。僕も働ける。
「おっ良い面構えだな、じゃートムさんよろしく頼むな」
「ああ、分かったよ、お前も気をつけてな?あの作業場の近くは……」
境を見送りながら、神妙な顔つきに変ったトムは言った。
眉間のしわも深くなる
腰の横から出ている手拭いがフラダンスのおばさんの柄なので少々緊迫感が欠けるが。
「ああ、分かってる、あいつらには本当困ってる。」
「困ってる、ですみゃーいいが……」
良く分からない二人の話に少し首をひねるが豊はこれからの初めての仕事に思いはとらわれ耳にはあまり入らなかった。
こんなに信用しちゃって大丈夫なんだろうか、
後からしっぺ返しが来るかもしれない。
相変わらず心の奥では疑ってしまう自分も顔を出すのだが、皆の優しい顔を見てたら疑うのも馬鹿らしくなってきている豊だった。
境が立ち去り、未羅は他の大人達の所へ行く。豊はトムさんに着いて行った。
仕事はかなりの力仕事で子供だからと言って容赦はない。重たいものも運ぶし想像以上に大変だった。しかし一人前に扱われているようで豊はとても嬉しかった。
チームワークも重要。一人の判断ミスで仕事が遅くなる。今日が初仕事だった豊は思っていたように足手まといになってしまっていたが周りの大人や同じ年くらいの子供でさえ絶妙なタイミングでフォローしてくれた。
親切にされることにも慣れていない豊は中々戸惑いも多く、溶け込むのも時間がかかっていた。
トムさんが気を使ってくれているのか、豊に休憩をくれた。
豊は先ほど、この畑に出る前に通った林の中に入って行った。
ここはあの夢の中の林とは違う。
木の生命力を感じる。
冬のはずなのに木々も生い茂っている。
葉の擦れる音、枝の隙間から洩れる光に、優しい頬を撫でる風。
心地よい。
靴もすごく良い履き心地だ。
こんなに自由に走れる。
豊はちょっと離れた川縁まで来ていた。
後ろからの気配を感じつつ、悪意は感じられなかったので狐か何かだと思っていた。
振り返るとニコニコ笑う未羅の顔。
子供っぽい所を見られ、恥ずかしく横を向く豊。
しばらく沈黙が続きゆっくりと豊の後ろを未羅が歩く。
豊は照れているため振り向けずにいたが無意識に未羅が置いて行かれない様に足取りが遅くなっていた。
林を抜けると川縁に着き、大きな岩を見つけた未羅が豊の服の裾を遠慮がちに引っ張った。
「上って座ろう?」
何の疑いもなく自分に笑顔を向ける未羅に豊も少しほだされた様だ。
軽く頷いた豊は未羅が指さす岩場を見た。お転婆娘、未羅が上手く草花が多い緩やかな崖になっている岩場に上って行くのを後ろから追いかける。
その時、未羅が足を滑らし、後ろに倒れそうになった。豊が慌てて後ろに回り支えた。
柔らかい女の子の身体に触れた豊はその感触に大きく胸の鼓動がなった。
「ごめん、ありがとう」
恥ずかしそうに頬を赤らめる未羅を見て、自分の鼓動が早くなる事に戸惑う豊だった。
そして何とかたどり着き二人で大きな岩に腰かけた。
「仕事、慣れた?」
二人は少し言葉を交わしていたものの、まだ初対面に近い。
未羅も自分の傍に居る男の子は子供っぽくガキ大将のような悪戯が過ぎる子が多く豊の様に無口で優しい男の子は初めてで緊張していた。遠慮がちに声を上ずらせながら言葉をかけた。
豊は軽く頷いた。
言葉を交わさない豊に、未羅も戸惑う。
気まずい。
未羅は戻ろうか迷っていると腕を舐める野良猫に気がついた。
この状態が気付かないくらい、ボケっとしていたのだろうか、二人はたくさんの動物に囲まれていた。
犬、猫、ウサギ、猿、小鳥、よく見ると狸まで居る。
ここにこんなに動物が潜んでいたのも驚きだ。未羅は目を白黒させて思った。
そして、豊の表情が今まで見た事がないくらい優しい表情をしている事に気がついた。
動物たちと会話しているように見えるそれ、なんだか繋がりの深さを感じた。
(こっちが本当の顔なんだ)
未羅は心の中でそう思い、豊の事がもっと知りたいと思った。
その後休憩も終わり二人はそれぞれの職場に戻った。
精一杯汗を流し思いっきり体を動かした豊にはあっという間に時間が過ぎ、カラスの声が聞こえ太陽の日も赤く染まる時間帯になって来ていた。未羅と合流した豊は自分も未羅も、顔や身体が泥まみれな事に気付き二人目が合うと少し照れたように笑った。
豊が今日、担当した畑はジャガイモを作っていた。
トムに習い芽かきというのをした豊だった。
芽かきというのは一つの芽に多くの栄養をやるために余計な芽を切ることだ。
大きな足音が後方から聞こえ、境が迎えにきたことが分かり豊は振り返った。笑顔の境は汗で水をかぶったように服が濡れていた。
「分かっちゃいたが泥まみれだな、明日からは着替えを持っていった方が良いかもな」
境はにこにこ笑って豊の頭を撫でる、初めの印象と全然違いどうしてこんな優しそうな人を怖いと思ったんだろうと豊の中で境はもう怖い人ではなくなってきていた。
この不気味な笑顔も大分見慣れて来た。
大きな手が温かくてなんだか恥ずかしい豊だった。
「学校といってもな、昔、公民館だった所を借りて、自分達で作った学校みたいなもんだ。人数も少ない。教えるのも俺の友達もいるし、俺もたまに教えてる。俺の教えてるのは道徳だ。頭が良くなっても心が良くなきゃな、なんて俺も大層なこと言える奴じゃないんだけどな、まあだから、ここから近いし、今日の手続きも簡単だ。本当は今日から授業も参加できるんだけど、まあそんな詰め込んでもしかたねーしな、じゃー未羅は授業受けてけよ、帰りは上村さんが迎えに行くと思うから」
そんな風に境が熱弁している。
意外に教育者に向いているのかもしれない。
説明を聞いていたらその学校とやらに着いていた。
公民館と言っていた割には意外にちゃんとした建物で、結構大きくて思ったよりは学校らしかった。
だけど先ほどの畑とやはり近い空間で、命名すると緑の中の学校と言った感じだ。
以前この地が人々で栄えていた頃は本当に普通の学校として使われていたらしい。人が次々と減り廃校になってしまったとの事だった。
豊は学校とは恐い所だという認識があった。
前に読んだ雑誌の影響だろう。
豊の顔が青く血の気がひいていた。
汗さえも引いてしまっている。
じゃーね、と未羅は明るく中に入って行った。
恐くないのかな。
豊が読んだ雑誌とは学校の恐い噂という、架空のホラー雑誌だったが、幼い豊にはその落ちている雑誌数冊が教科書みたいなものだった。だからそれが、すべてだと誤解していたのだろう。
境が玄関の段を上がる。
「どした?行くぞ」
足が止まってしまった豊の顔を境が覗き込む。
段差ができている為覗き込んでも顔が全然遠い。
境は近づくため屈んだ。
「大丈夫、恐い所じゃねーから。」
そう言われてもなかなか信じられない豊だった。
なかなか動かない豊に境は小さくため息を吐く。
「じゃーここで待ってろ」
そう言って一人で中に入って行った。
ここで待たされるのも恐い。
雑誌の中のいろんな話が豊の頭をかすめる。
その内容は学校とはそこで自殺をし、恨みを持っている霊が居つき来る人来る人を次々と襲うという事が書いてあり他にも数点、怪談話が載ってあった。フィクションだったのだが豊には分からなかった。
背筋が凍る様に身震いがし後ろから誰か追っかけて来る様な錯覚さえしてきた。
豊は首を横に振り慌てて境の後ろを追っかけた。
靴を脱いで中に入ると公民館にしては珍しく三階建てで、木造、壁には昔通っていたであろう学校の生徒の赤い字で落書きもあり不気味だ。歩く度、きしむ音が気になる。
それは不気味さを余計に際立たせていた。
境は追いついてきた豊に安堵したように笑った。
追いついて少し落ちついたものの恐怖は拭えていない。
恐いと感じた時、周りの空気とか気になるもので寒さも余計に気になって、小さな震えが来た。
そう、豊はトイレに行きたくなってしまったのだ。
慌てて外に出ようとした。
豊の頭の構造では用を足す所=外という認識であった。
走って行こうとする豊の手を境がつかんだ。
「どした?なんも恐くないぞ?ん?」
我慢の限界なのか豊の顔は真っ赤だ。
しばらく黙って見ていたものの分かったように境は大きく頷いた。
豊の手がそこを押さえていたからだろう。
「ああ、小便か、ちょっと待て」
境は豊を抱えあげて走り出した。
境の身体は大きい、走るたびに廊下が軋む底が抜けてしまいそうだ。
走るたびに震動が膀胱を刺激する。
そんなに走ると出ちゃう。
豊は歯を食いしばった。
そして思わず境の頬を抓る。
「あ痛たたっ、まてまて、もうちょっとだ。ほら、着いたぞ。行って来い」
境のちょっとだけ長い鬚を頬と一緒に抓ったらしい、変な風に癖が付いている。
ちょっと笑える。
少し和んで怖い事を忘れようとしたが廊下暗くぼんやりと点いている照明さえ不気味に見え、忘れようにも忘れさせてもらえない。
でも面白くてちょっと笑ってしまう豊だが、それどころではない、笑うと余計におしっこが出そうだ。
豊は境の肩から飛び降りた。
慌てて豊はドアの中に入る。
その時、雑誌の中の話が頭をよぎった。
嫌なBGMが豊の頭の中を通過する。
恐がってる場合じゃない、もう恐いんだかおしっこしたいんだか分かんないくらい豊は切羽詰った。
もっちゃう。
ここで豊は困ったことに直面した。
あの環境で育った豊は今まで外でしか用を足した事が無い。
この穴に入れるのかな?
豊はキョロキョロと周りを見渡すと他にも穴はある。
豊が見た穴は便をする便器。小便をする便器。手洗い場。掃除用の手洗い場の事だ。
だけど手洗い場は豊の背では届かない。
もうなんでもいいや。
豊の近くにあった小便の便器目がけて小を放った。
(中々トイレから出てこないな)
先ほどの豊の態度を思い出しトイレのドアの外で境は心配していた。
痺れを切らし境はトイレの中に入った。
入ってきた境を見て豊はびっくりして便器と豊が思っている小便器から離れた。
間違ってたかな?
不安そうに見つめる豊。
境は便器に目線を映した。
「どした?おいおい、ちゃんと流さねーとだめだろう?」
そう言いながら境がレバーを押す。
あそこで水を流すのか?
僕は知らない事が多い。
そんなこんなで無事豊は用を足せた。
手続きも無事終え、豊の顔はすっきりしている。
あの本、全部本当って訳じゃないんだな、恐いお化け、居なかったし。
間違って覚えちゃった事もあるのかも。
境の家に着いた。
今日から僕の家、境がそう言うけど、僕の中ではまだあの木が僕の家だった。
明日から畑仕事を終えた後、豊は今日行った、あの学校に通う事が決まった。
豊は年齢が分からない事に皆、大人たちが首を捻らせたが、背恰好から、小学校低学年のクラスに行くことになった。
学校と行っても規模も小さく、教室も少ない。元が小さな学校だった為、机や椅子、黒板などが普通の教室の様に置いてある。教室の中に机は20個ぐらいおいてあった。普通に学校に通えない貧しい人ばかりが通う所だ。
豊が通う小学校低学年のクラス、高学年のクラス、中学生のクラス高校生のクラスと四つしかクラスもない。
ここ二、三日で生活がガラッと変わった。それまでは毎日が同じことの繰り返し、お腹が空いてはゴミ処理所まであまりものの食物を取りに行ったり、食べられる雑草を探したり。飲み水は雨水をろ過する装置を雑誌に載っていたのを見て見様見真似で作り、そこになんとか溜まった少量の水を飲んでいた。
しかもあの場所にいた人は皆、心が乾いていた。
憂さ晴らしに殴られることもあった。
死といつも隣り合わせの生活だった。
こんな事、こんな僕がこんな穏やかな生活をして許されるのだろうか。
今までは生きる事がやっとだったのに。
売られると思っていた。
どんな事をされるんだろうと怖かった。
ここ数日を思い返し、この夢のような日々に豊は浸っていた。
僕に何かできる事はないかな、彼らにお礼がしたい。
彼らの喜ぶ顔が見たい。
そんな事、豊は思うのは初めてだった。
彼らの思いが豊に少しずつ変化をもたらしたようだ。
なんかわくわくする。
「どした?眠れねーのか?明日も早いぞ。」
「境」
境が驚いた顔をした。
豊はあまり喋らないし、名前を呼んだのも初めてだからだ。
境は目を見開いて豊をじろじろと見る。
「ありがとう」
豊はぼそっと呟いて布団をかぶった。
なんか顔がまた熱くなった気がした。
「呼び捨てるんじゃねーよ」
そう呟いた境の顔も真っ赤だった事を、布団をかぶっていた豊は知らなかった。
豊にとって今までの、生きるか死ぬかの大変さが何だったのだろうというくらいの、楽しい平和な毎日が始まった。
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