第2話
2111年。
ここ地球は人類が極端に減ってしまった。
原因は人類が犯した過ち。
人類が他の生物達と違って贅沢したつけとも言えるだろうか。
もちろんそれだけが原因ではない。そうならない様、必死に戦い動いていた者達もいたであろう。
しかしどうにもならない。それが災害の恐ろしさであった。
人類以外の他の生物もたくさん減った。彼らには罪は無い、巻き込まれてしまった。
2050年、温暖化が進み、氷が溶けだし、随分な地が海の中に沈んだ。それ以外にも地震、噴火、津波、様々な災害がこの星を襲った。
大陸の形も変わり、親の居ない子も増えた。
自分が生活していくため自分の子を捨てるのだから酷い世の中だ。
そんな世の中でも、貧しい裕福という、貧富の差はなくならない。
この街の人は生き残った中でも、特に貧しくかなり酷い暮らしをしていた。
僕は気がついたら一人だった。
本で読んだ事がある。
ごみ箱で拾った本。
人間には皆、お父さんとお母さんがいる。
僕にも居るのだろうか?
~目の前には道はない そう思っていたあの頃の僕
悔しい 苦しい 悲しい
こんな思いをしているのは僕だけだろうか
そう僕は 色々な思いを紙切れに乗せて 音に乗せて 歌った
毎日同じ繰り返し 分かっていたけど歌った
明日は今日と違う明日が待っていると信じて
3歳ぐらいの少女が転んだ
起こすのを手伝おうと立ち上がった僕
少女を起こした大きな手
少女の父親
妬ましく思った自分が汚く思えて
思いを綴る紙切れを黒く塗りつぶした~
少年の心とは裏腹に空に小さな星が綺麗に映った。気持ちをかき消す為、何時もの様に少年は紙切れに詩を書き殴った。
心が少し落ち着くと少年は今までの事を思い出しながら自分の寝床である大木の下のゴザの上で寝転がる。目を前に向けると布の端切れを巻いている、男、女までもが、道端で寝転がっている。
ここではそれが普通だった。
倒れている訳ではない。
みんな帰る家が無いのだろう。
少年もその一人。
少年がこんな寒い中一人で、どうして生きて来られたか、それには様々な理由、自然の恵み、運、そして少年が生きる為、色々な事をしたからだ。人を傷つける以外の事を。
少年の住処は大きな枯れ木。
いつから立っているのだろうその木は少々不気味な形をしていた。
葉は殆どなく、だが力強く大きい、この死んだように薄暗く汚い町並みにはあまり相応しくない様だった。
木は枯れている様なのに何故か少しだけ温かかった。少年が凍えなかった理由の一つである。
ゴミ捨て場から拾った新聞紙、それが少年の布団そして教科書だった。
それでも幼子が生きていくのには奇跡に近い。
食べられる物ならなんでも食べた。少年の足でも難なく歩けるほど傍近い場所にゴミ処理所がある。そこに捨ててある隣町のゴミの中は食料の宝庫だった。
なぜゴミが?と思うかもしれない。隣町とココの生活はレベルが全然違ったのだ。つまり食べられる様な物が、形は悪く傷んでいる物ばかりだが、たくさんあった。
ココを見つけるまでの少年は体も細く餓鬼の様にお腹も膨れ、直視できないような姿だったが、まあ色々あってココにたどり着いたようだ。
そんな風に生活していた少年だった。
だがこの日は様子がおかしかった。
目は充血し、頬は赤い。
服は濡れ、泥にまみれている。
服が泥にまみれているのはいつもの事。何故濡れているのか、それは昨夜の酷い豪雨の所為でもあった。だがいつもは木の前にある岩と、木の枝と枝の間に、上手く結びつけた布などで雨は凌げていた。
その日の雨は酷かった。風も雨の割には、強く冷たい。少年は道路脇に眠る傷を負った犬を見つけた。傷は前足に足を痛めてできたのか擦り傷の様になっておりそこから血が少量だが流れ出ていた。
心が荒み切った彼、人を信じられない彼だったが、今まで彼を救ってくれたのは助けてくれたのは数々の動物達だった。
自分は自身を守る事で精一杯。
その事を少年は十分理解していた。
だけど放ってはおけなかった。
その鈍った赤い首輪をした老犬。元の色は何色だったのか分からない程、汚れてしまい茶色い色の犬の様になってしまっている。くたびれて毛が縮れており年を感じさせる白い毛がぽつぽつと混じっている。
目を瞑ってしまっている為、目の色や大きさは分からない。
身体全体の老犬の大きさは少年と同じくらい。運ぶのは少々困難だ。
おまけに毛が濡れていて余計に重たい。
駆け付けたは良いが、どうやって運んだら良いのだろう。
雨は一向に止んでくれない。
前髪から雨水が滴って少年の視界を遮る。
老犬を触ると、身体はちゃんと熱を持っているが冷たかった。老犬の息が小さくなっているのを肌で感じた。
このままじゃ、死んじゃう。
そう思い真っ青になった少年は周りを見渡した。
人の気配は無い。雨が酷くなった時点で、他のホームレスたちは場所を移動したのだろう。
このままじゃ運べない、何かに乗せて引っ張ったらどうだろうか?
考えを巡らせる少年だったがもちろん台車のような都合の良い物は、ココには無い。
ちょっと離れた場所にあるゴミ箱に、老犬を乗せるには丁度良い大きさのトタンの切れ端が捨ててあるのが少年の目に入った。
少年は走ってそこに向かう。
風が強くて前に進むも容易じゃない。ベチャっと何かが少年の顔にへばりついたと思ったら、飛んでいった。ビニール袋だった様だ。
道もぬかるんでいて少年は靴の中までぐしょぐしょだった。
小さい身体で少年はなんとかゴミ箱の元までたどり着きそれを手に取った。
手の平に痛みを感じた少年は眉をしかめた。トタンの端で手の平を少し切ったようだ。少量の血液が付き痛みは感じるが犬を助ける事に夢中な少年は犬の元までトタンを引きずりながら懸命に歩く。
引きずっている間にボロボロになってしまいそうだが水を弾く加工がしてあり、凹 凸部分から上手く水が流れる様になっている為、犬を乗せて運ぶには丁度良さそうだった。
だが、それは少し少年が持つには大き過ぎた様だ。
少年の背よりも大きいトタンの切れ端はそれだけでも運ぶのも困難に思えた。雨水は跳ね返してはいるものの、水滴も付いていて少年にとってはかなりの重さになっていた。
手の平の痛みもあり上手く走れなくて足がもつれる少年。
転ぶ。痛い。そう思うと思ったのに一向に少年には痛みが来ない。
見ると少年は段ボールの上に乗っていた。もちろん少年の手にはトタンがしっかり握られている。
風の勢いで、少年の転んだ場所の真下に、先ほどのゴミ捨て場から上手く、余った段ボールが飛んできたみたいだ。
そんな偶然ある訳が無い。
だけど少年の周りではそう言う事が普通に起こるのだ。
なんとか老犬の元に辿り着くと、少年は少し老犬の息が肩で呼吸しているかのように荒くなっている気がした。
少年はトタンの切れ端を老犬の前に置き、老犬の下に潜り込む様に入り、脇から抱え、老犬を持ち上げた。
重たい、潰される。
ここで潰されたら元も子もない。
そう思った少年は顔を真っ赤にさせ足を踏ん張らせ、渾身の力を振り絞る。
雨で濡れているせいか、トタンの切れ端も滑らず、上手くじゃないが、少年はなんとか老犬をその上に乗せる事が出来た。
傷に触らない様にゆっくり老犬の下から這い出る少年。老犬を押してちゃんとトタンの切れ端の真ん中に乗せた。
後は寝床まで引っ張るだけだ。
そう言ってもやはり困難であった。ビニールで加工されていても濡れているトタンの上に大きな老犬を乗せている。かなりの重さだ。
だが乱暴に引っ張ると傷に障る恐れもある。慎重に、慎重に少年は引っ張った。
もう少年も、少年の服も、老犬も、お風呂につかったかのようにびしょびしょだ。
なんとか寝床の枯れ木の根元まで引っ張り込み、老犬の下からまた抱えあげて、木の根元に倒れこんだ少年は自分の頭をぶつけてしまった。
だけど、葉などを袋に入れて作ったクッションに、だったらしく、痛みを感じなかった様だ。
少年は本当に運が良い。
まあ、そんな強運じゃないと、少年の様な年の子がこの世の中をたった一人で生き抜くのは無理に等しいだろう。
木の根元は一人と一匹にとって、いつもより暖かい気がした。
老犬と寄り添い木の根元で暖を摂る。
犬の傷を見てみるとそう酷い怪我でもない。前足の血液をふき取ると擦り傷部分は小さかった。
お腹が空いて動けなかったのだろうか。
まあ明日考えようそう思いながら少年はその日はそのまま眠った。
老犬以上に少年の息は荒く、頬も赤かった。
次の日、少年は光の眩しさで目が覚めた。
老犬は居なかった。
お礼のように置いてあったのが青い石。
小さく光を放つ青い石だった。
ちゃんとご主人のもとに戻れただろうか。
そう思いながら、少年は青い石を眺める。
不思議だ。掌に握りしめても光が洩れる。
寒い。
ブルっと小さい身体を震わせた。
さすがに丈夫な少年でも風邪を引いた様だ。
喉も渇く。
何か食べなきゃ。
そう思う少年だが身体が思うように動かない。
ポケットをまさぐり、飴を取り出す。
唾も水分とするかのようにゆっくりと飴を味わった。
この飴は一昨日、歩いている人から貰った物だ。ふざけたオヤジの顔が描かれた包み紙に心が和んだのだろう、少年の表情は軟らかかった。
冷たい風が少年の頬に刺さる。
ここは本当に寒い。
心も体もカラカラだった。
砂漠の様に乾き切っている。
少年の顔が、刺さるような冷たさで痛む。
人は人、皆冷たい。
横目で見るだけで声もかけずに通り過ぎる。
そりゃそうだ、ここの人達は自分達が生きていくだけで必至なのだろう。
それが当たり前だから少年も人にすがったりしない。
そんな中、いつもと違う違和感があった。
皆が見て見ぬふりをする中、一人の大男がじっとこっちを見ている。
自分には関係ないと横目でちらっと見る他の目線とは違う。
僕に興味があるのかな?
媚びたら、なにか貰えるだろうか?
少年にとって作り笑いなんてお手の物だった。
そうして貰える物も、十分食料の一つだったのだから。これも生きてく知恵だろう。
一昨日に貰った飴もそうやって手に入れたのだ。
だけど、昨日の人は服装からいってこの町の人じゃなさそうだった。だから余裕があったのかも。
この人はどうだろう。
大男の身なりは胸に小さなポケットが付いた黒いTシャツ、茶のズボン。
汚れた様な黒髪に少々見える白髪。
服も身体も所々泥で汚れていて、どう考えても裕福そうに見えない。
まあ少年の格好より、もちろん全然、ましだが……。それぐらい少年の格好は酷かったのだ。
媚売っても無駄か。
そう少年が結論付けた所だったが、無表情の大男はのっそりと少年の方に向かって近づいてきた。
「坊主、ここ、寒くないか?」
大男の声は低く少し少年には怖く聞こえた。
身体が大きいせいか声量もあるようで地面に響く。
寒くない訳ない、だけど少年は小さく頷いた。
優しく声をかけてくる奴は用心しないと、そう思ったのだ。この年まで少年が何事もなかったのは用心深さのおかげだろう。
この男は優しい感じではないけれど、とにかくすぐ信用してはいけない。
警戒心むき出しの目で男を見る。
体調悪く充血している少年の目は異様だっただろう。しかし男の態度は変わらない。
男は鈍いのだろう、少年の体調が悪いのも気づいてないようだ。
「ここよりは暖かい所に行こう。おいで。」
男はムスっとしたまま、ぶっきらぼうに言い、手を差し伸べる。
騙されるな、きっとどこかに売られるんだ。
僕は高値がつくような可愛い容姿では到底ないけど、子供は売れるらしい。
少年は幼くして一人。知識も何も無かったが、学ぶ事がとても好きだった。金はもちろん無かったが、学ぶため、新聞、雑誌、運が良ければ雑学の辞書、そうしたものをゴミ捨て場などで見つけては読みあさっていた。
初めは平仮名しか読めなかった。
いや、平仮名を読むのも困難だった。
ちゃんと読めるようになるまで色々あったのだが、まあそれは又後ほど。
そう言う訳で、間違った知識も含めて、同い年くらいの少年達よりは豊富に知識があったのだ。
信用したら馬鹿をみる。
ここから逃げなきゃ。
だが少年には逃げる力もはむかう力も残って無かった。
朦朧としている中で、助かるにはついて行くしかないと思ったのだ。
という経緯があって今にいたる。
木で覆われた倉庫の隣には、コンクリートで囲われた古く小さい建物が何個もあって少年もそのうちの一軒に連れて来られた。
どうも大男(確か名前は境と言ったか)の家らしい。
確かに境が言っていたように部屋は少年が居た所よりも全然、快適で温かかった。
それもそのはず、部屋にはレンガで上手く囲われた、簡易的な暖炉があった。
体温が少し戻ると、身体の感覚や、頭の中の感覚もだんだん戻ってきて、自分の状況も分かってきた。皆、倉庫にいた人たちはにこやかに笑っていたが、どんな団体か分からない。
大体、この村でこんなに裕福に暮らせるなんて、汚い手でも使わなきゃ無理に決まっている。
少年は何処からか逃げられないだろうかと辺りを見渡した。
窓は天窓が一つ、少年が上るには困難だ。自慢にはならないが、少年は少々鈍くさかった。
丁度都合よくその近くに梯子が置いてある。
「何?キョロキョロしてんだ?そんな見ても何もねーぞ」
少年はこそっと見ていたつもりだったみたいだが、境にはバレバレだった。
あまり露骨に逃げると、逃げられない状況にされてしまう。
そう思った少年はさりげなくを装うつもりだったので、心臓がかなり早く打っていた。
あっそうそう、と境がタンスに向かっていく。
つまり少年に背を向けた。
今だ。
そう思った瞬間、少年は走り出した。
心臓の音が早くて、煩い。
上手く走れなくて足ももつれる。
少年は椅子に飛び乗り、天窓に向って飛び上がった。
だが、さっきも言ったように少々鈍くさい少年は窓に届かなかったが、寸前のところで天窓の下に壁を突き破って出ていた、木の枝を上手く掴む事が出来た。
しかし、失敗は失敗、真下には少年の足元にも壁に小さな突起があり足を引っかける形で落ちることはまぬがれた。
僕は、どうなってしまうんだろう。
「おいおい、やんちゃな子だな」
困ったような大男、境の声。
境は冷や汗を浮かべおろおろした様子で少年の動きを目で追っている。全然怒った様子は無い。
「ほら、受け止めるから飛び降りろ。」
いやだ、恐い。
境自体も恐いが、飛び降りるなんて。
そんな高くはない三mぐらいだろうか、しかし少年の身体は小さく、結構な距離に感じるのだろう。
少年は何を思っているのか上に上がろうとしだした。
運動能力がかなり低い少年が上に上がるという事。
それは危険度が増す行為だった。
境も下で、ハラハラした気持ちで見守っているようだった。
下でゴリラの様に少年を目で追いながら、うろうろと歩いている。
丁度すぐ近くにある柱時計の音が境と少年の心臓の音と同時に音を刻む。
緊迫した空気が流れた。
先ほどの手で掴んでいた枝に逆上がりをする様に足をかけ、さらに上に向かって精一杯手を伸ばす。
まだまだ本調子では無い少年の顔は汗だくだ、窓の縁に指がかかった。
よし、もう少し。
その時、天井から何かの滴が少年の額に落ちた。
冷たさにびっくりしてしまった少年は、手を滑らせた。
もうだめだ。
少年は堅く目をつぶった。
不思議と怖さはなかった。
やっと死ねる。
そう思った。衝撃を耐える為、無意識に体を縮める。
身体が痛いはずなのに痛くない、それよりも自分の身体がやわらかいものに包まれている事に少年は不思議に思い思わず大きく開いていた口を閉じた。
柔らかすぎる事に違和感を感じ、ゆっくりと目を開けた。
目の前には意識を失っているかのように見える境の大きな顔があった。
柔らかかったのは鏡のお腹の肉と太い腕だったようだ。
ご、ごめんなさい。
少年は罪悪感に包まれた。
境は倒れてしまったが少年を受け止めてくれたのだ。
チャンスだよ。
何かが少年の心にそう呟いた。
それと同時にチクンと心が痛んだ。
境の胸から飛び出そうとした時、境の小さな息遣いが聞こえた。
何か喋っているみたいだ。
「坊主、大丈夫か」
小さな、小さなかすれ声だった。
少年を支えた事で床に頭を打ち付けたのか境は苦痛の表情を浮かべていた。
心臓がゾクっとした。
境の胸から少年駆け出しこけそうになるが何とか体制を整える。気がつくと走り出していた。
足がもつれて上手く走れていない。境の家を出るとすぐ近くに違う家が見えた。
十mほどの距離なのに少年は長く感じた。
夢中で前の家の扉を叩いた。
扉から出てきた人は少年の必死の形相に言葉をなくしていた。
背は低く、身体にしては顔が大きい小母さんだ。
可愛いらしい熊のエプロンをしている。
少年の背に合わせてちょっと屈んで目を合わせた。
「そんなに慌てて、どうしたの?確かさっき、鏡さんが連れてきた子だよね?」
少し高めのとても柔らかい声、その声を聴いたとたん少年の激しく打つ心臓が少し治まった。
「あっ……」
上手く言葉に出せなくて、小母さんの袖を掴み、ひっぱった。
「あら、まあどうしたの?境さんは?」
小母さんはそう言いながらも少年から引っ張られるままに、後を追いかける。
小母さんと一緒に境の家まで戻ってきた少年は慌て家に飛び込むと、部屋の中はもぬけの殻だった。
少年の顔は青くなった。
あの後、何かあったんだろうか?
少年は自分からあの状況を作り出し逃げ出したのだが元々、悪い事はできない性分なのもあり罪悪感でいっぱいになっていた。
「境さん?」
小母さんの声が部屋に響く。
「奥から音がするね、境さん?ちょっとお邪魔するよ?」
ずかずかと入って行く小母さんの後を、恐る恐る追いかける。
扉の向こうからは小母さんが言う様に何か作業している音がしていた。部屋のドアをゆっくり開けると、目の前に大きな影。
「うわーー」
三人揃って大きな声を上げた。
そう目の前には二人の視界を遮る様に立ちはだかっていたのは、氷の入ったビニール袋を持った境だった。
「もう、びっくりしたじゃないかい。」
心臓を押さえながら、呼吸を整える小母さん。
「それはこっちのセリフだよ、一声かけてくれや」
椅子に腰かけ境は息を整える。
境の顔を見て安心した小母さんも境の立っている横にある近くの椅子に腰かけクスクス笑う。
「そうよね、ごめん、ごめん、この子が必死の形相で、何かあったのかと思ったのよ、でもそうよね」
おばさんは境の腰を叩きながらケラケラ笑う。
「あ痛た、あ痛た。」
先ほどの倒れた時の衝撃で体のあちこちが痛いのか小母さんに叩かれるたび境の低い声が響いた。
「あら、ごめんなさい、ってどうしたの?大きなコブね」
小母さんは境を椅子に座らせた。そして立ち上がり注意深く観察しながら氷で冷やしている境の頭のコブを、触った。
先ほど少年を支えたときに床に打ちつけた時のものだろう、大きく腫れ上がっていた。
「どうってこたーねーよ。こんなの、唾つけときゃ治るさ」
そう言いながら自分の頭に右手で掴んでいる氷の入ったビニール袋を擦りつけ、あ痛っと叫ぶ境を、小母さんは呆れたように見つめる。
「そんな調子じゃ酷くなっても知らないわよ。丁度この前、山で採った薬があるから後で持って来るわ」
境にそう言い、いつもの事だから大丈夫心配ないと小母さんは少年と目を合わせ、今だ落ち着かない表情の少年に心配かけない様、笑った。
「そいつはありがてー」
そう言いながら境は小母さんの隣の少年と目を合わせた。
少年は目を逸らそうとしたけど逸らせなかった。優しい目をした鏡の目から視線が外せなかった。
「坊主が呼んできてくれたのか?」
「あっ……」
何か言わなくちゃいけないのに、上手く言葉が出ない。
顔が熱い。
「あらあら、この子すごい汗。顔も赤いわ。」
小母さんは丸っこい掌を少年の額に乗せた。
「すごい熱、ちょっと境さん、ベッドはどこ?」
そう言いながら、ひょいっと小母さんに抱えられた所で眠るように少年の意識は落ちて行った。
目が覚めると少年は何時もと違う朝に、変に柔らかすぎるそこに妙な違和感を感じた。いつもは道路の上に段ボール、少し小石が当たり背が痛む。上には新聞紙をかけ寒いのは当たり前、朝日が眩しく目を覚ます。それが少年のいつもの朝だった。
身体の下は白く温かい。仰向けに眠っていた少年には茶色い毛布と白い掛布団がかかっている。起き上がるといつもより少し目線も高い。これはベッドと言うものだと少年は気が付いた。
起き上がった時に額にあった温くなったタオルが下に落ちのだろう手元に濡れたタオルが置いてあった。
ベッドの横には少年の布団に顔を伏せしゃがみ込んで眠る境と小母さんの姿があり少年は驚き目を見開いた。
「よしこさ~ん……、むにゃむにゃ」
境の突然の声にビクついてしまった。
寝言だったようだ。
昨日はあんなに苦しかったはずなのに今日は身体が楽だ。
服も見たことのない綺麗な服に着替えさせられている。
少年は手を動かすとベッドに顔を伏せて眠っていた小母さんの手とぶつかった。
びっくりして慌てて触れた手を放した少年だったが、小母さんのその手はほんのり温かかった。
お母さんってこんな感じなのかな?
少年が小さい頃、ごみ箱で拾った。
「お母さん」って題名のくまの絵の絵本。
その大好きな一コマに似ていた。
「んっ」
小母さんの息が漏れる。
慌てて少年は手を放した。
「あら、目が覚めた?」
とても優しい小母さんの笑顔。
少年は心まで温かくなる気がした。
隣で眠っている境が動いた。
「んっああ、起きたのか?」
境は大きく伸びをし、欠伸をしながら少年の方に近づき、自分の目を擦る。
全部を吸い込みそうな大きな欠伸。
その間抜けな顔を見た時、不思議ともう少年の恐怖は消えていた。
「おっ大分、顔色がいいな」
無造作に少年の頭を撫でる境。
「もう、まだ病人なのよ」
境の大きな手に撫でられるというよりこねくり回されているような印象を受け慌てて止める小母さん。
申し訳なさそうに頭から手を離した境はそっと子猫の頭に触れるかのように少年の頬を大きな人差し指の背で触れた。
「坊主、俺の事、恐いか?」
ちょっと震えた優しい声。
まるで、怖がっているのは境の方みたいだ。
確かに怖かった。
だけど、なんだか情けない顔の境を見ていると思わず笑ってしまった。
「おっ笑えるじゃねーか」
境の表情も明るい笑顔に変わってく。
恐る恐る手を出し、ぐしゃぐしゃと境は少年の髪を撫でる。
仕草は優しかったがやはりこねくり回させるように撫でまわされたおかげで、鳥の巣の様にもさもさな髪になってしまった少年。
その様子を呆れながら小さく笑い見守る小母さんであった。
なんなのだろう。
少年は今まで味わった事のない暖かい空間に戸惑いを覚えていた。
「おっそうだそうだ」
境が突然立ち上がり、部屋を出て行ったと思ったら戻ってきた。
両手いっぱい、見たこともない面白そうなお菓子を抱えている。
「坊主、これヤス、ええと昨日会ったおじさん、覚えてねーかな?あいつからの見舞だ」
境は腕の中のお菓子をドサっと少年の布団の上に乗せた。
見たこともない面白いお菓子に少年は目を丸くする。すごく細かく削られた植物をかたどられた細工菓子だ。
「すごいだろう?ヤスさんの傑作品だ」
なんだか自分のことの様に境は得意げだ。
「あらあら、こんなとこにおいても、この子が困るでしょ?こっちに置いておきましょうね、少しずつ食べなさいよ?虫歯になるからね、ええと……」
お菓子を退かしながら小母さんに尋ねられた。
少年の名前を聞いているようだ。
少年は困ったように俯いた。
今まで、人々とあまり接触のない暮らしをしてきた少年だった。
かかわってきた人々からも、『クソ坊主』や『ガキ』などの呼び名で呼ばれ、そもそも名前なんてついた事がない。自分でも意識した事がなかった。
少年の様子から、何となく悟った境は慌てて、おろおろとしながら少年に近づく。
「名前言わねーんなら勝手につけるぞ、お前は、ええとそうだな、名前つけるなんて得意分野じゃねーしな、権座(ごんざ)なんて嫌だろう?うーんそうだな……、」
そう、ぶつぶつ答える。
布団の上に広がった菓子を壊さない様にそっと透明の袋に入れた小母さんは少年と目線を合わせる。
「豊(ゆたか)」
優しい笑顔の小母さんが呟き菓子を机の上に置き、そっと少年の手を握った。
「豊なんてどうだい?私の息子につけるつもりだったんだ。生まれてこなかったけどね……」
小母さんはちょっと寂しそうに笑い、いそいそと動き出した。あちこちに無造作に置いてある境の脱ぎ散らかした服を集めだす。
少年はそれを虚ろな目で見た。
豊、僕の名前。
何だろう、胸が熱くなった。
名前を呼ばれたのは初めてだからだろうか。
なんか顔も熱くなってきた。
「ありゃ、坊主赤いぞ?照れてんのか?」
境が乱暴に少年の頭をなでる。
「もう、違うわよ」
そういって変化に気付いた小母さんが再び近づいてきて覗き込み額に手を当てる。
女性のふくふくとした丸っこい手はかさついていたが、ひんやりと冷たく気持ち良い。
「まだちょっと熱があるみたいね、今お粥持って来るからもうしばらく寝てなさい。」
にっこり笑う女性の顔に、慣れない優しさに少年(豊)の顔は赤くなった。
ここの人達はなんなんだ。
初めての心の触れ合いに戸惑いを隠せない豊だった。
豊は机の上にあるヤスの作った細工菓子を虚ろな目で眺めながら、再び眠りについた。
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