骨の折れた傘
皐月七海
雨が止まない街
泣いている男性に会った。
私は骨が一本折れた傘を差して繁華街へ出かけていた。どこへ行こうかと悩んでいるとその男性に出会ったのだ。
始めは、今日も普段通りに雨が降っているので、それが頬を伝ったのかと思ったが、どうも表情から察するに涙らしい。
それだけであったなら、私はきっと胸を苦しめながらも素通りしていたのだろうけど、その男性は傘を差していないのにもかかわらず、頭や体が濡れていなかった。物理的に雨が当たってはいるものの、濡れていなかった。
常識的にあり得ない状況に、私は立ち止まり目と口を大きく開けてしまった。男性は私の間抜けな顔をみると、すぐに袖でゴシゴシ目元を擦った。
「初めまして」
私はついつい挨拶をしてしまった。
何事もなかったように立ち去る雰囲気でもないし、特に急いでいるというわけでもないので、挨拶くらいはしようと思ったのだ。
しかし、どうも間違えたようだ。
男性は私が挨拶をした途端、また泣き出してしまったのだ。堪えてはいるが、引き泣きをしている。
私はどうしていいのか分からず、とりあえず傘を差してあげることにした。男性は雨に濡れない不思議な人であったが、ここまで泣かれしまうと優しくしたいと思ってしまうのだ。お陰で髪と服は濡れてしまったが。
男性はどうやら落ち着いてきたらしく、返事をしてくれた。
「……初めまして、どうもお見苦しいところをお見せしました」
作り笑いが下手だった。
でも何故だか、安心してしまう。なんだか、変な気分だ。
「何かあったんですか?」
私は質問をしておいて後悔した。
共感や解決のできない悩みだったらどうしよう。話を聞くだけ聞くにしても、私にはそれくらいしかできないだろうし、なによりそこまでする義理はない。私と男性は、ここで始めて出会ったのだから。
「お話、聞いてくれます?」
「少しなら」
取り敢えず、言ったからには最後まで責任を持とうと覚悟を決めた。でも警察沙汰になるのは御免なので、逃げ道だけは確保しておきたい。心苦しいが、内容によっては切り上げよう。
「では、場所を変えませんか? ここだと人も多いので」
この辺りには傘を差す人で賑わっている。確かに、ここではあまり話したくないだろう。私は了承した。
*
「懐かしいなぁ……あの時のまま何も変わってない」
「へ、へぇ」
濡れない男性の後をついてゆくと、辿り着いたのは小さな神社。街の中にひっそりと佇むこの場所は、雨宿りするにはピッタリだが、重たい相談をする場所には適さないだろう。
一体、どうしてここを選んだのだろうか。普通、カフェとかであろう。こういう時は、女に奢るのが普通であろうに。
でも確かに、なんだか落ち着く場所だ。とても初めて来たとは思えない。なんだか、懐かしささえ感じてしまう。
「すいません、お洒落な場所じゃなくて。実は内容が内容なので、この場所にしたのです。申し訳ないです」
「いえいえそんなお気を使わず」
私と男性は拝殿へと進む。先程の通り雨宿りにはピッタリなので、私は傘を閉じた。男性はまじまじと傘を見つめていて、これまた悲しそうな顔を見せた。
「濡れましたよね。これ、使ってください」
男性は鞄からタオルを取り出すと私に手渡しをする。濡れないのに、どうしてタオルを持っているのか不思議だったが、取り敢えず受け取り体を拭く。
「ありがとうございます」
「いえいえ、では早速」
「その前に質問です。どうして濡れないんですか? 傘も差していないのに。少し怖いです」
すると、男性はアハハと笑った。
「私の相談を聞くと、分かりますよ」
ぽつりぽつりと話し始めた。
「私には彼女がいました。結婚も約束していた程です」
やはり重たい話だったか。そして恋人関係の相談は泥が付き物だと相場が決まっている。覚悟しなくては。
「実は亡くなったんです。交通事故でした」
私は息を飲んだ。冗談抜きで逃げる準備をしなくてはならない予感がする。
「彼女はいつもガミガミ叱る人でしてね、貧乏性なんですよ。あの日も、骨の折れた傘を差していまして……」
なるほど、それで私の傘をまじまじと見つめていたのか。それにしても貧乏性な彼女さんの気持ちは理解できる。骨が折れた程度で買い換えるなんて、勿体ないと思う。傘は生きているわけじゃないけど、きっとまだ捨てられたくないだろうし。
「それで、この街であなたを見かけた時思ったんですよ。似てるなぁって。骨の折れた傘を差しているところもそうですが、そもそも瓜二つなんですよね」
突然なにを言い出すかと思えば、新手のナンパだったか。これ以上、話を聞く必要はないかな。別に、好みじゃない顔だし。
私はタオルを返して帰ろうとした。すると、男性は私の手を握った。
ついにするところまでするのか。今思えば、この場所は人目につきにくい。そのまま襲うには丁度いい。やられたと思ったが、男性は私の目をみつめて言った。
「会えて嬉しいよ、梅雨」
梅雨。五月から七月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。そして、私の名前。
この時、私は全てを思い出した。
私はこの男性、優也と恋人であり、交通事故で死んだ。
とても貧乏性で、骨が折れた程度では傘を変える気にはならず、あの日はそのまま出かけた。しかし、そろそろ買い換えなくてはならないなと、気になって骨を眺めていた私は、信号が赤になっているのに気づかなかった。そしてそのまま、死んでしまった。
「優也!」
私はずぶ濡れな状態で彼に抱きついた。
「ごめんね。私、死んじゃった」
「この馬鹿。死んでも貧乏性は治ってないじゃん」
私と優也はしばらくこのままでいた。涙がいつまでも溢れ出るので、話すような状態ではなかったからだ。
「よしよし」
頭を撫でられる。それでは逆効果だよ、優也。女は優しくされると余計に泣いちゃうんだから。でも、今は泣いておかないと二度と泣けない気がした。
「梅雨、落ち着いて聞いてね。僕とはそろそろお別れなんだ」
「どうして!?」
顔を上げる。驚きが隠せなかった。
「ルールなんだ」
優也が言うには、この私がいる街は現世に未練がある人が暮らす場所で、総じて生前の記憶がない。そして、自分の名前すら忘れているらしい。確かに、私は自分の名前を優也から聞くまでなんとなく気にもしていなかった。
そして、この街の住人が自分の名前を思い出す時は、現世から来た人が教えてくれた時であり、この街を去ることを意味する。つまり、未練がなくなると言うことだ。
「でもどうやってここへ来たの?」
「梅雨の傘を弔おうとして、傘を差してみて気がついたら街の入り口にいてさ。この先にはあなたと関係の深く、現世に未練がある人がいるので、名前をお伝えくださいって看板が立てられててさ。他にも色々書いてあったよ。二人の思い出の場所がどこかにあるから、そこで名前を教えてあげるといいって。余計なお世話だよね。そしたらこの通り」
なんともまぁ、都合のいい話だ。
でも、この街には私以外にもかなりの人がいるから、別に珍しいことでもないかもしれない。意志が宿る物さえあれば、この街へ来ることも容易いのかも。
「ねぇ、梅雨。この神社、覚えてる?」
「うん、そりゃね」
ここは私と優也が通っていた中学の帰り道にあった神社だ。そして、通り雨にやられて雨宿りをした場所でもあり、初めてキスをした場所でもある。
「最後に、しようか」
優也はモジモジと言った。
彼はいつも度胸がない。
付き合いたての頃は、それはそれは困ったものだった。初デートのカフェは臨時休業だったし、お家デートではデリカシーがなかったし。
「その発言でムードぶち壊し」
「えぇ……」
こんなダメな彼でも、どこか安心するのだ。名前の通り、優しいところだろうか。相合傘では片肩を濡らしているし、なにより私を中心に生活しているようだった。さようならは辛いが、優也のためでもある。
私は自分から優也の唇と重ねた。その時は驚いていた優也も、すぐに私を抱きしめた。こういう時は察しがいい。この時間が永遠に続けばいいのにな。こうしていられるのも、そろそろ終わりな気がしてならない。そもそも、生きている人と死んでいる人が会うのはご法度なのだから。
「優也、私の分まで幸せになってね」
一度唇を離し、それだけ伝える。優也は何か言おうとしていたが、それを遮るように再び唇を重ねた。
そのまま、私と優也はこの街から消えた。
骨の折れた傘 皐月七海 @MizutaniSatuki
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