小さくて大きな一歩
心憧むえ
小さくて大きな一歩
私の心は橋だ、先細っていく橋。叩くまでもない石橋だった私の心は、憔悴しきっていた。止むことのない親からの虐待や、大好きだった彼の裏切り、取り柄のない私の先の見えない茫洋な人生、それらを含むすべての不安や恐怖が強い酸性雨となって私の橋に降り注いで、先細っていった。この橋から何度も飛び降りようとしたが、出来ずにいた私の目に、あの映像は鮮烈に映った―
1
「ねえ見た? 自殺配信」
「みたみた、なんかやばいよね」
同じ制服を身に纏った女子二人が何食わぬ顔で私の隣を通り過ぎていく。私は深くため息を吐き、無神経な蒼天を仰いだ。憎たらしいほどに雲一つなく、太陽は煌々と陽光を降り注いでいた。私はうっすらと滲む汗を拭うことなく立ち尽くして、昨日見たあの映像を想起した。
人気のない駅のホームにしゃがみ込む、私と同い年の女の子。舌足らずで言葉がうまく聞き取れなくて、虚ろな目。画面中央には混じりけのない文字で確かに書かれていた――自殺配信――
『特急列車が通過します、黄色い線の内側におさがりください』
アナウンスを聞くと名前も知らない女の子はスマホを地面に置いて、向かいのホームを映す。列車の音が徐々に近づくにつれて、彼女は線路の方へと足を進める。小さな段差を飛び降りる無邪気な子どものように、線路へと身を落とした。骨が砕け散り血が迸るなんてことはなく、警笛を鳴らしながら無常に通り過ぎていく特急列車だけが映っていた。
つぶさに想起していると、膿んだ傷口を尖鋭な針でぐりぐりと抉るような痛みが走る。脚色のない死の現場は私の想像を嘲笑するように裏切っていく。
あの映像を目にしてから、ほんの少しだけ、橋を下りることが出来るような、そんな気がした。
2
クラス内ではやはり自殺配信の話が持ち上がっていた。自分たちと同じ年齢の子だったということで皆何か思うことがあるのだろう。昼休憩の時も、しきりにその話が鼓膜をなでていく。
「なんか可哀そうだよね」
「虐待とか受けてたんだって」
「あの女の子のツイッターも色々やばかったよね」
私は一人、パンを租借しながら聞こえてくる言葉に意識を集中させていた。結局は自分とは無関係の人間が死んだだけ、蚊帳の外にいる自分たちにとっては、アフリカで毎日死んでいく子供たちのことと大差ないのだろう。パンを体に流し込み、屋上へと足を進める。最近、昼飯を食べた後、屋上に行って全身で風に当たることが日課になっている。
屋上に向かう途中、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。屋上に繋がる扉を開けようとした時、とみに開かれ、慌ただしく何人かの生徒たちが教室の方へと走って行く。今の時間に屋上へ行こうとする私に不審がる視線を向けながらも、特に声を掛けることなく走り去っていく。私はそのまま扉の向こうに歩を進める。屋上は深閑としていて、耳を澄ませば校舎から生徒の声がほのかに聞こえる。私はいつも通り、毎日朝起きて顔を洗う日課と同様、勢いよく欄干を飛び越えた。真下には緑が広がる中庭、真上は憎たらしい蒼天。私は目を閉じて両手を大仰に左右に広げる。あの映像が、風になって私の背中を押してくれるような気がした。あと少し、体重を前に傾けるだけ――
あの映像を思い浮かべる。大丈夫、一瞬で終わる、そう言い聞かせても私の体は微動だにしない。背中に大きな岩を背負っているみたいに、身体は前には傾かない。死にたいと思う気持ちが絶対に死なないことを裏付けて、今日も飛び降りることが出来ないことを痛感させる。
何が私には足りないんだろう
彼女にはあって私にはないもの
私は今日も、この小さくて大きな一歩を踏み出せない。
小さくて大きな一歩 心憧むえ @shindo_mue
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