立つ鳥跡を濁す

心憧むえ

立つ鳥跡を濁す

 人が一人死んでも、その事実がもたらす感情の変化は、顔見知り程度の人にとっては刹那的で、夜が明けた頃には思い出になってしまう。このクラスの連中だって一緒だ。ワールドカップの時だけサッカーを好きになる人のように、まるで当事者みたいに泣き喚くんだ。



「今まで病に伏していた、『可哀そうな子』君が、先日亡くなりました。皆さん、今日は黙祷を捧げます。起立」


 三十数個の椅子の足先が地面に擦れる音が耳朶を打つ。


「それでは、黙祷」


 先程の雑音は嘘のように静まり、瞼を閉じる。女子の鼻をすする音や、嗚咽のような声が、微かに遠くから届いてくる。あいつの死に最も深く拘わっていた俺といえば、身体に表れる変化は何も無く、涙も一滴たりとも流れなかった。


「黙祷終わり」


 その言葉と共に生徒は全員着席する。それからは、今日の授業についての連絡事項をいつもと変わらない声で淡々と音にする。連絡事項を言い終えた先生は、教卓に置いてあった書類を束ねて「それじゃ、ホームルームはここで終わりです」と言い残して教室を後にした。あいつの生きていた痕跡は、無機的な机と偽善的な心の中にしか残っていなかった。虚脱感に蝕まれた身体を動かして、机の横に掛けた鞄の中から教科書を取り出そうとしたとき、こちらを向くつま先が視界に入った。顔を上げると『都合のいい偽善者』さんがこちらを侮蔑の眼差しで見下ろしていた。



「あんた、『可哀そうな子』君と一番親しくしてたのに、涙一つ流さないなんてそれでも親友なの!?」


 怒号が飛び、喧噪はピタリと呼吸を止める。『都合のいい偽善者』さんの友達数人が背後について同じ目つきで俺を見る。


「感情の機微は涙にならないことだってあるんだよ」

「あんたが彼のことをどうでもいいと思ってる冷酷な人間なだけでしょ! 薄っぺらい建前なんか並べないで本心で喋ったらどうなの!」


 怒号をまき散らす彼女の言葉を反芻するたび、感情のボトルに刺さったコルクは徐々に弛緩し、やがて勢いよく飛び出して感情は際限なく溢れ出した。


「俺がなんとも思ってないだと? そんなことあるわけないだろ! 毎日痛みに呻吟するあいつの顔見たことあんのか? 入院費のことで迷惑掛けてるって言って、病人のくせに周りのこと気遣うあいつの顔みたことあんのか? 生きてるだけで迷惑かけてるって言った時のあいつの顔見たことあんのかよ! 何にも知らねぇくせに勝手に自己陶酔して涙流して私の方が悲しいってか?」


 『都合のいい偽善者』さんは言葉を失って、ただたじろぐのみだった。吐露した感情は教室にいる人々を刺して、溶けていった。


「おい、ちょっとこい」


 『正義感の強いクラスメイト』が俺の手を取り引っ張るようにして人気のない屋上まで連れて行った。屋上にたどり着くとようやく手を放し、宥めるように語り掛ける。


「お前が大声上げるなんて、どうしたんだ。なんかあるんなら話してくれよ。他には言わない」


 それから俺はすべて話した。俺が毎日見舞いに行って看病していたこと、あいつが病で倒れたのではなく自殺によって死んだこと、学校ではいつも笑顔の絶えなかったあいつは病院では笑顔一つ見せなかったこと全て。


「俺、どうしたらよかったんだろ、これでよかったのかな」


 欄干に肘をつき項垂れる。自然と涙が落ちた。


「多分だけどさ、最後だけは、多少なりとも幸せだったんじゃないか? 罪悪感や苦痛から解放されて楽になれたんだ。人が生きるこの世の中にだけ幸福があるとは、限らないんじゃないか?」

 違う、きっとそうじゃない。

「近くで見てて分かったんだよ。あいつは死ぬことで幸せになんかなってない。死にたいと思う奴ほど、幸せに生きたいと切望してるんだよ。あいつは、より幸福に近い不幸を選ぶしかなかったんだ」


 答えのない問題を解かされているような気分だ。きっと俺の行いに正解も不正解も存在しない。ちっぽけな俺は茫洋な運命に抗う術も知る由もなく、ひれ伏し、従属するしかなかった。この問はきっといつまでも俺の後ろ髪を引いていくだろう。生徒が移り変わろうとも、いつまでも変わらないチャイムのように。

俺たちの静寂を打ち破る様にチャイムが鳴り響いた。


「授業が始まる、もう行こう」

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立つ鳥跡を濁す 心憧むえ @shindo_mue

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