第58話 私は何も諦めたくないの、あの人の愛も、彼の幸せも
とても、静かな場所だ。
ぼんやりとした意識の中で始めに思ったことはただそれだけだった。
柔らかな温もりに包まれているような、言いようのない安心感がある。その事実にほっと息をつきながら、私はそっと目を開いた。
目覚めた先は、見覚えはないのに懐かしいような、陽だまりのような光に包まれた空間だった。
目の前には、水を張ったような、染み一つない大きな鏡がある。私が覗き込んでも、鏡は私の影を映さない。
その妙な現象にぞわりと背筋が粟立つのを感じながら、私はゆっくりと立ち上がり辺りを見渡した。
人も、動物の気配もない。微かに水の音が聞こえるけれど、それ以外は静寂に包まれている。
それでも、寂しいとか怖いとか感じないことには驚いていた。誰もいないのに、大切な誰かが隣にいるときのような満たされた感覚だ。不思議だけれど、心地よい。
軽く目を瞑り、この不思議な空気感を楽しんでいると、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。
――ふふ、あなたが、あの憐れな命の心を惹きつける人の子ですか。
悠然とした雰囲気を纏っていたが、その声には聞き覚えがある。他でもない、もう何年間もずっと、嫌というほどに耳にしている私の声だったのだから。
ここは、夢なのだろうか。あまりにも妙な現象ばかり続くせいで、自然とそんな考えに至ってしまった。
――星鏡の天使を庇って湖に落ちるなんて、長い歴史の中でもあなたくらいなものです。あの子は今も、あなたにとって大切な存在なのですね。
どこまでも反響するようなその言葉に、自分の身に起こった数々の出来事がぶわりと蘇ってきた。そうだ、私は、湖に落ちて、それから――。
「っ早く目を覚まさなくちゃ。きっと……みんな心配しているわ」
私は助け出されたのだろうか。それすらも分からないけれど、意識を失った私を見守るエリアスの悲痛な表情を想像しただけで酷く胸が痛んだ。優しいセルジュお兄様は、自分のことを責めて思い詰めているかもしれない。
――そう焦らずとも、直に迎えが参ります。憐れな命の祈りが、ひしひしと私に届いていますからね。あなたを帰さないわけにはいきません。
僅かな言葉の間にも滲み出る慈愛の情は、並大抵のものではなかった。何もかもを包み込むような包容力まで感じる。
それに、繰り返される憐れな命や祈りという言葉に、薄々私は勘付き始めていた。
そうか、この場所は、きっと――。
「……あなたが、星鏡の大樹様ですか」
訊いたわけではない。ほとんど断定するように、軽く上を見上げれば、私と同じ声はくすくすと笑った。
――ええ、そうです。流石は『聖女様』なんて呼ばれているだけありますね。
星鏡の大樹本体から揶揄われるとは思ってもみなかった。悠然とした雰囲気に似合わず、案外、この神様は俗っぽいのかもしれないわ、なんて思いながら、私はある決意を込めて、話があります、と切り出した。
「……あなたは、セルジュお兄様と約束なさったそうですね。私の幸せを見届けたら、セルジュお兄様の天使としての命は終わるのだと」
星鏡の大樹は何も話さなかった。無言の肯定のつもりなのだろう。私の話にゆっくりと耳を傾けてくれているように感じた。
「前々から、お訊きしたいと思っていたのです。私の幸せを見届ける、というのは随分曖昧な表現ですね」
――そうでしょうか?
心底意外だとでも言うような星鏡の大樹の答えは、まるで無邪気な子供を相手にしているようで調子が狂う。気を取り直して、私は話を続けた。
「星鏡の大樹様、あなたは私の幸せを見届ける、という言葉をどのような意味合いで仰られたのですか?」
――そうですね、人の子たちの話を踏まえれば、それはやはり、あなたがあの憐れな命の弟と結ばれるのを見届けることでしょう。巷にあふれる恋愛小説などにも、婚姻の儀式を行う日を人生最良の日と定義している物が多く見られます。
星鏡の大樹が恋愛小説なんて読むのか、と内心かなり動揺したが、それは今は置いておこう。想像以上に俗っぽく、人の世界に馴染もうとする無邪気な神様を相手に、私はここぞとばかりにふっと笑ってみせた。
「私の幸せを、その程度のものと思って頂いては困りますわね! 星鏡の大樹様」
威勢よく啖呵を切るように、私はにやりと笑みを深める。
「エリアスとの結婚式が、人生最良の日? 冗談じゃありません」
敢えてゆったりと足を前に進めながら、鼻で笑うように続ける。この場所では、不思議と少しも足は痛まなかった。
「結婚式は、エリアスとの幸せの始まりの日に過ぎませんのよ。エリアスと二人で人生を歩み始めたその日から、私はもっともっと幸せになるのです」
――よく聞く言葉です。世間にありふれた、綺麗ごとにも近いお話でしょう。はっきりした期限を設けるという意味では、やはりあなたの結婚式を区切りにした方がずっと――。
「ではこうしましょう」
思ったよりも頭の固い星鏡の大樹の話を遮って、私は祈るように指を組んだ。
「私は、毎晩あなたに祈ります。人々が唱える祈りの文句に加えて、『今日が今までの人生で一番幸せな日です』と」
私の話が読めないのか、星鏡の大樹は再び黙り込み、静かに耳を傾けているようだった。神様相手に取引をしようとしているこの状況のせいで、内心とんでもなく動揺しているのだが、ここで引くわけにはいかない。
「毎日が今までの人生で一番幸せだと思いながら生きていれば、私は日を追うごとに幸せになっていると言えるでしょう?」
――言葉だけでならば、いくらでも取り繕うことは出来ます。
「ええ、そうでしょうね」
本当に、元人間なのではないかと思うほどに俗世に染まった神様だ。小さく息をついて、呼吸を整える。
やがて私は祈るように組んだ指を強く握りしめて、手の甲に僅かに傷を作った。一筋の赤が手の甲を、腕を伝っていく。夢か現か分からないようなこの場所でも、血は流れるらしい。
「ですから、毎晩の私の祈りに――『今日が今までの人生で一番幸せな日です』という私の言葉に少しでも嘘があれば、裁きを下してくださって結構です。星鏡の大樹様に嘘をついたのですから、この命で償うのが道理でしょう?」
ぽたり、と手の甲から流れた血が一滴足元に零れ落ちた。返事の代わりに長い溜息が聞こえたかと思うと、しばしの間をおいて星鏡の大樹が口を開く。
――あなたは、命を賭けてでも、あの憐れな命を救いたいのですか。そんな面倒な取引をしなくても、あなたは充分幸せになれるはずでしょう。
「確かに、私が愛しているのはエリアスです。それはこの先も変わらない」
焦がれるような恋の熱を、切なさを、愛しさを、教えてくれたのはエリアスだ。その想いが、エリアス以外の誰かに向けられることは絶対にありえない。
「でも、セルジュお兄様も私の――私たちの大切な『お兄様』なんです。大切なお兄様の願いなら、命を賭けたって叶えたい」
真っ直ぐに、声のしていた方を見上げる。欲張りだと思われても構わない。私は、どうしても譲りたくない。
「二度目の人生なんです。一度目の人生で得られなかったものは全部欲しい。エリアスの愛も、セルジュお兄様の幸せも、私は手に入れたいんです」
私は、何としてでも叶えたいのだ。私とエリアス、そしてセルジュお兄様の三人で迎えるハッピーエンドを。
「……そのためならば、私の命を賭けるくらい安いものです」
三人で穏やかに過ごす日々を想像して、思わず頬が緩む。エリアスと二人きりで過ごす甘い時間とはまた違う、陽だまりのような温かい光景だった。
――そんな台詞、あの兄弟の前で言おうものなら泣きつかれますよ。あるいは、自己評価が低い、と叱られるかもしれません。
どこか冗談めかした星鏡の大樹の言葉に、ふっと気が抜けてしまう。星鏡の大樹は、終始ふわふわとしたつかみどころのない相手だが、神様と崇められているだけあって悪い存在ではないのだろうということがひしひしと伝わってきた。
「……どうですか、星鏡の大樹様。この話を受けて――」
――ああ、お迎えが来たようですよ。皆、あなたが目覚めることを心待ちにしているのでしょうね。
気づけば、辺りには星明かりのようなきらきらと煌めく小さな光が舞っていた。とても幻想的な光景だが、星鏡の大樹から明確な返事を得られていないことに焦りを覚える。
「っ星鏡の大樹様、お返事は――」
――生贄に捧げられた憐れな命に甘くなってしまうのは、私の悪い癖ですね。
取引を受けるとも破棄するともとれる発言に余計に胸騒ぎがする。だが、その間にも私の周りを舞う星明かりは強さを増していて、あまりの眩しさに目も開けられないほどだった。
「星鏡の大樹様!!」
――お行きなさい。今後は、湖に落ちるなんてお転婆な真似は避けてくださいね。
くすくすと笑う声が遠ざかっていく。私は必死に光に抗おうとするも、その抵抗も虚しくゆっくりと意識が溶けていくのを感じたのだった。
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