第57話 目を覚ましてくれ、そろそろ君は君のために幸せになるべきだろう
暗い。
橙色の照明が、眠るコレットの横顔をやさしく照らす。彼女の顔を見るには充分な明るさだ。
でも、暗いんだ。昏くて、何も見えなくなる。
ベッドの上に打ち広がったコレットの灰色の髪を、一房手に取って指に絡める。艶のある髪は、室内のちょっとした照明すらも反射して、きらきらと煌めいていた。
一筋の光に縋るように、俺はコレットをひたすらに見つめた。
灰色の睫毛に縁どられた瞼をきっちりと閉じた彼女は、どこか安らかな顔をしている。良い夢でも見ているのだろうか。
「コレット」
ベッドサイドに腰かけながら、今日も眠り続けるコレットの頬を撫でてみる。やはり、彼女はぴくりとも瞼を動かさない。
……コレットが眠っているだけで、この世界はこんなにも暗いのか。
いや、本当はこの暗さには馴染みがある。コレットと出会う前の俺の毎日は、いつもこんな陰鬱さが漂っていた。寂しくて、冷たくて、代わり映えのしない灰色の毎日を送っていた。
そんな俺の日常を、コレットが鮮やかに染め上げたのだ。
「……コレット」
何度名前を呼んでも彼女は目を覚まさない。日に日に大きさを増す絶望に、自分を見失わないようにするのが精一杯だった。
今日で、コレットが湖に落ちてから一週間が経とうとしている。
星鏡の大樹からほど近い、フォートリエ侯爵領の屋敷に運ばれたコレットは、すぐさま医師の診察を受け、適切な手当てを施された。
命に別状はないとのことだったが、コレットは湖に落ちてからというもの、一度も目を覚ましていない。
もし、この先もずっとこのままだったら。
言い知れぬ不安を覚え、そっとコレットに顔を近づける。それだけでもふわりと花のような香りが漂ってきて、ずっとこうしているとその甘さに酔ってしまいそうだった。
「コレット」
もう一度だけ、彼女の名前を呼ぶ。俺が名前を呼べば、いつだって満面の笑みで振り返って、「どうしたの、エリアス」と愛らしい声を聴かせてくれるはずなのに、彼女は今日も夢の中だ。
「……ココ、ごめん、ごめん」
自分の声によく似た、それでいて優しげな雰囲気を伴った声に、自分のいる方とは反対側のベッドサイドに視線を移す。「天使様」――否、兄さんは、今日も縋るような目つきでコレットを眺めていた。コレットを失うのではないか、という兄さんの怯えようは酷いもので、彼女に触れることすら躊躇っているらしい。
兄さんは、口を開けばコレットの名前を愛称で呼ぶか、謝罪をするかのどちらかなのだ。「天使様」にしては本当に鬱々として過ぎていて、ただでさえこちらも苦しいというのに、うんざりしてしまう。
「……そんなに心配なら、手くらい握ってやればいいだろ」
大きな溜息交じりに兄さんを諭せば、彼はやはり怯えたような素振りで首を横に振った。
「駄目だ、僕が触れたら、ココはもっと傷ついてしまう……汚れてしまう……」
いつかの俺みたいなことを言っているな、と再び小さく溜息が零れてしまった。あの頃の俺も、傍から見ればこんな様子だったのだろうか。面倒なことこの上ない。
コレットはよく俺を見捨てずにいてくれたな、と改めて彼女への想いを募らせる。
俺はもう一度溜息をつくと、軽くベッドに身を乗り出し、今にも泣き出しそうな顔でコレットを見つめる兄さんの手をコレットの手に触れさせた。それだけで、兄さんはびくりと肩を震わせる。
……本当に、コレットを傷つけていたのか、疑わしいくらいの怯えようだな。
記憶の中とは程遠い姿を見せる兄さんを眺めながら、俺は一週間前、兄さんと話し合った時のことを思い返した。
一週間前、コレットをフォートリエ侯爵領の屋敷に運び、手当てを終えたコレットに付き添っていると、音もなく「天使様」は現れた。
空はちょうど夕暮れから夜に切り替わる頃合いで、フードを深く被ったまま彼は俺とコレットの方を向いていた。こちらからはその目の動きは伺いようがないが、きっと俺たちを見つめているのだろう。
「……何しに来た」
コレットが湖に落ちたという衝撃が強すぎて、すっかり殺意は失せていたが、それでも好ましい人物ではないことは確かだった。
コレットは、なぜ、こんな奴のことを庇ったのだろう。
そんな、どこか裏切られたような気持ちがあることも確かだった。
もしも、コレットが、こいつに心を寄せていたとしたら――。
考えただけで、気が触れそうだ。思わずぎゅっと手を握りしめ、どろどろとした黒い感情に耐える。
「……ココは、ココの容体は……」
今にも消え入りそうな声で、「天使様」は言った。その呼び方と、どことなく自分に似た声に、何となく胸騒ぎがした。
「……命に別状はないそうだ。まだ、眠っているがな」
「ココ……」
「天使様」はコレットのベッドのすぐ傍まで近づいたが、彼女に触れることはしなかった。俺に遠慮しているのかもしれないと思ったが、どこか怯えるような素振りに、悔しいが共感してしまう。
俺も、同じだからだ。表面上は冷静に振舞ってはいるが、心の内では怖くて怖くて仕方が無かった。このまま、コレットを失ったら、俺は――。
その恐怖を誤魔化すように、俺は「天使様」にベッドサイドの椅子に座るよう促した。
このままここで、目覚めないコレットを囲んで悶々としていると、立ち直れないくらいに病んでしまいそうだ。それならば、少しでも、この「天使様」のことを知る方がいい。
コレットが、俺を愛してくれていることは確かだ。彼女の愛は、一途で、見ようによっては盲目的で、一度だって他人に向けられたことがないことは俺が一番よく知っている。
その彼女が、見捨てられなかった「天使様」に、純粋に興味があったのだ。
「……コレットがお前を庇ったことを尊重して、一旦殺すのは止めにしておいてやる」
コレットが命を賭けて助けた「天使様」を彼女が眠っている間に殺す、なんていう非道な真似をする気は微塵もなかった。殺すとしても、コレットの許可を取ってからだ。
「その代わり、話をしろ。お前は俺がコレットの心臓を抉ったとか、よくわからないことを言っていたな。そのあたりも含めて、全部話せ」
軽く足を組んで睨むように「天使様」を見つめれば、彼は数秒躊躇った後に、小さく頷いて見せた。あれほど猟奇的な一面を見せていたというのに、大人しくなったものだ。余程、コレットが湖に落ちたことが堪えているのだろう。
「……まずは、その陰気なフードを取ってもらおうか。コレットを夢中にさせたご尊顔を拝見しないとな」
多少の嫌味を交えて指示すれば、彼はむっとしたように反論してきた。「天使様」のくせに、意外に短気な奴だ。
「……ココはいつだって君に夢中だった。その言葉は心外だ」
君の惚気話を散々聞かされた僕の身になってくれ、と彼は盛大な溜息を零す。こんな状況だというのに、コレットが第三者に俺の話をしてくれていたことについては、不覚にも嬉しく思ってしまった。
「……煩いな。さっさと素顔を見せろ」
「生意気な口を利くようになったな。昔はまだ可愛げがあったのに……」
そんな文句を零しながら、「天使様」は外套のフードに手をかける。柔らかそうな淡い白金の髪が露わになった。
やがて、ゆっくりとこちらを見上げた「天使様」の素顔に、俺は思わず息を飲む。いや、一瞬、呼吸することも忘れていた。
「っ……お前」
俺よりも少しだけ淡い紺碧の瞳、優し気な眼差し、俺とよく似た目鼻立ち。咄嗟に思い浮かんだ人物は、既にこの世にいない大切な人だった。
「……久しぶりだね、エリアス。こんな状況で挨拶することになるとは思ってもみなかったよ」
しばらく、俺は呆気に取られていた。それくらい、目の前の光景が信じられなかったからだ。まだ、翼の生えた「天使様」を初めて見たときの方が落ち着いてる気がする。
間違いない、記憶の中より随分大人びているが、優し気な雰囲気を纏ったこの人は――。
「……兄、さん?」
どくどくと早まる心臓の音を聞きながら、俺は穴が開くくらいに目の前の人物を見つめていた。彼は純白の翼を揺らめかせながら、小さく微笑む。その笑い方は、俺の知っている兄さんよりずっと寂し気だったが、確かに兄さんのものだった。
「何から、話そうかな……。最初から全部話すとなると、ちょっとした御伽噺よりも長くなりそうなんだけど」
「……それでいい、全部、聞かせてくれ」
何も、状況を把握できていないのだ。目の前の「天使様」が、どうやら兄さんであるらしいということ以外は。
「……もう一度、弟に物語を読み聞かせることになるとはね」
兄さんは、どこか感慨深げにそう呟くと、長い睫毛を軽く伏せて、ぽつりぽつりと語りだした。
あまりにも残酷で、切ない、一人の天使の物語を。
俺は、ゆっくりと時間をかけて、兄さんから全てを聞いた。
この時間軸が、コレットにとっては二度目の時間軸であること。以前の時間軸で、俺は彼女をとても残酷な方法で殺したこと。兄さんは、コレットの幸せを見届けるために「天使」となったこと。その全てを、一つ残らず聞き届けた。
俄かには信じがたい話ばかりだったが、全てが腑に落ちるのも事実だった。コレットが、出会ったころから俺のことを気にかけてくれた理由がようやく明かされて、どこかすっきりとしている自分もいる。
「……馬鹿だな、俺のことなんて放っておけばいいものを」
眠り続けるコレットの髪をそっと梳きながら、彼女に笑いかける。ごく自然に微笑もうとしたはずなのに、何だか今にも泣き出しそうな、情けない笑い方になってしまった。
俺が、コレットを殺したのか。何よりも尊く思える安らかな彼女の呼吸を、この手が止めたのか。
今の俺ならば、絶対にそんなことはしないと断言できるが、今までの自分の心を振り返ると、ありえない話ではないな、と思ってしまった。
以前の時間軸のことなんて、俺には分からない。でも、以前の時間軸の自分も根本的な部分は今の自分と同じであることを考えれば、ある程度の想像はつく。
以前の時間軸の俺は、それはもうコレットに依存していたらしいから、想いが暴走したことは容易に考えられる。彼女が誰の目にも晒されなければいいのに、という願いは、今も時折考えることだから気持ちはよくわかる。
加えて、コレットの愛情は、俺に兄さんの面影を見ているが故に向けられているものだと勘違いしていたとなれば、コレットへ向けた愛が殺意に変わるのも頷ける気がした。
コレットの傍にいられるのなら、俺は兄さんの代わりになろうと考えていた時期が今の俺にもあった。結果的に、コレットが全力でそれを阻止したから今の穏やかな心があるのだが、もしもコレットが止めてくれなかったら、以前と同じ結末を迎えていてもおかしくなかった。
その事実にひやりとしたものを感じながら、俺はそっとコレットの手を握る。
今ならば、コレットが時折俺に怯えた顔を見せたことも納得がいった。あれは、当然の反応だったのだ。むしろ、以前の時間軸でコレットを殺した俺のことを、もう一度愛そうと決めた彼女の一途さに、心を打たれる。
……こんなに深いコレットの愛を、以前の俺は信じられなかったんだな。
いくら謝ったって許されないことをした。兄さんの願いによって無かったことになったとはいえ、今も彼女の記憶の中に刻まれていることは確かだ。
だから、俺に今一度チャンスをくれ。今の俺がするべきことは、謝り倒すことでも、コレットの前から姿を消すことでもない。
今度こそ、コレットを幸せにしなければ。
彼女を幸せにしたいという想いは前々からあったものの、今となってはそれは確かな決意となって胸に刻まれていた。この先一生をかけて、全力でコレットと幸せになってみせる。
「……だから、頼む……目を覚ましてくれ……」
コレットの指に自分の指を絡めた拍子に、ぽたりと一粒の涙が零れ落ちた。涙を流すなんて、いつ以来だろう。コレットが兄さんに攫われているときでさえ、気が張っていたせいか泣くことなんてなかったのに。
「コレット……」
白い指先にそっと口付けても、彼女は目を覚まさない。その事実が、余計に涙を誘った。
兄さんだけが、そんな俺とコレットをとても痛ましそうに眺めている。
分かっている、兄さんだってある意味被害者だ。そして、あらゆる理不尽に飲まれ命を落とした兄さんの願いを、心優しいコレットが踏みにじれなかったことは容易に想像がつく。コレットが幸せになる姿を見届けたら、兄さんは消えてしまうなんて、星鏡の大樹も残酷な条件を出したものだと思う。
でも、だからと言ってコレットを幸せにするという決意が鈍ることは無かった。兄さんのことをどうでもいいと言うつもりはないが、兄さんのためにコレットとの幸せを諦められるほど、俺は善人じゃない。
コレットが目覚めたら、絶対に彼女を幸せにしてみせる。この世の誰よりも、何よりも、幸福な一生を彼女に贈りたい。そのためならば、なんだってすると決めたのだ。
もう、いい、コレット。君は充分悩んだだろう。
そろそろ君は、君の幸せのために生きるべきだ。俺と兄さんには、もう充分すぎるほどの犠牲を払ったのだから。
「……コレット」
だから、お願いだ、コレット。今すぐに目を覚ましてくれ。
その願いを込めて、俺は祈るようにコレットの手を額に当てた。僅かにも動かない彼女の指先に言い知れぬ不安を感じながら、俺はただただコレットに縋り続けるのだった。
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