第56話 分かってる、この悲しい結末は、きっと私のせいなのよね

 かつてないほどの殺意をひしひしと感じながら、ゆっくりと一歩を踏み出したそのとき、一瞬だけ、セルジュお兄様の紺碧の瞳と目が合った。


 それは、とても静かで穏やかな、ひどく寂し気な眼差しだった。とてもじゃないが、これから殺されようとしている人の目ではない。「天使様」というよりは、記憶の中の優しいセルジュお兄様を彷彿とさせる優しい温もりを感じる。


 その瞬間、私は気づいてしまった。ああ、そうか、セルジュお兄様は、誰より私の幸せを願ってくれたこの人は――。


 ……私に殺されることを、望んでいるのね。


 多分、セルジュお兄様はこれで終わりにしようとしているのだ。10年間の天使としての生も、私を苛んだこの数日間も、彼を惑わすばかりの心も何もかも、私に殺されることで終わらせようとしている。


 流石はセルジュお兄様だ、と小さな笑みが零れてしまう。私のことを、きっと誰よりも分かっている。エリアスがセルジュお兄様を殺す事態になっても、セルジュお兄様が自死を図っても、私が思い悩み、心を病むことを見越しているのだ。


 その点、エリアスを守るためという大義名分のもと、私がセルジュお兄様を手にかける分には、客観的に見ても仕方のないことだったと、ある程度の正当性を与えることが出来る。


 きっと、神殿の隠し通路が一つだけ開いていたのも、エリアスが私を迎えに来る可能性を残しておきたかったからなのだろう。セルジュお兄様は、エリアスが私のことを迎えに来た時点で、あの監禁生活を続ける気など無かったのかもしれない。残酷な思考に吹っ切れてしまったと思っていたセルジュお兄様の、最後の理性の証だった。


 ……敵わないわね、セルジュお兄様には。


 再び小さな笑みを零し、私はそっとセルジュお兄様を見つめた。今もエリアスの首筋にナイフを突きつける光景は心臓に悪いが、多分、セルジュお兄様はエリアスを殺す気はないのだろう。


 セルジュお兄様は私の笑みを、セルジュお兄様の命を奪う決心から来るものだと思ったようで、それでいいと言わんばかりの優しい眼差しを向けてきたが、生憎、セルジュお兄様のその計画に乗る気はなかった。


 私は、今も信じているのだ。三人で迎える、ハッピーエンドの可能性を。


 星鏡の大樹に直談判でも何でも、できることは全部やり遂げよう。エリアスだって、セルジュお兄様の過去を知れば、きっと協力してくれるはずだ。セルジュお兄様の、私とエリアスが幸せになる様を傍で見守りたいなんていう、ささやかな願いすら叶わないなんて認めたくない。


 だから、今はまだセルジュお兄様の計画に賛同する訳にはいかない。その想いを込めて、私はそっと短剣の先を自分の首筋に当てた。


「っコレット!?」


 エリアスが、慌てたように私の名を叫ぶ。彼を無視するのは心苦しいが、私はまっすぐにセルジュお兄様を見据えた。


「……エリアスを離して」


 いつになく冷たく響き渡った自分の声に、私自身驚いていた。それはセルジュお兄様も同じだったらしく、戸惑うように私を見上げている。


「……ココ、駄目だよ、危ないから、その剣を下ろして……?」


「あなたがエリアスを離してください。――十数える間に離さなければ、この首を掻き斬ります」


 いつかのセルジュお兄様の言葉を真似して、にこりと微笑んで見せる。セルジュお兄様もエリアスも、まるで怯えたような目で私を見ていた。自惚れた表現になるが、恐らく二人とも、私自身にというよりは、私が自分で自分の首を裂く事態を恐れているのだろう。


「やめろ……コレット!!」


 悲痛な眼差しで私を見上げるエリアスにそっと微笑みかけながら、私はゆっくりと十を数え始めた。私の足の腱を切ったときのセルジュお兄様を思い出しながら。


 あのとき私は、いくつ数えたときに左足を選んだんだっけ。ああ、確か、残すところあと三つとかそのあたりの、かなりぎりぎりの時間だった。


 そして、奇遇にもセルジュお兄様が動き出したのは、いつかの私と同じタイミングだった。残り三つを数えようかという時に、セルジュお兄様はナイフを投げ捨て、瞬く間に私の前に駆け寄ってきた。


 約束通り、私もエリアスの短剣を下ろしてセルジュお兄様を見上げれば、目が合うなり、セルジュお兄様にバルコニーの柵に体を押し付けられた。背中に金属の柵が当たって、鈍く痛む。


「……何を考えているんだ、ココ。自分の身を犠牲にしてあいつを守ろうとするなんて、正気の沙汰じゃない」


「死ぬ気はありませんでしたわ。だって、あなたは私を見捨てられないでしょう? 必ず、私の要求に応えてくださると信じていましたから」


 爽やかな朝の風が、僅かにバルコニーから乗り出した私の体に柔らかく吹き付ける。灰色の髪がゆらゆらと揺れている感覚があった。


 風に煽られて、セルジュお兄様の被っていたフードがするりと落ちた。端整な顔立ちが麗しい朝日に照らされる。


 セルジュお兄様はとても悲痛な面持ちで私を見つめていたが、やがて何かを決心したように歪んだ笑みを浮かべる。それでも紺碧の瞳に宿る寂しさは拭いきれていなかった。


「……君は、本当に甘いよね。君を手放すくらいなら、僕がこの手で殺した方がマシだって考えると思わなかったの?」


 その言葉と同時に、セルジュお兄様の右手が私の首に伸びる。片手とはいえ、息もできないような圧迫感に、私は目を見開いてセルジュお兄様を見上げた。


「ほら、その短剣で早く僕を殺さないと死んじゃうよ? いいの? あいつと幸せにならないまま終わっても」


 セルジュお兄様は歪んだ笑みを浮かべながら挑発していたが、やはりその瞳には隠し切れない寂しさが浮かんでいて、こんな表情のセルジュお兄様を殺すなんて、とても考えられなかった。それに、片手で絞められている首は確かに苦しいが、命の危険を感じるほどではない。かなり手加減されていると感じる。 


 私は小さく首を横に振って、震える手でセルジュお兄様の頬に手を伸ばした。そのまま、小さく微笑みかければ、セルジュお兄様は衝撃を受けたように目を見開く。


「……どう、して」


 囁くような声で、セルジュお兄様は私を責めた。

 

「これでおしまいに出来るんだよ? この数日間、辛かっただろう? 痛かっただろう? 僕を殺せば、君の幸せは全部元通りだ。早く、早く……」


 ぽたり、と一粒の涙が零れ落ちてくる。セルジュお兄様は震える手で私の首を絞めたまま、確かに私だけを見ていた。


「……殺してくれ、ココ。頼む、これが最後の僕の願いだ。君の手で終わらせてほしいんだよ」


 人に殺してくれと頼まれたのは、これで二度目だ。一度目は私への感情に思い悩んだエリアスが、二度目は幸せを諦めたセルジュお兄様が頼み込んで来るなんて、フォートリエ侯爵家の兄弟は似た者同士だ。


 もっとも、その元凶はどちらも私の存在なのだ、と私自身よく分かっていた。


「頼むよ、ココ。僕を憐れに思うなら、どうかその手で終わらせてくれ……。お願いだ、ココ……」


 セルジュお兄様は縋るように告げると、そっと私の肩に顔を埋めた。柔らかい白金の髪が頬をくすぐる。首に手は添えられたままだったが、既に随分緩められていた。


 そのとき、セルジュお兄様の背中越しに、ゆらりと立ち上がったエリアスの姿を見た。セルジュお兄様が投げ捨てたナイフを片手に、頬に付着した血を手の甲で拭っている。神官の服には似合わないはずの物騒な姿だが、妙に絵になる光景だった。


 エリアスの目には、確かな怒りが滲んでいた。この距離でも、思わず肩を竦めるくらい、鬼気迫った表情だった。


「……そうか、君は、僕を殺してくれないんだね」


 耳元でセルジュお兄様がそう囁いたかと思うと、再びセルジュお兄様の手が私の首元に伸びた。先ほどまでとは違い、今度は両手でぎゅっと首を絞められる。


「っ……ぐっ」


 思わず涙目になる程度には、苦しかった。これは、死んでしまうかもしれない。明らかに先ほどまでとは力の入れ方が変わっている。


 短剣を手放し、思わずセルジュお兄様の手を引きはがそうと、爪を食い込ませるほどに握りしめるも、圧倒的な力の差があるためか、セルジュお兄様の手はびくともしなかった。


「ごめんね……ココ。苦しませてばかりでごめん」


 セルジュお兄様は、まるで別れの言葉を述べるような調子で穏やかに微笑んだ。


「僕らにはこんな結末しか許されなかったけど……それでも、僕は君が好きだったよ」


 この感情が恋かどうかは、また別の話だけどね、とセルジュお兄様は笑う。苦しさからなのか、切なさからなのか分からない涙が、私の頬を濡らしていた。


「……今度こそ、エリアスと幸せになるんだよ。僕の、可愛いかわいいココ」


 全てから解き放たれたかのような爽やかな笑みで、セルジュお兄様は私の幸福を祈った。


 刹那、セルジュお兄様の背後で、エリアスがナイフを振り上げる。


 駄目だ、こんな結末は、こんな悲しい結末だけは、見たくないの――。


 そう思ったときには、私は動き出していた。


 渾身の力を振り絞って、セルジュお兄様の体を大きく突き飛ばし、エリアスの刃から逃れさせる。エリアスが振り上げたナイフは、金属の柵に当たって耳障りな高音を響かせた。


 間一髪で、セルジュお兄様を救えた。そのことに安堵するように二人を見つめるも、彼らは絶望という表現が相応しい瞳で私を見据えていた。


 その理由を私はすぐに悟った。


 私の体が、バルコニーの柵から湖へと滑り落ちるように傾いていたのだ。きっと、セルジュお兄様を突き飛ばした反動でバランスを崩してしまったのだろう。背中に言いようのない浮遊感を感じて、さっと背筋が冷たくなる。


 ……このバルコニーは、何階に位置していたかしら。


 なんて、冷静なようで現実逃避でしかないようなことを考えたところで、する、と柵から滑り落ちる。


「コレットっ!!」


 エリアスが咄嗟に伸ばした手に手を伸ばすも、指先が触れ合うことすら許されなかった。


 ふわり、と体が急降下していく感覚に、私は思わず目を瞑る。


 ここで、死んでしまう訳にはいかないのに。


 ……ごめんなさい、ごめんなさい、エリアス、セルジュお兄様。


「コレットっ――!!」


 悲痛なエリアスの叫びを最後に、冷たい湖面に体が打ち付けられる。海に落ちたときよりもずっとずっと体が痛い。


 私は薄れ行く意識の中で、きらきらと輝く湖面を見上げた。体がどんどん沈んでいく。


 ……幸せになりたかっただけなの。


 出来ることなら、三人で。エリアスと私が笑い合っている様子を、セルジュお兄様はふっと微笑みながら見つめていて、時折、私たちをからかったりなんかして。


 セルジュお兄様にからかわれたら、きっとエリアスは無愛想な表情のまま、ふいと視線を逸らしてしまうのだろう。その様子を見て、今度は私もセルジュお兄様につられるようにして笑うのだ。


 考えるだけで、心が温かくなる気がする。冷たい湖の中では、余計にその優しい光景に焦がれてしまう。


 そんな優しい夢を見ながら、私はゆっくりと水の中で目を閉じたのだった。

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