第59話 この寂しさも、理不尽も、幸せに包まれた二人なら分かち合えるわ

 厳かな鐘の音が鳴り響く。


 雲一つなく晴れ渡った空の下、至る所に飾られた甘い花の香りを吸い込んで、私は手に持ったブーケをぎゅっと握り直した。緩やかな夏の終わりの風に、薄いベールが揺れる。


 晴れてよかった、と一人安堵の息をつく。すぐ傍に海の気配を感じて、何となく解放的な気分になった。


 ここまで辿り着くのに随分時間がかかったわね、と感慨深いものを感じながら目の前の教会を改めて見上げる。


 そう、ミストラル公爵領で一番大きな教会で、私とエリアスは今日、結婚式を挙げるのだ。


 この日のために職人が腕によりをかけて仕上げた花嫁衣装をそっと見下ろしてみれば、それだけで頬が緩んでしまう。一度駄目になってしまった花嫁衣装を再現する形で作られたこの純白のドレスは、相変わらずレースや刺繍がふんだんにあしらわれた贅沢なものとなっていた。


 今日一日限りなのが惜しいくらいだ。ドレスを摘まみながら、早くも惜しむような目で細やかな装飾を眺めてしまう。


「よほど気に入ってるんだな」


 隣でふっと笑みを零したのは、礼服をこの上なく素敵に着こなしたエリアスだ。エリアスの深い紺碧の瞳に合わせたような紺色の生地がメインとなった彼の服は、派手な装飾など一切なく、むしろ慎ましい部類に入る礼服なのだが、ここに来るまでに大勢の人の目を奪っていた。


 それくらい、今日のエリアスは素晴らしいのだ。花嫁の私でさえ、目を合わせられないくらいには。


「ま、まあね。式の後も飾っておきたいくらいだわ」


「そうすればいい。コレットの肖像画の隣に飾ろう」


 さらりと出てきた見逃せない話題に、私は軽く眉を顰めた。その拍子に、直視しないようにしていたエリアスの姿をばっちり視界に収めてしまい、一気に脈が早まる。


「……肖像画なんて描くの?」


 肖像画は、あまり好きじゃない。明らかに美化されて描かれるのも傷つくというものだ。


「当然だろう。何枚か描かせるつもりだが……今日の姿は特に絵に残しておかないとな」


 幸せそうに微笑んでいるだけなのに、ただならぬ色気を漂わせるエリアスに私が反論出来る訳もなかった。顔が熱くなるのを感じながら、ふい、と彼から視線を逸らすしかない。


「あ、あなたの好きにしたらいいわ」


「じゃあ俺の書斎用にもう一枚追加で描かせるかな」


 くすくすと笑いながら私をからかうエリアスは相変わらずだ。これから夫婦になろうかという時でも、普段の余裕を保ち続けるのは流石だとしか言いようがないのだが。


「もう、エリアス、あんまりからかわないで頂戴!」


 頬の熱を悟られないように、彼の顔を見ないままに拗ねれば、やはり彼の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


「悪かったよ、追加で描かせるのはやめるから」


「本当?」


 エリアスにしてはすんなりと私の要求を受け入れたわね、と心のどこかで不思議に思いながらも、咄嗟に彼の方を振り返れば、いつの間にか距離を詰めていたらしいエリアスと至近距離で目が合った。


「コレットの顔を見たくなったら、いつでも会いに行けばいいだけだもんな。今日から、同じ屋敷に君がいるわけだし」


 今日のエリアスは、他に類を見ないくらいにご機嫌だ。私だってそうなのだが、普段無愛想なことが多い分、エリアスの方が浮かれて見えるのかもしれない。


 時間です、と傍に控えていたリズが私に合図をする。私はエリアスの腕に自分の手を置くと、どちらからともなく微笑み合いながら、教会の中へと足を踏み入れた。




 私が目を覚ましたのは、湖に落ちてから十日ほどが経った頃のことだった。


 やけに重たい瞼をゆっくりと開けば、視界に最初に映ったのはこの世で一番愛しい人、エリアスだった。


 憔悴しきったようなエリアスは酷く翳った瞳で私を見つめていたが、私と目が合うなり、一も二もなく私に抱きついてきた。


「っ……コレット」


 縋るような、囁くような掠れた声に、私がどれだけエリアスに心配をかけてしまったのかを知った。私も私で、もう一度彼とこうして抱きしめ合えた安心感から、言葉もなく涙を流してしまう。


 もう二度と、この温もりから離れるものか。この先一生ずっと、私は彼の傍で息をしていよう。


 どのくらいの間、私たちは抱きしめ合っていただろう。何の会話もなかったのに、心が通い合っているような気がするのが何とも不思議で、幸せな感覚だった。


「……もう二度と、あんな真似はしないでくれ。絶対にだ、約束してくれ」


 普段の冷静な様子とは裏腹に、まるで子供のように私に縋りながらエリアスは言った。私は何度も頷きながら、そっとエリアスの頭を撫でる。


「心配かけてごめんなさい、エリアス。約束するわ。エリアスが嫌って言っても、あなたの傍から離れたりしない」


 以前の時間軸のエリアスなら、今回のような事件があれば、まず間違いなく私を幽閉しようとしただろうが、今の彼に私の自由を奪う気配はない。やはり、エリアスは変わったのだ。心穏やかに幸せになれる道を、私たちは選べているのだ。


「それはこっちの台詞だ、コレット。君を手放す気はないから覚悟しておくんだな」


 冗談めかした物言いは、未だ縋るような目で私を見つめているエリアスの精一杯の強がりなのだと分かった。目覚めたばかりの私を笑わせようとしてくれているのだろう。


 その不器用な優しさに、抑えきれない愛しさが募って、気づけば私はエリアスの唇に触れるだけの口付けをしていた。


 これからはずっと一緒に生きて行こう、その誓いを込めて。


「君は怪我しているからと思って、我慢してたんだけどな……」


 君が悪いんだぞ、と言ってエリアスは不意に私をベッドに押し倒したかと思うと、そのまま吐息を奪うような口付けをした。目覚めたばかりの私には、少々刺激が強すぎる。


 直に伝わるエリアスの熱に耐えきれなくて、軽く抗うようにエリアスの肩を押せば、彼はようやく私から顔を離した。舌先で軽く唇を舐めながら私を見るエリアスの色気に当てられて、すっかり熱に浮かされたようになってしまった。


「……顔が赤い、コレット」


「当たり前でしょう! もう……」


 くすくすと笑うエリアスは体勢を立て直すと、私の首元まで毛布を引き上げた。毎回思うことだが、あんなにも情熱的な口付けの後に、よくもこんなに冷静でいられるものだ、と多少恨みがましく見つめてしまう。


「医者や君の家族に知らせを送ってくるよ。その間に、君のメイドに食事を運ばせるから、ちゃんと栄養を摂るんだぞ」


「……ありがとう、エリアス」


 思えば、結婚式の前日に姿を晦まして以来、家族やリズには会っていないのだ。時間にすれば、一月にも満たない期間のことだと思うのだが、もう何年も会っていないような懐かしさが込み上げた。


 不意に、セルジュお兄様に囚われていたあの数日間を思い出し、頬に帯びていた熱が少しずつ冷めていくのを感じる。ちらりと室内を見渡したが、セルジュお兄様の姿はどこにも無かった。


 エリアスは、そんな私の些細な表情の変化すらも見逃していなかったようで、どこか気まずそうに口を開いた。


「……兄さんなら、2、3日前に出ていったきり姿を見ていない」


 エリアスが「天使様」をセルジュお兄様だと認識していることに、少なからず衝撃を受けた。何から訊いてよいのか分からず、視線を彷徨わせてしまう。

 

 エリアスはベッドサイドに腰かけたまま、そっと私の髪を撫でると、物思いに耽るように、どこか遠いところを見るような眼差しを向けた。


「……全部、聞いたよ。兄さんから。以前の時間軸のことも、君と兄さんのことも、全部」


 セルジュお兄様は、エリアスに全てを話したのか。いずれは避けては通れぬ道だったのだろうけれど、やはり戸惑いは大きかった。


「あんなに酷いことをした俺を、君は許してくれたんだな。……この先の一生をかけたって、君のひたむきな愛に応えきることは出来ないような気もするが……全力で幸せにする、約束だ」


 エリアスは再び私に顔を近づけると、祈るように額を合わせた。微かに触れる温もりがどこかくすぐったくて、幸せだ。


「……ええ、今度こそ、一緒に生きていきましょうね。あなたの隣にいられるだけで、私はこの世の誰より幸せなのよ」


 大袈裟だな、と笑いながらエリアスはさりげなく私の頬に口付ける。その幸せを噛みしめながら、愛していると告げるように、私はエリアスを抱きしめたのだった。




 それから、治療と並行して再び結婚に向けた目まぐるしい準備が始まり、今日、私とエリアスはようやく結婚式を挙げる運びとなったのだ。


 セルジュお兄様に切られた足の腱は、無理に動かした事もあってか、治りが遅く、まだ完治したわけではないのだけれども、普通に歩く分には差し支えない程度にまで回復していた。結婚式くらいなら、何ら問題もない。


 私とエリアス、それから大神官様の三人だけの静かな教会に敷かれた赤い絨毯の上を、エリアスと歩調を合わせながらゆっくりと進む。参列客は、教会の外で私たちを待っているはずだ。神官様の前で誓いの言葉を交わした後に、彼らの前に姿を現す手筈だった。


 一歩、また一歩と祭壇に近付いていく。祭壇に飾られた、目を見張るほどに繊細な星鏡の大樹の葉のモチーフが、次第に克明になっていった。


 あれから3か月、私もエリアスもセルジュお兄様の姿を見ていない。


 結婚式の準備に追われる中で、私たちは必死にセルジュお兄様のことを捜していた。各神殿を回って神官たちに話を聞いたり、星鏡の大樹のふもとに足繁く通ったりもした。


 それでも、白金の髪を持つ美しい天使を見た、という証言は誰からも得られなかった。


 セルジュお兄様は、もう、この世界から消えてしまったのだろうか。


 星鏡の大樹は、私とエリアスの結婚式の日を待つどころか、私がエリアスと再会を果たしたあの瞬間をもって、私が幸せになったものとみなしてしまったのだろうか。


 星鏡の大樹とのあの取引は所詮、夢に過ぎなかったということか。


 あまりの悔しさに、私は神殿に行くたびに、とても「聖女様」と呼ばれる立場の令嬢としては相応しくないような勢いで、再三取引を呼びかけた。私に出来ることならなんだってやった。


 別れの言葉もなく、私たちとセルジュお兄様を引き離したのだとしたらあんまりだ。とはいえ、直談判とセルジュお兄様の目撃証言を探すことしか出来ない私たちには、状況を打開できるだけの力はなかったのだ。


 エリアスも、セルジュお兄様探しには協力的だった。「天使様」がセルジュお兄様だと知った今、エリアスの心情もかなり変化したらしい。


 ただ、エリアスはセルジュお兄様探しに制限を付けた。


「……兄さんを探すのは、結婚式の日までにしよう。俺だって、叶うものならもう一度兄さんに会って話がしたいが、そのために、兄さんにやり直しの機会を与えてもらった俺たちが、俺たちの人生を有耶無耶にするのは間違っている」


 正論だった。セルジュお兄様のために、今生きている私たちの時間をすべて投げ打つことは、恐らくセルジュお兄様だって望んでいない。


 彼は、誰より私の――私たちの幸せを願ってくれていた人なのだから。


「……兄さんを想って幸せになることを躊躇っていたら、それこそ本末転倒だ。そうだろ?」


 エリアスだって、長いこと悩んだのだろう。そう告げた彼の瞳には、長い葛藤の名残が見受けられた。それでもきっちりと答えを導き出したのだから、私よりずっと強く、頼りになる人だ。


「……そうね、わかったわ」


 口ではそういったものの、心のどこかではやっぱり諦めきれない私もいた。このままセルジュお兄様が見つからなかったら、私は多分、この先ずっと、心の隅に言いようのない空しさを抱えて生きていくのだろう。


 それが悪いことだとは思わない。その寂しさや空しさだって、いつかはきっと私の人生を彩る色の一部になるのだろう。人生において全てが上手くいくなんてことは無いのだから、この別れも運命なのだと受け入れる心の余裕も必要だとは分かっていた。


 ただ、そんな先のことを見据えるには、この感情はまだ生々しくて、時間が解決してくれることもある、という言葉に縋る他に無かった。


 エリアスもまた、そんな割り切れない私の心を察しているのだろう。彼はそっと私の肩を抱きながら、「毎年、初夏には必ず兄さんの墓に行こうな」と約束してくれたのだった。


 エリアスとの結婚式の今日は、エリアスと約束した通りセルジュお兄様探しに一端の区切りをつける日だ。その事実を噛みしめながら、私はエリアスと共に祭壇の前に並ぶ。ちらりとエリアスの横顔を盗み見れば、彼も彼で神妙な面持ちをしていた。


 ぐるぐるとあらゆる感情が溶けあって、なかなか思い通りにならない私の心だが、今この瞬間だけは、エリアスと夫婦になれるという喜びだけで心を満たしても許さるかもしれない。


 そう思い、気分を切り替えてエリアスに笑いかければ、エリアスもそれに応えるように小さく微笑んでくれる。人前では滅多に笑わない彼も、今日だけは例外のようだ。


 そんなささやかな幸せを噛みしめていた瞬間、不意に、背後から懐かしい笑い声がした。


「幸せそうだけど、なんかちょっとぎこちないなあ。緊張しているの?」


 優し気で、穏やかな口調。エリアスによく似た心地の良い青年の声。


 どくん、と脈打った心臓を意識したのはほんの一瞬のことで、私とエリアスは、まるで息を合わせたかのように勢いよく背後を振り返っていた。祭壇の奥に立った大神官様が、まるで呻くような驚き声をあげていたが、今はそれどころではない。


 薄い絹のベール越しに、大きな翼を広げたシルエットが浮かび上がる。エリアスと共に組んだ腕に、どちらからともなく力が入るのが分かった。


 こんな、こんな奇跡があっても許されるのだろうか。


 慌ててベールを捲りあげ、気づけば私とエリアスはほとんど同時に叫んでいた。


「セルジュお兄様!!」

「兄さん!!」

 

 私たちの声に答えるように、純白の翼を広げた「天使様」――セルジュお兄様が笑みを深める。

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