第46話 星鏡の天使の独白2
それからコレットとは実に穏やかな日々を過ごしていた。会う頻度はそれほど多くなかったが、僕が体調を崩せば必ず彼女は駆け付けてくれたし、心配性の彼女のためにも、早く丈夫な体を手に入れなければ、と僕は努力するようになっていた。
以前より健康に関心を持った僕を、母や使用人たちはそれはもう歓迎した。虚弱体質を克服したい、と訴えていた僕に、フォートリエ侯爵領で数か月間療養して、治療に専念しないか、という話が上がったのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。
会わない間に、幼いコレットが僕のことを忘れてしまったら嫌だな、と思いつつ、僕は治療のために約半年間ほどフォートリエ侯爵領で療養することになった。
フォートリエ侯爵領は、星鏡の大樹に一番近い領地であることもあって、どことなく神聖な雰囲気のある土地だ。空気まで澄んでいるような気がしてしまうのは、敬虔な信者である母の影響を、知らずの内に受けているせいかもしれない。
僕自身、星鏡の大樹の加護を心の底から信じているかと言われたら微妙な線だったが、王国中から愛されている星鏡の大樹への畏敬の念は当然備わっていたし、祈ることで清廉な気持ちになれるような気がしていた。そのため、敬虔な信者である母の祈りに付き合う時間はそれほど苦痛でもなかった。
「こうして祈っていたら、きっと星鏡の天使様がセルジュに祝福を運んできてくださるわ。そうしたらきっと、セルジュの体も丈夫になるわよ」
母は、僕を慈しむような優し気な眼差しで、何の疑いもなくそう繰り返した。祈るだけで病が治るならば医師は要らないと思うのだが、わざわざ反発することでもない。僕は静かに頷きながら、星鏡の大樹の葉をモチーフにしたペンダントを握りしめて、毎日のように祈った。
そして、治療と祈り、そんな慎ましやかな生活に慣れてきたころ、僕は、一人の少年と出会った。
黒髪に、濃い紺碧の瞳。年はコレットと同じ、僕よりも3歳年下の男の子。そう、他でもない、腹違いの弟であるエリアス・フォートリエだった。
初めて見るはずの相手なのに、どこか懐かしさと既視感を覚えたのだから、流石は兄弟だな、と思ってしまった。血の繋がりが疑いようもないほどに、僕とエリアスの顔立ちはよく似ていたのだ。お互い、父に似たのだと思う。
ただ、纏う雰囲気はまるっきり別物と言えただろう。エリアスは、幼さに似合わぬ翳った瞳で、この世の全てを蔑むかのような冷たい表情をする子だった。
エリアスは、父上の愛人――エリアスの母君が亡くなってから、以前にも増して父上からも使用人からも冷遇されている、という噂を屋敷に出入りする庭師から聞いた。そもそもエリアスの存在を知っているのは、領地の屋敷に仕える者だけで、この時まで僕も弟がいるなんて知らなかった。
母は、エリアスの名前を聞くなり、不快な罵詈雑言でも聞いたかのように眉を顰め、「そのような穢れた者の名前を、二度と口にしては駄目よ」と僕を叱った。美しい母の顔があそこまで歪むのは初めて見ただけに、余計にエリアスという弟のことが気になってしまったのだ。
何より、同世代の兄弟がいたことが嬉しくて仕方が無かった。腹違いとはいえ、兄弟であることには違いないのだ。エリアスと話をしてみたくて、僕は母の目を盗んで彼に会いに行った。
エリアスは、僕以上に自らの人生を諦めたような様子の子どもだった。てっきり父上と彼の母に当たる愛人には溺愛されているかと思っていたのに、彼らの恋にエリアスの存在は邪魔者でしかなかったようだ。
誰からも愛されず育ち、何かを愛することも知らないエリアスは、とても寂しい少年だった。僕が言葉をかけても、二言三言返せばいい方で、異様なまでに無口なのも心配だった。
僕は、エリアスに色んな話をした。王都のこと、星鏡の大樹のこと、有名な御伽噺のこと、そして、コレットのこと。そのどれもをエリアスは退屈そうに聞いていたが、それでも少しずつ少しずつ、視線が合ったり、相槌を打ってくれる回数が増えていったように思う。
「今度王都に来ることがあったら、きっとココを紹介するよ。とても可愛らしい女の子でね、鈴蘭の花の妖精かと見紛うほどだ」
コレットとやり取りしている手紙には、既にエリアスのことを書いた。まだ返事は帰ってきていないが、コレットのことだから、会ってみたいというだろう。
「……その人は兄さんの婚約者になる人なんだろ。しかも、公爵家のお嬢様なんて……きたない俺なんかを紹介したら、愛想を尽かされるかもしれないぞ」
「エリアス、お前は自分を卑下しすぎだ。エリアスだっていつか、僕にとってのココのような人と出会うかもしれないのに」
そう言うとエリアスは、暗く翳った瞳のまま、どこか自嘲気味な笑みを見せた。年下とは思えぬほどの愁いを帯びた表情に、ますますエリアスのことが心配になる。エリアスはいつもどこか達観していて、そして未来に何一つ希望を持っていないことは明らかだった。
「兄さんの言うように、仮に、俺にもそんな人が出来たとしたら――」
エリアスは、仄暗い瞳をちらりと僕に向けて、ふっと笑った。彼にしては柔らかく微笑んだつもりなのだろうが、相手に緊張を強いる歪んだ微笑だった。
「――その人は、この世の誰より憐れだな。こんな俺に、愛されてしまうんだから」
幼さに似合わぬ歪みに、僕は思わず息を飲む。本当に、年下とは思えないほど深く深く物事を考える奴だ。
自分が愛する相手を憐れんでしまうほどの何かが、エリアスにはあるのだろうか。そんなことを考えたことすらもなかった僕は、僕が好きなコレットも可哀想なんだろうか、と彼女に思いを馳せる。
「君は、僕に愛されて可哀想だね」なんて言ったら、優しいあの子はきっと傷ついたように、整った形の眉を下げて、「どうしてそんなことを言うの、セルジュお兄様」とでもいうんだろう。むしろ、自分勝手な憐みこそが彼女を傷つけるような気がして、決してこんなことは言うまいと心の奥底で決心した。
「まだ出会ってもいない相手を憐れむのはやめたらどうだい、エリアス。君に愛されて幸せだと思う人は必ずいるよ」
「……そんな物好きがいればいいけどな」
エリアスは、絶対にそんな相手は現れないとでも言うように、やっぱり自嘲気味な笑みを浮かべるのだった。父上によく似た端整な顔立ちに惹かれるご令嬢は星の数ほどいるだろうが、きっと、彼が求めているのはそんな表面的な愛情ではないのだろう。
いつか、エリアスの歪みも病みも何もかもを許容して、それでも彼を愛してくれる天使のような存在が現れればいいのにな、と僕は心の中でこの腹違いの弟の幸せを願った。決して愉快な話をした仲ではないのに、いつの間にか僕はエリアスの平穏を祈るようになっていたのだ。
そして、そんな穏やかな日常は突如として崩れ去る。
そう、あれは、僕が領地での療養生活を初めてもうすぐ半年が経とうかというときで、体調もかなり良くなっていたので、直に王都に戻れるだろうという話が上がってきたころだった。
その夜、僕はもうすぐ王都に戻る旨を綴ったコレット当ての手紙をしたためていた。彼女に「お兄様」と慕われている立場として恥ずかしくないように、何度も文章を推敲して、丁寧な文字でようやく書き上げた一枚だった。
ちょうどこの夜から、4年に一度の盛大な祝祭が王国中で開かれており、上手くいけば祝祭の最後の方には王都に滞在しているかもしれなかった。コレットの都合さえよければ、二人で巡って見ても楽しいかもしれない。
正式な誘いではなかったが、手紙の中では軽く祝祭の事にも触れておいた。コレットを溺愛する公爵閣下が祝祭を巡ることを許してくださるか分からないが、ひとまず話題にあげておいても悪くないだろう。コレットには、祝祭にまつわる色々な迷信を教えてあげたい。無邪気な彼女は、迷信や御伽噺が大好きなのだ。
行き違いになってしまっては困るので、返事は要らないと一番最後に書き記し、封筒に入れて封蝋を施す。フォートリエ侯爵家の青薔薇をイメージしやすいように、封蝋は青い蝋燭を溶かして行うのが習わしだ。ミストラル公爵家のワインレッドとは対照的な色合いだが、彼女はこの青色を気に入ってくれているだろうか。
妹のように愛でているコレットの無邪気な笑みを思い出しては、思わず頬を綻ばせてしまう。早く、彼女に会いたい。手土産は何がいいだろうか。
そんなことを考えている最中、ふと、私室の外が騒がしいことに気が付いた。時刻はもう母も就寝していてもおかしくはないような夜更けだというのに、言い争うような母の声と低い男性の声が聞こえてきて妙に胸騒ぎがした。
夜盗や犯罪者の類ならもっと大騒ぎになっているだろうから、恐らくは来客なのだろうが、こんな夜更けに訪ねて来るなんて随分不躾な来訪者だ。僕は私室の扉を軽く開け、騒然とする屋敷の様子を窺った。
「っ……お願いです、きっと、そんなお告げは何かの間違いですわ……! あの子は、ようやく、ようやく元気になったところなのに……っ」
「……あなたほどの敬虔な信者が、事もあろうに『星鏡の大樹』のお告げを疑うなんて……。ここには神官たちもいるのです、どうか、落ち着かれてください」
一瞬、父上がこの屋敷を訪ねて来られたのかと思うほどに、男性の声は父上に似ていたが、その口調と屋敷に漂う緊迫感からしてどうやら違うようだ、と思い直す。少しずつ僕の私室へ近づいてくる一行の言い争う激しさは、刻一刻と増していた。
「っおやめください! セルジュの部屋に近付かないで!!」
「『星鏡の大樹』の御意思に背くというのなら、仕方がありませんね、。……フォートリエ侯爵夫人を取り押さえろ。怪我はさせるなよ。大事な大事な『生贄』の母君だ」
「っやめて! お願い!! やめてっ――」
母の絶叫が響いたのを最後に、一瞬、屋敷は妙な静けさに包まれる。母は口を塞がれたのか、眠らされたのか分からないが、もう、美しい声が聞こえてくることは無かった。
「……早く連れて行こう。あまり大事にしたくない」
再び、父上にも似た男性の声が聞こえたの合図に、何人かがこちらに向かってくるのが分かった。足音からして男性ばかりだろう。
状況はまるでわからないが、これはまずい。使用人たちに助けを求めようにも、すすり泣くような声が聞こえて来るばかりで、既に僕に誰かを頼るという選択肢はなかった。
ひとまず、ここから逃げるべきだ。僕はすぐさま扉から離れ、窓を大きく開け放った。
初夏の夜風が、ぶわりと吹き込んでくる。生憎、僕の部屋は3階にあり、飛び降りればまず怪我をしてしまうような高さだ。下手すれば死ぬかもしれない。
今から、カーテンを結び付けて間に合うだろうか。そんな不安を抱えながらも、僕はナイフでアジュールブルーのカーテンの一部を引き千切り、ロープ代わりに別のカーテンへと結び付けた。強度に不安はあるが、今は贅沢を言っていられない。
結びつけたカーテンを窓の外から垂らし、すぐさま飛び降りようとしたその瞬間。
背後から突然、男性らしき腕が伸びてきて、口と鼻を布で押さえられた。何かの薬品がしみこませてあるのか、強い酒にも似た酷く不快な臭いがする。
すぐ傍で、父上の声とよく似た男性がくすくすと笑っているのが聞こえた気がした。だが、その姿を確認するには既に遅く、僕は次第に溶けていく意識の中で、縋るようにコレットの笑顔を思い浮かべていたのだった。
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