第45話 星鏡の天使の独白1

 君を幸せにしたかった。


 それが叶わなかったとしても、君が幸せになってくれればそれでよかった。


 ただ、それだけで良かった、はずなのに。






「……ココ」


 痛みに泣き叫び、苦しみ疲れて眠ってしまったコレットの灰色の髪を、そっと撫でる。銀にも近いその髪色は、薄暗がりの中でも淡く光るようで、彼女がどれだけその色を忌み嫌っていても僕は好きだった。


 髪と同じ色の灰色の睫毛に縁どられた瞼は、きっちりと閉じられていて、目尻に溜まった涙の名残が白い頬を伝って流れていった。そんな何気ない光景さえも、どこか神々しく思ってしまうのだから、僕もあの病んだ弟のことを馬鹿には出来ないな、と自嘲気味な笑みを零す。


 コレットの左足首からは、今も少量の血が流れだしていて、今更ながら自分のしたことの残酷さを思い知った。ナイフ越しに伝わった、足の腱がぶつり、と切れる感触を思い出して、僅かに寒気を覚える。


 コレットは、どれだけ痛かっただろうか。怖かっただろうか。


 普段はおしとやかに微笑む彼女が、まるで子供のように泣き叫んだくらいなのだから、その痛みは計り知れない。何より、彼女をそこまで苦しめたのが他ならぬ僕なのだということをまざまざと実感して、罪悪感という言葉ではとても済まされないような苦々しい思いを覚える。


「……ごめん、ごめんね、ココ」


 涙目になりながら、眠る彼女にそう囁いたところで、この言葉が届くはずもない。いや、仮にこの謝罪が彼女の耳に届いていたとして、許されるはずが無かった。


 いいんだ、もう、許されなくても。


 コレットの髪を梳きながら、ただただ自嘲気味な笑みを零す。


 ああ、コレットはこんなにも美しく、愛らしい。泣き疲れて眠った彼女の横顔は、まだどこかあどけなさが残っていて、いつまでも見ていられる気がした。

 

 このままずっと、僕に苦しめられ、痛めつけられれば、彼女は不幸になってくれるに違いない。そうしたら、僕らはずっと一緒にいられるんだ。


 だから、泣いて、苦しんで、僕を恨み憎んでくれ。決して僕を許すことのないままに、心を壊して虚ろな瞳で、この忌々しい神殿で一生を過ごしてほしい。

 

 さらさらと水の流れる音と、ココの静かな寝息だけが響く神殿の中を、そっと見渡してみる。真っ白で、清潔感のある美しい神殿だが、どうしたって「セルジュ」としての最期の瞬間を思い起こさせる場所だった。


 渇きに耐えかねて喉に流し込んだ毒の味、数えきれないほど繰り返した祈りの文句、その全てが鮮やかに蘇っては心を蝕んでいく。


「……ココ」


 ああ、あのとき、絶命するあの瞬間も、僕は君のことを考えていたんだっけ。届くはずもない手を虚空に伸ばしながら、もがき苦しんで短い一生を終えたのだ。


 その時叶わなかったコレットとの抱擁を、今更になって取り返すかのように、僕は眠るコレットを膝に乗せて抱きしめた。よほど疲れているのか、抱き起されてもコレットは身じろぎ一つしない。


 脱力し、多少の血を失ったせいでいつもよりも青白いその肌を見ていると、まるでよくできた人形を抱きしめているような感覚だった。間違いなく、この瞬間だけは彼女は僕のものであるはずなのに、何の満足感も達成感も得られない。


 当然だ。誰より幸せになってほしかった愛しい人を、こうして自らの手で傷つけ、苦しめているのだから。実際に痛みを負っているのは彼女なのだから、僕が何を言おうと戯言にしかならないと分かっているが、彼女が血を流す度に、確かに自分の心も壊れていくような気がしていた。


 これで、いいんだよね、ココ。一緒に不幸になろう。そうすれば、僕らはこの先もずっと一緒にいられるんだから。


 もっとも、彼女はそんなこと微塵も望んでいないのだろうけど。自己満足とも言えないような得体の知れない感慨に耽り、誰より大切な少女を傷つけて微笑む自分の気色悪さに、吐き気が込み上げた。

 

 それを誤魔化すように、そっとコレットを抱きしめる力を強め、眠る彼女の頭に顔をすり寄せた。甘い香りの中に血の臭いが混じっていて、また一粒、僕の目から涙が零れ落ちてはコレットの髪を濡らした。


 コレットを起こさないよう、ゆっくりと彼女の灰色の髪を梳きながら、僕はぼんやりと自分の絶命した床の上を眺めた。こんなことなら、僕は生まれてこない方が良かったな、と虚ろな微笑みを浮かべながら、自分の下らない一生を振り返ってみる。






 フォートリエ侯爵家の長男として誕生した僕は、物心がついた時から実に息苦しい毎日を送っていた。


 侯爵家の中でも一、二を争うほどの莫大な資産と広大な領地を持つ裕福な家に生まれ、厳格な父と誰もから慕われる美しい母、お節介なほどに親切な使用人たち、端整な顔立ちで貴婦人を騒がせる父によく似た見目を持った僕は、傍から見れば何不自由ない世間知らずの貴族子息だったのだろうし、実際、僕自身、それを否定できなかった。


 生まれつき病がちのせいで、僕はしょっちゅう母や使用人たちを心配させていたが、それを嬉しいと思ったのは本当に僅かな間のことで、いつからか彼らの看病には、何とも言えない息苦しさがつきまとってならなかった。


 それは多分、母の愛情も使用人たちの優しさも僕自身に向けられたものではなかったからだと思う。


 母は、確かに僕を愛していただろうが、その愛には、僕だけが「父と母の繋がりの証」であるから、という切実な想いが隠されていた。


 母は、ひたすらに父を愛していた。僕が生まれてからは、母とは滅多に顔を合わさずに、愛人に入れ込んでいた人でなしの父を、母はそれでも愛していた。


「あなたは、お父様にそっくりね。将来は社交界の人気者よ」


 そう、楽し気に語った母の言葉を、素直に受け取れなくなったのはいつからだろう。父に似ている、と言われるたびに、この顔が無ければ母は僕をここまで愛することは無かったのだろうな、と複雑な感情を覚えるようになってしまった。


 使用人たちは、母を女神か何かと勘違いしているのではないか、と思うほどの母への心酔ぶりで、時折気持ち悪く思うこともあった。誰にでもはっとするほど美しく優し気な微笑みを浮かべる母は、代々厳格な雰囲気が受け継がれてきたフォートリエ侯爵家の中では良い意味で浮いていたようで、使用人たちからの人気はすさまじかったのだ。


 そういう訳で、使用人たちが僕に向ける親切の中には、明らかに母に気に入られたい、という下心が見え透いたものも多かった。大方、母が溺愛している僕に親切にすれば、母に褒められるとでも思っていたのだろう。


 そんな母と使用人に育てられた結果なのか、物心がついたころには、人の愛情や親切心には何かしらの下心や願望が隠されている物なのだな、と僕は悟ってしまった。いつも息苦しいような気がしていたのは、虚弱な体質のせいもあるかもしれないが、きっと、この余計な勘の良さのせいでもあった。


 この先も、こうして誰かの思惑に利用され、流されて生きていくだけならば、苦しい思いをしてまで体を丈夫にする必要はなさそうだ。そうやって、僕は幼いながらに自分の人生を諦めた。


 ほどほどに治療をして、駄目だったら駄目で死ねばいいだけの話だ。約束されたフォートリエ侯爵家の爵位にも、莫大な資産にも微塵も興味が湧かなかった。


 だからこそ、僕の目にコレットは鮮やかに映ったのかもしれない。


 何の下心もなく、僕を「セルジュお兄様」と慕ってくるコレットが、可愛くて可愛くて仕方が無かった。


 コレットと出会ったのは、確か僕が9歳のころ、コレットはまだ6歳になったばかりの初夏だった。


 普段ろくに会話もしない父上から、「ミストラル公爵家の令嬢のお相手をしろ」なんて指示を受ければ、明言はされていなくても、コレットが僕の婚約者候補であることは何となく察しがついた。ミストラル公爵家ほどの高位の家であれば、幼いうちから婚約者を探すのも珍しい話ではない。


 親たちに用意された席で出会ったコレットは、灰色の髪を緩く巻いて、鮮やかな深紅の瞳で僕をじっと見ていた。ミストラル公爵家の人間は白銀の髪にワインレッドの瞳を持つことで有名だが、コレットの色合いはその通説からは少し外れているようだった。それでも、見目麗しいと評判のミストラル公爵家に属するだけのことはあり、まるで人形のように愛らしい少女だ。


 将来的には、まるで鈴蘭の花のように可憐で美しい淑女になることは間違いないように思われたが、だからと言って6歳の少女に恋をするような事態にはならなかった。一番近い感覚で言えば、可愛い妹が出来た、というべきだろうか。実際、コレットの方も僕を「セルジュお兄様」を呼んでいたのだから、僕のその認識も大方間違いではなかったのだろう。


 コレットは、とても心優しく、他人の感情の動きに敏感な少女だった。母や使用人の言葉で、僕がいつも通り息苦しさを感じているときにも、彼女は酷く心配そうな表情で「セルジュお兄様、大丈夫?」と訊いてきたものだ。


 僕が体調を崩せば、コレットは翌日には見舞いにやってきてくれた。彼女が好きだと言う鈴蘭を小さな手一杯に抱えて、僕の部屋に飛び込んで来る様は、天使のような愛らしさだった。


 6歳やそこらの子どもにとって、自分の好きなものを分け与えるというのは最大の愛情表現に近い。コレットはいつも、彼女が大切に慈しんでいる鈴蘭の花を惜しみなく僕に持ってきてくれた。


「セルジュお兄様、早く元気になってね」


「いつも心配かけてごめんね、ココ」


 ベッドに横になりながら、コレットの他愛もない話を聞いているときが、一番心安らぐ瞬間だった。下手な薬よりもずっと、僕を癒していたことは間違いない。


 ある日、いつものように見舞いに来たコレットは、鈴蘭の花で小さな輪を一生懸命に作っていた。僕はいつものようにベッドに横になりながら、小さな手で必死に何かを作っているコレットの愛らしさに頬を緩めていたものだ。


「ココ、それは何を作っているの?」


 あまりに真剣に作っているから話しかけるのも躊躇われたが、どうしても気になって聞いてしまった。コレットは、顔を上げることなく黙々と作業を進めながらも堪えてくれる。


「あのね、指輪をつくってるの。昨日、リズに教えてもらったんだよ」


「鈴蘭で作った指輪か、すごいね」


 コレットがそれを身に着けたら、きっと花の妖精のような愛らしさなのだろうな、と腑抜けた顔で彼女を見守っていると、やがて彼女は頭を上げ、花が咲くようにぱっと顔を綻ばせた。


「できた! 見て見て、セルジュお兄様!」


 コレットの無邪気な笑みのあまりの可愛さに軽く眩暈を覚えていた僕は、一拍遅れてようやく彼女の手元に視線を送る。コレットの小さな手の中には、不格好な鈴蘭の小さな輪があった。指輪と言われると微妙なサイズ感だが、6歳の少女にしてはきっと器用な方だろう。


「すごいな、ココ。君は何でも作れるんだね」


 少し大げさに褒めすぎただろうか、とコレットの顔色を窺えば、不意に彼女は僕の手を取って、不格好な鈴蘭の指輪を僕の指にはめた。

 

 驚いてコレットを見つめれば、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて告げる。


「これ、セルジュお兄様にあげる! けっこんのやくそく、だよ!」


「結婚の約束?」


「そう、昨日、絵本で見たの。好きな人に指輪をあげたら、ずっと一緒にいられるんでしょう?」


 ありがちな御伽噺でも読んだのだろうか。拙い口調で告げられた「けっこん」がどんなものかもよく分かっていなさそうだが、妹のように可愛がっているコレットに「ずっと一緒にいたい」と思われていたことは純粋に嬉しかった。


 無邪気なコレットの想いには、何の下心も打算もない。だからこそ余計に、何気なく紡がれたコレットのその言葉が僕にとっては宝物になったのだ。


「分かった、約束しようか。僕からもいつか、ちゃんとした指輪を贈らせてもらうね」


「ほんと!? ココも鈴蘭の指輪がいい!」


「鈴蘭の指輪か、いいよ。ちゃんと覚えておくね」


 鈴蘭を模るように、宝石を加工すればいいだろうか。そういえば、プレヴェール商会に腕のいい職人がいると聞いたことがあるから、その人に頼んでみてもいいかもしれない。


 そんな具体的な案を考え始めている自分に、はっと我に返って驚いてしまう。今までは未来の事なんてろくに考えたことも無かったのに。死ぬならいつ死んでしまっても構わない、と無気力に生きてきたはずなのに。


 知らずの内に、僕は随分と変わってしまったらしい。それもこれも、きっと目の前で無邪気に微笑むこの少女のせいだろう。


 今はまだとてもそんな気は起きなくても、僕はいつかこの少女に夢中になる気がする。それも、傍から見れば眉を顰めるくらいに溺愛しそうな気がして、自分の事ながら若干心配になった。とても甘ったるく、くすぐったいような憂いだった。

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