第44話 始めようか、君が不幸になるための悲しい哀しい物語を

「……ん」


 じゃら、と響いた耳慣れない金属音で目が醒める。凍えるほどではないものの、どこか肌寒いような冷気に身を震わせながら、私はゆっくりと瞼を開いた。


「ああ、目が醒めた? おはよう、コレット。まあ、まだ夜なんだけど」


 いつも通りの、穏やかな「天使様」の声。


 ……ああ、私、天使様とお会いしているときに眠ってしまったのだっけ。


 覚醒しきっていない頭を抱えたまま、ゆっくりと声のした方に頭を傾ければ、そこには端整な微笑みを浮かべるセルジュお兄様の姿があった。


 この10年間、一度も解かれていなかった包帯はやっぱり跡形もなく消え去っていて、淡い紺碧の瞳が私を映し出している。だが、記憶の中のセルジュお兄様とは違って、深く暗く翳ったその瞳に、私はたった今自分の身に起こったことを思い出した。


 そうだ、私は、セルジュお兄様に手を引かれて海へ落ちたのだ。そして、そのまま意識を失ってしまったのだろう。


 慌てて飛び起きれば、再び、じゃら、と耳障りな金属音が響くのが分かった。そして、その音の意味にもすぐに気づいてしまう。


「……これ、は……」


 私の左足首には、冷たい金属の鎖が巻き付けられていた。ここがどこかもよく分からないが、妙に小奇麗な白い広間に置かれたベッドに私は横たえられているようだった。


 広間の中には、さらさらと水の流れる音が静かにに響き渡っていて、水音の発生源を辿れば、滝を模した水流が、壁を伝い、小さな川のように床に作られた窪みを流れ、やがて小さな湖のような形で部屋の隅に水が溜まっていた。明らかに人工物の広間の中に、滝と湖を模したような水流があるのは、何だか神秘的な雰囲気だ。


 そんな神聖さすら感じさせる部屋の中で、私の左足首に巻き付けられた鎖だけが浮いていた。明らかに、この場に相応しくない。


 思わず足を曲げて鎖に触れてみるも、鍵がかかっているらしく、自力で解けるような仕組みになっていなかった。がちゃがちゃと無慈悲な金属音が鳴り響く。


 セルジュお兄様は穏やかな笑みでそれを眺めていた。何も言わず、ただ、私が諦めるのを待つかのような余裕を携えて。それが却って不気味さを増し、思わず私は肩を竦めてしまう。


「大丈夫、鍵は僕が持っているから安心していいよ」


 セルジュお兄様は私が捕らえられたベッドの端に腰かけると、酷く優し気な笑みで告げた。訳が分からず、私は縋るようにセルジュお兄様を見つめてしまう。


「安心、って……。この鎖、セルジュお兄様が……?」


「もちろん。ここには、君と僕しかいないからね」


「何で、こんなこと……! それに、ここは一体……」


 もう一度辺りを見渡してみたところで、心当たりなどあるはずもなかった。広間の奥には廊下が見えるから、私の想像以上に広い建物なのかもしれないが、まるで見当もつかない。


「ここは、生贄が捧げられる神殿だよ。一般的には知られていない、神官たちの中でも、儀式に携わる高位の神官だけが知る神殿だ」


「生贄、が……?」


 そう聞くと、白く清潔な広間が途端に息苦しい場所のように思えてならない。思わず視線を逸らしながら、私は必死に現状を把握しようと努めた。


「海水で濡れてしまっていたから、軽く体を拭かせてもらったけど、誓って妙な真似はしていないから安心してね」


 海水、そうだ、私はセルジュお兄様に腕を引かれて海の中へ落ちたのだ。段々と記憶が鮮明になって、ばくばくと心臓が暴れだした。


「……っあんな風に落ちたら、きっとリズは私が身投げしたと思ってしまいますわ! 早く、早く帰らなきゃみんなが心配して――」


「身投げしたって思われた方が都合がいいよね。結婚前夜に婚約者が自死を図ったと聞けば、流石のあいつも傷つきそうだ」


 セルジュお兄様はおよそ穏やかな彼の性格には似合わない、意味ありげな歪んだ微笑みを見せた。それは、以前の時間軸の病んだエリアスの笑い方にあまりにも似すぎていて、身が竦んでしまう。流石は兄弟といったところか、顔立ちだけでなく笑い方まで似ているなんて性質が悪い。


「私がちゃんと話せば、信じてくれるはずです! 私を不幸に……なんて冗談なんでしょう? 早くエリアスのもとへ帰って、セルジュお兄様が消えずに済む方法を一緒に探りましょう?」


「あはは、何言ってるの。今更、君をあいつのもとへなんて帰す訳ないよ」


 セルジュお兄様は端整な笑みを保ったまま、そっと私の頬に触れた。いつも通りの温もりであるはずなのに、触れられた部分から肌が粟立っていく気がしてならない。


「君にはこの先ずっと、ここで不幸せに暮らして貰うんだから」


「何を、仰っているの? セルジュお兄様……」


 セルジュお兄様は甘く優しく微笑みながら、私の灰色の髪を梳く。その仕草は壊れ物に触れるかのような丁寧さで、彼の言葉とのちぐはぐさに頭が混乱してしまいそうだった。


「君が不幸である限り、僕らは一緒にいられるんだから。……まさか、嫌だなんて言わないよね? 君はとっても優しいから、僕のために不幸になってくれるよね?」


 ああ、確かにセルジュお兄様は仰っていた。私の幸福を見届けたら、彼は消えなければならないのだと。


 だからこうして、彼は私を攫ってきたのだろうか。エリアスと引き離すことで、私が幸せになるのを阻止したのだろうか。


 この10年間、誰より私の幸福を願ってくださったのは他ならぬ天使様――そう、セルジュお兄様だったのに。裏切られた、というのとはまた違うけれど、昨日までとは真逆の想いをぶつけられて、激しく動揺している私がいた。


「どうやったら君は不幸になってくれるかなあ……。とりあえず監禁してみたはいいけど、あんまり衝撃受けてないみたいだし……」


「監、禁?」


 その言葉に、途端に不安に飲み込まれる。そうだ、足を鎖で繋がれ、セルジュお兄様の監視下にあるこの状況はまさに監禁以外の何物でもないじゃないか。それなのに、目の前のセルジュお兄様の微笑みがあまりにも穏やかだから、全くもって実感が湧かない。


「あれ、分かってなかったの? ココ。君は僕に捕まっちゃったんだよ。もう二度とここからは出られないし、誰も助けになんて来ない。ここはね、そもそも場所を知っている人間がほんの一握りしかいない上に、生贄が捧げられるとき以外は誰一人立ち寄らないような忌み嫌われている神殿なんだよ」


 セルジュお兄様は、あくまでも穏やかに淡々と言葉を紡いでいく。


「だから、死ぬまでずっと僕と一緒にいようね。大丈夫、食べ物も水も、僕がちゃんと用意してあげるよ。……いい子にしてたらね」


 暗に、私の生殺与奪の権利は彼が握っているのだと強調するようなその言葉に、きゅっと首を絞められるような息苦しさと恐怖を感じた。翳った瞳で笑うセルジュお兄様は、もう、私を傷つけることに躊躇いなどないように思えて、それだけに、たった今紡がれた言葉が嘘ではないのだと思い知ってしまう。


「や……いや、嫌です、セルジュお兄様……」


「残念だけど、嫌、って言われてやめてあげるような優しい人間じゃないんだよ、僕は」


 まあ、人間じゃないんだけどね、とくすくす笑いながら、セルジュお兄様は私の頭を撫でる。その微笑みに、触れ方に、だんだんと恐怖が増して、私はベッドの上で後退るようにしてセルジュお兄様と距離を取った。


 セルジュお兄様が、怖い。目の前で、仄暗い瞳で微笑む彼は、記憶の中のセルジュお兄様とは似ても似つかない、私の知らない誰かだった。


「逃げちゃ駄目じゃないか、ココ。あんまり動くと、鎖で傷がつくよ?」


 その言葉通り、ぴんと張られた鎖に足首が引っ張られ、僅かに皮膚が擦れるような感覚があった。薄皮が破れるようなひりひりとした痛みを感じながらも、必死にセルジュお兄様と距離を取る。


 セルジュお兄様は私のその必死の自衛すらも嘲笑うように、ゆっくりと距離を詰めてくる。そう、必要以上にゆったりとした仕草で、でも着実に私を追い詰めようとしていた。


 その振る舞いは、見ようによっては優雅にも見えるのかもしれないが、今の私には恐怖を助長する以外の何物でもなかった。ただ、小さく首を横に振りながら、涙目で拒絶するしかない。


 怖い、怖くて仕方がない、助けてほしい、ここから逃げ出したいのに鎖がそれを許してくれない。


 ぽたり、と一粒零れた涙と共に気づけば私は呟いていた。


「……エリアス」


 届くはずもない、愛しい人の名前を呼んだ時点で、限界だった。堰を切ったように、ぼろぼろと涙が溢れだす。


 セルジュお兄様は私の涙を満足そうな笑みを眺めながらも、その紺碧の視線には明らかな苛立ちも滲ませていた。涙で歪んだ視界の中で、セルジュお兄様の手が伸びてきて、やがてベッドに押し倒される。


「口を開けばあいつの名前が出てくるわけか……どこまでも忌々しい奴だな……」


 まるで独り言のような調子で紡がれたその言葉はひどく冷え切っていて、相手に緊張を強いるような危うさがあった。


 セルジュお兄様は、私をベットに押し倒したまま、じっと私の目を見つめてくる。やがて、いつも見せていたような穏やかな微笑みを浮かべて、わたしの髪をそっと指で梳いた。


「可哀想なココ。もう二度と会えない人間に縋ることしか出来ないなんてね」


 セルジュお兄様は、甘い幸福に酔いしれるような、不気味なほど端整な笑みを浮かべると、泣きじゃくる私の頬を撫で、涙をすくった。その感触にすらも怯えるばかりで、私はただ首を横に振り続ける。


「お願い、お願いです! セルジュお兄様……! 私を、エリアスのもとへ帰して……っ!!」


「駄目だよ、可愛いココ。君は、あいつの名前でも呼びながら、心を壊して不幸になってくれないと」


 さて、次はどうしようかな、と昼食の献立でも決めるような気軽さで思案する彼は、やがて名案を思い付いたとでも言うように表情を明るくさせた。もっとも、淡い紺碧の瞳は私が涙を零す度に暗く昏く翳っていくのだけれども、最早彼自身、その変化に気づいていないような節があった。


「じゃあ、次は足の腱を切ろうか。いつまでも鎖で過ごすのは不便だろうし」 


 そういって、セルジュお兄様は生成り色の外套から銀色のナイフを取り出す。まるで、あくまでも親切心から思いついたとでも言うような、明るい調子で紡がれた彼の言葉に、得体の知れない寒気が背筋を抜けていくのが分かった。


「足の、腱を切る……? セルジュお兄様、一体、何を仰って……?」


「大丈夫、君に、右か左か選ばせてあげるよ。好きな方を選んでごらん」


 セルジュお兄様は、生成り色の外套の袖を軽く捲りながら、とてもとても幸せそうに微笑んだ。皮肉にも、その甘い笑みは瞳がひどく翳っていることを除けば、記憶の中の優しいセルジュお兄様に瓜二つで、私の中の美しい記憶までもが蝕まれていく気配を感じる。ひしひしと、確実に、救いようのない絶望が私に襲い掛かろうとしていた。


「嫌……嫌です、セルジュお兄様……やめて……っ!!」


「今から十数えるから、その間に右が左か選んでね。時間内に応えなかったら――両方切ることにするよ」


 最後の方は、セルジュお兄様の声とは思えぬほど低い声音だった。それだけで、びくりと肩を震わせて怯えるようにセルジュお兄様を見上げてしまう。


 彼は、そんな私を慰めるかのように再び甘く微笑むと、ナイフを持っていない方の手で私の頬を撫でた。その感触にすら、ぎゅっと目を閉じて恐れを抱いてしまう。


「両方切ったら流石に痛そうだね? ココは体も小さいし……あんまり血が出すぎるようなことは僕もしたくないんだけど、まあ、殺すような真似はしないから安心していいよ。ココといつまでも一緒にいたいから君を攫って来たっていうのに、君が死んでしまったら意味がないからね」


 セルジュお兄様は私の頭を撫でながらそう告げると、不意に私の手を取って、歪んだ熱を帯びた瞳で真っ直ぐに私の目を射抜いた。やがて、私の指先にそっと口付けながら、この世のものとは思えないほど美しい笑みを浮かべて囁く。


「……一緒に、不幸になろうね、ココ」


 その声は、まるで愛を囁くかのような甘さを帯びていた。私の指先に触れた口付けから、彼の執着に絡めとられて身動きが出来ないような気がしてくる。


 ……ああ、私はもう、この綺麗な天使様から逃れられないのかもしれないわ。


 それを覚悟してしまうくらいの歪みが、セルジュお兄様にはあった。つう、と目尻に溜まった涙が横顔を流れ落ちていく。


 セルジュお兄様が、いやに明るい声で十を数え始める声を聞きながら、私は深い深い絶望に心が蝕まれていく気配を確かに感じたのだった。

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